前回はフーケー男爵の傑作『ウンディーネ』(1811年)の筋書きをご紹介するに留まったので、今回からが本題となる。まず、このフーケーの作品には2つの重要モチーフが存在することを確認しておきたい。
第1のモチーフ : 魂を持たない精霊(エレメント)は、人間との愛の絆によって魂を得ることが出来る。
第2のモチーフ : 精霊界が定める貞節を破った人間は、死の報復を受ける。
物語の前半では第1のモチーフが、後半では第2のそれが、巧みに配剤されて効果的な展開を実現しているのがフーケーの名作『ウンディーネ』の特徴だ。そして、その二大モチーフの両方、あるいはどちらか一方を踏襲する形で、ウンディーネの末裔(まつえい)と呼び得るキャラクターたちが、後の時代に何人か登場してくる。今回からの本題というのは、まさにその「ウンディーネと、その末裔」について語ることである。
まずタイトルと基本プロットを限りなく尊重しているという点で、フーケー作品を一番そのままに引き継いでいるのは、ジャン・ジロドゥの戯曲『オンディーヌ』(1939年)であると言えるだろう。ただし、さすがに時代が20世紀に入っていることもあって、ジロドゥの作品には独特のひねりが加えられており、また苦味もある。一回読み通しただけですぐにその含意を読み切れる人は少ないのではないか、という気がする。私の場合は恥ずかしながら、巻末の解説を見て初めて、「ああ、そういう事だったのか」とようやく得心した次第であった。ただ、ジロドゥ作品について語り始めるとクラシック音楽の話から逸れ過ぎてしまうので、ここではその概要だけを書いておくことにしたい。
{ 騎士のハンスは、「陳腐でなく、日常的でなく、擦り切れていないもの」を捜し求める人物で、老漁夫の養女オンディーヌにその理想を見出す。騎士は彼女を妻にする。しかしオンディーヌは、人間たちの社交界にあっては異質な存在にならざるを得ず、騎士は後悔し始める。水界の王はもとから騎士の貞節を疑っていたので、彼の許婚であったベルタと再会させて、その心を試そうとする。ハンスは次第にベルタと、“焼くぼっくいに火がついた”状態になっていく。掟による死をもたらされる運命からハンスを救おうと、オンディーヌは必死に彼をつなぎ止めようと努力する。しかし、ハンスがオンディーヌの真の貞節に気づいたのはベルタとの婚礼のときであり、その時にはすでに彼の脳は狂気に冒され始めていた。死の間際になって初めてハンスは、オンディーヌと愛を自覚し合うひと時を過ごし、そして息を引き取る。水界の王は、オンディーヌへの心づくしとして、騎士ハンスについての記憶を消してやることにする。最後は、王に手を引かれて去って行くオンディーヌの一言で幕となる。「この人を、生き返らせてはやれないの?惜しいわ。きっと好きになれたのに・・」。 }
さて、上で最初に確かめた2つの重要モチーフのうち、第1のモチーフを踏襲した一番の有名作が、おそらくアンデルセンの『人魚姫』(1837年)ということになる。人間の姿になって悲しい日々を送った後に、空気の精として昇華するこの海の精霊は、まぎれもなくウンディーネの末裔である。ウンディーネとの共通点としては、「魂を持たない人魚は、毎日楽しく遊んで300年ほど生きた後、泡になっておしまい」という前提がまず指摘できる。そして、人間の王子に恋をした主人公が、「人間との愛の絆によって、不滅の魂を得られる」という人生を切望し、魔女の力で人間にしてもらう点がそれに続く。
魚だった下半身が魔の薬によって二本の脚に分かれる時の激痛、そしてその後も一歩歩くたびにナイフで切られて血を流すような痛みに耐えねばならない宿命。その上彼女は、その姿を得る代償として魔女に舌を切られて、一番の魅力であった声まで失う。人間の姿になった彼女が王子に対して出来ることは、目で気持ちを訴えることと、痛みに耐えつつ美しい踊りを披露することだけである。しかも王子の方は、自分が海で溺死するところを救ってくれたのが別の女性であると考え(※これは仕方ないことだが)、人魚姫のことに最後まで気づかずじまいで終わってしまうのだ。さらに作者アンデルセンは邪悪にも(?)、王子との縁談に現れる隣国の王女を王子の理想通りの姿で登場させ、ますます主人公を蚊帳の外に追いやる展開を仕掛ける。王子と王女の婚礼の日に水夫たちが楽しく踊るのを見て人魚姫は、自分が初めて海面に出た時の感動を思い出して一緒に踊りだす。そしてそれは、彼女の生涯最後にして最高の踊りとなった。
人魚姫が元の姿にもどれるただ一つの方法は、魔のナイフで王子を殺してその血を脚に浴びること。彼女の姉たちが、そのナイフを得るために自分たちの髪の毛を魔女に与え、丸坊主になった姿で海面に現れる場面が結構泣かせる。しかし、人魚姫は王子を殺したりはせず、夜明けとともに自らが消滅する道を選ぶ。彼女はその後、「空気の精として300年間善行を続ければ、永遠の魂を得られる」という資格を身につけて、天に昇っていく。
この『人魚姫』がすぐれて童話的なのは、思春期の娘が持つエロスへの衝動をモチーフにしながらも、それを直接的な形では出さず、むしろ多分に教訓的な要素を散りばめた点にあると言えそうだ。熱く燃える思いで自らの人生を決めること、苦難に踏み切る勇気、つらい思いに耐える心、そして自分の決断と行動に最後はしっかりと責任を取る潔い態度。いずれを取っても、こよなく教育的な材料ばかりである。ついでに言えば、人魚から人間の姿に変わったことで、彼女に出来るようになった事が少なくとも一つあったのだが、アンデルセン作品にはそのあたりを偲ばせる記述は全く見当たらない。それは、「好きな人のために脚を開く」という行為である。そういう深読みは大人になってからどうぞ、というところだろうか。
さて、アンデルセンの名作をもとに、約44分あまりに及ぶ長大な交響詩を書いたのが、アレクサンダー・フォン・ツェムリンスキーであった。マゼールの指揮による<抒情交響曲>が発売された時に初めてこの作曲家の名を知った、という方も多くおられるのではないだろうか。交響詩<人魚姫>について言えば、私の場合、リッカルド・シャイーの指揮による演奏をFMで聴いたのが最初だった。CDは、単に値段が安いからという理由で、数ヶ月前にジェイムズ・コンロンの指揮によるEMI盤を買った。嬉しいことに、これは演奏が良かった。(※廉価盤なので、作品の内容理解に役立つ解説は皆無に等しかったが。)
この長大な交響詩は、3つの部分で構成されている。まず第1部冒頭、不気味さを漂わせた海の情景が巧みな管弦楽法によって描かれる。実に巧い。2分半ぐらいのところで、ヴァイオリン・ソロが人魚姫のテーマを奏でる。これは先々、いろいろな場面で繰り返し利用される重要なテーマである。第1部は約17分の曲だが、真ん中あたり、9分半を過ぎたぐらいから音楽が激しさを増して、嵐の描写となる。王子の船が難破する場面だ。そして13分半を過ぎたあたりから優しいメロディが流れ始めて、嵐のおさまりと人魚姫の歌を表す場面になり、第1部を締めくくる。最後に響いてくる鐘の音が印象的だ。
第2部は、海の中。魔女のところへ人魚姫が行く場面。冒頭から極めて壮麗な音楽が聴かれるが、内容的には怖いところでもある。ものの本によると、ここで聞かれる打楽器のドン!!という衝撃音は、人魚姫が魔女に舌を切断された場面であると解釈出来るらしい。むぐぐっ・・。演奏時間は約13分。
最後の第3部は、人間界で悲しい日々を送る人魚姫を描く。冒頭から、悲しみにあふれる美しい旋律が出て来る。ここは約14分の曲だが、真ん中あたり、約8分のところで音楽が不安定に揺れるのは、魔のナイフを手にした人魚姫の、心の葛藤だろうか?その約40秒後から、第1部の冒頭で聴かれた海のテーマが再現されて出て来る。これで終曲が近いことを予感させる。10分半ぐらいのところからは、いわゆる“浄化の音楽”が始まっていると解釈してよいだろう。空気の精に変容する人魚姫を表す、美しい終曲である。
さて、フーケーの『ウンディーネ』に見られる重要モチーフのうち、第2のモチーフを踏襲した作品についてはもっと後々の回に譲ることにして、次回は、フランス語流に<オンディーヌ>と表記されたタイトルを持つクラシック音楽の作品群から、特に知名度の高い四つを採り上げて語ってみたいと思う。題して、「四つの<オンディーヌ>」である。
【参考文献】
『ドイツ・ロマン派全集 第5巻 フケー・・・シャミッソー』深見茂、池内紀・訳(国書刊行会)
『あなたの知らないアンデルセン 人魚姫』長島要一・訳(評論社)
第1のモチーフ : 魂を持たない精霊(エレメント)は、人間との愛の絆によって魂を得ることが出来る。
第2のモチーフ : 精霊界が定める貞節を破った人間は、死の報復を受ける。
物語の前半では第1のモチーフが、後半では第2のそれが、巧みに配剤されて効果的な展開を実現しているのがフーケーの名作『ウンディーネ』の特徴だ。そして、その二大モチーフの両方、あるいはどちらか一方を踏襲する形で、ウンディーネの末裔(まつえい)と呼び得るキャラクターたちが、後の時代に何人か登場してくる。今回からの本題というのは、まさにその「ウンディーネと、その末裔」について語ることである。
まずタイトルと基本プロットを限りなく尊重しているという点で、フーケー作品を一番そのままに引き継いでいるのは、ジャン・ジロドゥの戯曲『オンディーヌ』(1939年)であると言えるだろう。ただし、さすがに時代が20世紀に入っていることもあって、ジロドゥの作品には独特のひねりが加えられており、また苦味もある。一回読み通しただけですぐにその含意を読み切れる人は少ないのではないか、という気がする。私の場合は恥ずかしながら、巻末の解説を見て初めて、「ああ、そういう事だったのか」とようやく得心した次第であった。ただ、ジロドゥ作品について語り始めるとクラシック音楽の話から逸れ過ぎてしまうので、ここではその概要だけを書いておくことにしたい。
{ 騎士のハンスは、「陳腐でなく、日常的でなく、擦り切れていないもの」を捜し求める人物で、老漁夫の養女オンディーヌにその理想を見出す。騎士は彼女を妻にする。しかしオンディーヌは、人間たちの社交界にあっては異質な存在にならざるを得ず、騎士は後悔し始める。水界の王はもとから騎士の貞節を疑っていたので、彼の許婚であったベルタと再会させて、その心を試そうとする。ハンスは次第にベルタと、“焼くぼっくいに火がついた”状態になっていく。掟による死をもたらされる運命からハンスを救おうと、オンディーヌは必死に彼をつなぎ止めようと努力する。しかし、ハンスがオンディーヌの真の貞節に気づいたのはベルタとの婚礼のときであり、その時にはすでに彼の脳は狂気に冒され始めていた。死の間際になって初めてハンスは、オンディーヌと愛を自覚し合うひと時を過ごし、そして息を引き取る。水界の王は、オンディーヌへの心づくしとして、騎士ハンスについての記憶を消してやることにする。最後は、王に手を引かれて去って行くオンディーヌの一言で幕となる。「この人を、生き返らせてはやれないの?惜しいわ。きっと好きになれたのに・・」。 }
さて、上で最初に確かめた2つの重要モチーフのうち、第1のモチーフを踏襲した一番の有名作が、おそらくアンデルセンの『人魚姫』(1837年)ということになる。人間の姿になって悲しい日々を送った後に、空気の精として昇華するこの海の精霊は、まぎれもなくウンディーネの末裔である。ウンディーネとの共通点としては、「魂を持たない人魚は、毎日楽しく遊んで300年ほど生きた後、泡になっておしまい」という前提がまず指摘できる。そして、人間の王子に恋をした主人公が、「人間との愛の絆によって、不滅の魂を得られる」という人生を切望し、魔女の力で人間にしてもらう点がそれに続く。
魚だった下半身が魔の薬によって二本の脚に分かれる時の激痛、そしてその後も一歩歩くたびにナイフで切られて血を流すような痛みに耐えねばならない宿命。その上彼女は、その姿を得る代償として魔女に舌を切られて、一番の魅力であった声まで失う。人間の姿になった彼女が王子に対して出来ることは、目で気持ちを訴えることと、痛みに耐えつつ美しい踊りを披露することだけである。しかも王子の方は、自分が海で溺死するところを救ってくれたのが別の女性であると考え(※これは仕方ないことだが)、人魚姫のことに最後まで気づかずじまいで終わってしまうのだ。さらに作者アンデルセンは邪悪にも(?)、王子との縁談に現れる隣国の王女を王子の理想通りの姿で登場させ、ますます主人公を蚊帳の外に追いやる展開を仕掛ける。王子と王女の婚礼の日に水夫たちが楽しく踊るのを見て人魚姫は、自分が初めて海面に出た時の感動を思い出して一緒に踊りだす。そしてそれは、彼女の生涯最後にして最高の踊りとなった。
人魚姫が元の姿にもどれるただ一つの方法は、魔のナイフで王子を殺してその血を脚に浴びること。彼女の姉たちが、そのナイフを得るために自分たちの髪の毛を魔女に与え、丸坊主になった姿で海面に現れる場面が結構泣かせる。しかし、人魚姫は王子を殺したりはせず、夜明けとともに自らが消滅する道を選ぶ。彼女はその後、「空気の精として300年間善行を続ければ、永遠の魂を得られる」という資格を身につけて、天に昇っていく。
この『人魚姫』がすぐれて童話的なのは、思春期の娘が持つエロスへの衝動をモチーフにしながらも、それを直接的な形では出さず、むしろ多分に教訓的な要素を散りばめた点にあると言えそうだ。熱く燃える思いで自らの人生を決めること、苦難に踏み切る勇気、つらい思いに耐える心、そして自分の決断と行動に最後はしっかりと責任を取る潔い態度。いずれを取っても、こよなく教育的な材料ばかりである。ついでに言えば、人魚から人間の姿に変わったことで、彼女に出来るようになった事が少なくとも一つあったのだが、アンデルセン作品にはそのあたりを偲ばせる記述は全く見当たらない。それは、「好きな人のために脚を開く」という行為である。そういう深読みは大人になってからどうぞ、というところだろうか。
さて、アンデルセンの名作をもとに、約44分あまりに及ぶ長大な交響詩を書いたのが、アレクサンダー・フォン・ツェムリンスキーであった。マゼールの指揮による<抒情交響曲>が発売された時に初めてこの作曲家の名を知った、という方も多くおられるのではないだろうか。交響詩<人魚姫>について言えば、私の場合、リッカルド・シャイーの指揮による演奏をFMで聴いたのが最初だった。CDは、単に値段が安いからという理由で、数ヶ月前にジェイムズ・コンロンの指揮によるEMI盤を買った。嬉しいことに、これは演奏が良かった。(※廉価盤なので、作品の内容理解に役立つ解説は皆無に等しかったが。)
この長大な交響詩は、3つの部分で構成されている。まず第1部冒頭、不気味さを漂わせた海の情景が巧みな管弦楽法によって描かれる。実に巧い。2分半ぐらいのところで、ヴァイオリン・ソロが人魚姫のテーマを奏でる。これは先々、いろいろな場面で繰り返し利用される重要なテーマである。第1部は約17分の曲だが、真ん中あたり、9分半を過ぎたぐらいから音楽が激しさを増して、嵐の描写となる。王子の船が難破する場面だ。そして13分半を過ぎたあたりから優しいメロディが流れ始めて、嵐のおさまりと人魚姫の歌を表す場面になり、第1部を締めくくる。最後に響いてくる鐘の音が印象的だ。
第2部は、海の中。魔女のところへ人魚姫が行く場面。冒頭から極めて壮麗な音楽が聴かれるが、内容的には怖いところでもある。ものの本によると、ここで聞かれる打楽器のドン!!という衝撃音は、人魚姫が魔女に舌を切断された場面であると解釈出来るらしい。むぐぐっ・・。演奏時間は約13分。
最後の第3部は、人間界で悲しい日々を送る人魚姫を描く。冒頭から、悲しみにあふれる美しい旋律が出て来る。ここは約14分の曲だが、真ん中あたり、約8分のところで音楽が不安定に揺れるのは、魔のナイフを手にした人魚姫の、心の葛藤だろうか?その約40秒後から、第1部の冒頭で聴かれた海のテーマが再現されて出て来る。これで終曲が近いことを予感させる。10分半ぐらいのところからは、いわゆる“浄化の音楽”が始まっていると解釈してよいだろう。空気の精に変容する人魚姫を表す、美しい終曲である。
さて、フーケーの『ウンディーネ』に見られる重要モチーフのうち、第2のモチーフを踏襲した作品についてはもっと後々の回に譲ることにして、次回は、フランス語流に<オンディーヌ>と表記されたタイトルを持つクラシック音楽の作品群から、特に知名度の高い四つを採り上げて語ってみたいと思う。題して、「四つの<オンディーヌ>」である。
【参考文献】
『ドイツ・ロマン派全集 第5巻 フケー・・・シャミッソー』深見茂、池内紀・訳(国書刊行会)
『あなたの知らないアンデルセン 人魚姫』長島要一・訳(評論社)