クラシック音楽オデュッセイア

2009年の大病以来、月1回程度の更新ペース。クラシックに限らず、身の回りの事なども、気の向くままに書いております。

『ウンディーネ』、『オンディーヌ』、『人魚姫』

2005年12月09日 | エトセトラ
前回はフーケー男爵の傑作『ウンディーネ』(1811年)の筋書きをご紹介するに留まったので、今回からが本題となる。まず、このフーケーの作品には2つの重要モチーフが存在することを確認しておきたい。

第1のモチーフ : 魂を持たない精霊(エレメント)は、人間との愛の絆によって魂を得ることが出来る。
第2のモチーフ : 精霊界が定める貞節を破った人間は、死の報復を受ける。

物語の前半では第1のモチーフが、後半では第2のそれが、巧みに配剤されて効果的な展開を実現しているのがフーケーの名作『ウンディーネ』の特徴だ。そして、その二大モチーフの両方、あるいはどちらか一方を踏襲する形で、ウンディーネの末裔(まつえい)と呼び得るキャラクターたちが、後の時代に何人か登場してくる。今回からの本題というのは、まさにその「ウンディーネと、その末裔」について語ることである。

まずタイトルと基本プロットを限りなく尊重しているという点で、フーケー作品を一番そのままに引き継いでいるのは、ジャン・ジロドゥの戯曲『オンディーヌ』(1939年)であると言えるだろう。ただし、さすがに時代が20世紀に入っていることもあって、ジロドゥの作品には独特のひねりが加えられており、また苦味もある。一回読み通しただけですぐにその含意を読み切れる人は少ないのではないか、という気がする。私の場合は恥ずかしながら、巻末の解説を見て初めて、「ああ、そういう事だったのか」とようやく得心した次第であった。ただ、ジロドゥ作品について語り始めるとクラシック音楽の話から逸れ過ぎてしまうので、ここではその概要だけを書いておくことにしたい。

{ 騎士のハンスは、「陳腐でなく、日常的でなく、擦り切れていないもの」を捜し求める人物で、老漁夫の養女オンディーヌにその理想を見出す。騎士は彼女を妻にする。しかしオンディーヌは、人間たちの社交界にあっては異質な存在にならざるを得ず、騎士は後悔し始める。水界の王はもとから騎士の貞節を疑っていたので、彼の許婚であったベルタと再会させて、その心を試そうとする。ハンスは次第にベルタと、“焼くぼっくいに火がついた”状態になっていく。掟による死をもたらされる運命からハンスを救おうと、オンディーヌは必死に彼をつなぎ止めようと努力する。しかし、ハンスがオンディーヌの真の貞節に気づいたのはベルタとの婚礼のときであり、その時にはすでに彼の脳は狂気に冒され始めていた。死の間際になって初めてハンスは、オンディーヌと愛を自覚し合うひと時を過ごし、そして息を引き取る。水界の王は、オンディーヌへの心づくしとして、騎士ハンスについての記憶を消してやることにする。最後は、王に手を引かれて去って行くオンディーヌの一言で幕となる。「この人を、生き返らせてはやれないの?惜しいわ。きっと好きになれたのに・・」。 }

さて、上で最初に確かめた2つの重要モチーフのうち、第1のモチーフを踏襲した一番の有名作が、おそらくアンデルセンの『人魚姫』(1837年)ということになる。人間の姿になって悲しい日々を送った後に、空気の精として昇華するこの海の精霊は、まぎれもなくウンディーネの末裔である。ウンディーネとの共通点としては、「魂を持たない人魚は、毎日楽しく遊んで300年ほど生きた後、泡になっておしまい」という前提がまず指摘できる。そして、人間の王子に恋をした主人公が、「人間との愛の絆によって、不滅の魂を得られる」という人生を切望し、魔女の力で人間にしてもらう点がそれに続く。

魚だった下半身が魔の薬によって二本の脚に分かれる時の激痛、そしてその後も一歩歩くたびにナイフで切られて血を流すような痛みに耐えねばならない宿命。その上彼女は、その姿を得る代償として魔女に舌を切られて、一番の魅力であった声まで失う。人間の姿になった彼女が王子に対して出来ることは、目で気持ちを訴えることと、痛みに耐えつつ美しい踊りを披露することだけである。しかも王子の方は、自分が海で溺死するところを救ってくれたのが別の女性であると考え(※これは仕方ないことだが)、人魚姫のことに最後まで気づかずじまいで終わってしまうのだ。さらに作者アンデルセンは邪悪にも(?)、王子との縁談に現れる隣国の王女を王子の理想通りの姿で登場させ、ますます主人公を蚊帳の外に追いやる展開を仕掛ける。王子と王女の婚礼の日に水夫たちが楽しく踊るのを見て人魚姫は、自分が初めて海面に出た時の感動を思い出して一緒に踊りだす。そしてそれは、彼女の生涯最後にして最高の踊りとなった。

人魚姫が元の姿にもどれるただ一つの方法は、魔のナイフで王子を殺してその血を脚に浴びること。彼女の姉たちが、そのナイフを得るために自分たちの髪の毛を魔女に与え、丸坊主になった姿で海面に現れる場面が結構泣かせる。しかし、人魚姫は王子を殺したりはせず、夜明けとともに自らが消滅する道を選ぶ。彼女はその後、「空気の精として300年間善行を続ければ、永遠の魂を得られる」という資格を身につけて、天に昇っていく。

この『人魚姫』がすぐれて童話的なのは、思春期の娘が持つエロスへの衝動をモチーフにしながらも、それを直接的な形では出さず、むしろ多分に教訓的な要素を散りばめた点にあると言えそうだ。熱く燃える思いで自らの人生を決めること、苦難に踏み切る勇気、つらい思いに耐える心、そして自分の決断と行動に最後はしっかりと責任を取る潔い態度。いずれを取っても、こよなく教育的な材料ばかりである。ついでに言えば、人魚から人間の姿に変わったことで、彼女に出来るようになった事が少なくとも一つあったのだが、アンデルセン作品にはそのあたりを偲ばせる記述は全く見当たらない。それは、「好きな人のために脚を開く」という行為である。そういう深読みは大人になってからどうぞ、というところだろうか。

さて、アンデルセンの名作をもとに、約44分あまりに及ぶ長大な交響詩を書いたのが、アレクサンダー・フォン・ツェムリンスキーであった。マゼールの指揮による<抒情交響曲>が発売された時に初めてこの作曲家の名を知った、という方も多くおられるのではないだろうか。交響詩<人魚姫>について言えば、私の場合、リッカルド・シャイーの指揮による演奏をFMで聴いたのが最初だった。CDは、単に値段が安いからという理由で、数ヶ月前にジェイムズ・コンロンの指揮によるEMI盤を買った。嬉しいことに、これは演奏が良かった。(※廉価盤なので、作品の内容理解に役立つ解説は皆無に等しかったが。)

この長大な交響詩は、3つの部分で構成されている。まず第1部冒頭、不気味さを漂わせた海の情景が巧みな管弦楽法によって描かれる。実に巧い。2分半ぐらいのところで、ヴァイオリン・ソロが人魚姫のテーマを奏でる。これは先々、いろいろな場面で繰り返し利用される重要なテーマである。第1部は約17分の曲だが、真ん中あたり、9分半を過ぎたぐらいから音楽が激しさを増して、嵐の描写となる。王子の船が難破する場面だ。そして13分半を過ぎたあたりから優しいメロディが流れ始めて、嵐のおさまりと人魚姫の歌を表す場面になり、第1部を締めくくる。最後に響いてくる鐘の音が印象的だ。

第2部は、海の中。魔女のところへ人魚姫が行く場面。冒頭から極めて壮麗な音楽が聴かれるが、内容的には怖いところでもある。ものの本によると、ここで聞かれる打楽器のドン!!という衝撃音は、人魚姫が魔女に舌を切断された場面であると解釈出来るらしい。むぐぐっ・・。演奏時間は約13分。

最後の第3部は、人間界で悲しい日々を送る人魚姫を描く。冒頭から、悲しみにあふれる美しい旋律が出て来る。ここは約14分の曲だが、真ん中あたり、約8分のところで音楽が不安定に揺れるのは、魔のナイフを手にした人魚姫の、心の葛藤だろうか?その約40秒後から、第1部の冒頭で聴かれた海のテーマが再現されて出て来る。これで終曲が近いことを予感させる。10分半ぐらいのところからは、いわゆる“浄化の音楽”が始まっていると解釈してよいだろう。空気の精に変容する人魚姫を表す、美しい終曲である。

さて、フーケーの『ウンディーネ』に見られる重要モチーフのうち、第2のモチーフを踏襲した作品についてはもっと後々の回に譲ることにして、次回は、フランス語流に<オンディーヌ>と表記されたタイトルを持つクラシック音楽の作品群から、特に知名度の高い四つを採り上げて語ってみたいと思う。題して、「四つの<オンディーヌ>」である。

【参考文献】

『ドイツ・ロマン派全集 第5巻 フケー・・・シャミッソー』深見茂、池内紀・訳(国書刊行会)
『あなたの知らないアンデルセン 人魚姫』長島要一・訳(評論社)
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フーケーの『ウンディーネ』

2005年12月05日 | エトセトラ
水の妖精ウンディーネ。波を意味するラテン語のウンダ(Unda)からその名を授かったこの魅惑的な妖精は、クラシック音楽の作品史上に一大系譜を持っている。それゆえ、前回語った「四大元素の妖精たち」の中でも、ウンディーネには特別な存在感がある。では、その直接的なきっかけとなった文学作品は何かと言えば、やはりフリードリッヒ・ド・ラ・モット・フーケー男爵の『ウンディーネ』(1811年)ということになるだろう。『水妖記(すいようき)』という別題が使われることもあるフーケー作品と、その前後の歴史的文脈については後々の回にまとめるとして、今回はまず、そのフーケーの名作『ウンディーネ』の筋書きを確認しておきたい。これは全19章からなる作品だが、以下は各章ごとの物語の概要である。

1.馬に乗って森から出てきた騎士フルトブラントが、湖のほとりにある老いた漁師夫婦の家に宿を求めて立ち寄る。そこには、ウンディーネといういたずらな小娘がいた。老夫婦の養女だという。

2.森での体験談を騎士から聞かせてもらえないことに怒ったウンディーネは、家を飛び出す。騎士は老人から、ウンディーネが現れたときの話を聞く。老夫婦には赤ちゃんがいたのだが、その子はある日、湖の中に引き込まれて消えてしまった。嘆く二人のもとに、ひょっこりとウンディーネが現れたという。

3.外はやがて、嵐になる。フルトブラントは濁流に浮かぶ小島の上にウンディーネを見つけ、抱き寄せる。

4.騎士は、森で体験した事を語る。侯爵の養女ベルタルダにけしかけられて、恐ろしい森へ入るはめになったこと。自分が乗っている馬が暴れ出して崖から転落する直前、白衣の大男が現れて馬を止めたこと。そして、それが実は小川だったこと。醜悪な小人(=地の精グノーム)に絡まれたこと。その後も、白衣の男が進む道を否応なしに指図してきて、ついに、この漁師の小屋に辿り着いたこと。

5.川の奔流がいや増して、騎士は出発できない。いきおい、漁師一家との生活を続けることになる。彼は、ウンディーネの無邪気な純粋さと可愛らしさに惹かれていく。

6.嵐の夜にはあり得ない事なのに、小屋の戸をノックする音。一同、ぎょっとする。しかし来訪者は魔物ではなく、立派な僧侶だった。ハイルマン神父と名乗るその人物は、洪水続きの危機を司教様に伝えようと船出したところ、待ち構えていたような嵐に襲われ、この小屋に辿り着いたのだという。この夜、騎士は自分の思いに決まりをつけた。神父の立会いで、ウンディーネとの結婚式を挙げたのである。

7.ウンディーネと神父の対話。ウンディーネは、神父を驚かせるような事を言う。「魂(たましい)って、きっと良い物なんでしょうね」。

8.ウンディーネは夫となった騎士に自然界の妖精たちの話を聞かせ、自分もまた水精ウンディーネの一人であることを打ち明ける。「妖精たちには魂がなく、水の妖精も死ねばただの水泡になります。でも魂を得れば、苦悩も生じるのですが、より一層の高みに向かえるのです。でも、妖精が魂を得るためには、人間と愛の絆で結ばれることしかない。私の父である水霊の王は、私にその機会を与えるように計らったのです。この小川は、私の叔父キューレボルン。彼が私を、あなたと出会ったこの漁師さんたちの小屋に連れて来てくれたのです。今の私の話を聞いて私をお嫌いになったら、どうぞこのまま、お一人でお帰りください。叔父が私を、親のもとへまた連れ帰ってくれるでしょう」。しかし、この不思議な話を聞いた後も、夫フルトブラントの愛情は変わらなかった。

9.ウンディーネ、フルトブラント、そしてハイルマン神父の三人が旅立つ。やがて道すがら、一人の大男が姿を現し、ウンディーネに近づいて囁く。「わしがお前を護っていることを、忘れるなよ。お前の婚礼を行なったあの神父を、お前のいる小屋へ導いたのも、このわしなんだからな」。しかし、騎士の妻となったウンディーネの方は、この大男、つまり叔父のキューレボルンとはもう関わりたくない気持ちになっていた。

10.騎士フルトブラントの失踪を案じていた町の人々は、彼が神父ともども新妻まで連れて帰ってきたことに大喜びする。侯爵の養女ベルタルダは内心彼を好いていたので、ショックを受ける。しかしウンディーネは、彼女に対して何か不思議なつながりを感じて好意を持つ。それから後、騎士がもともと住んでいたリングシュテッテンの城まで向かうことになったが、ベルタルダも一緒に行く運びとなった。その途中、井戸掘り職人の親方がウンディーネに近づいて、何かコソコソと耳打ちする。

11.ベルタルダの聖名祝日。ウンディーネは井戸掘り職人の親方(実はキューレボルン)から聞いた話を、一同に披露する。ベルタルダはもともと漁師夫婦の間に生まれた子供であったこと、水の精キューレボルンによってさらわれ、侯爵夫妻に拾われるように運ばれたこと、そして自分がベルタルダのかわりに漁師の養女として育てられたこと、などである。老漁師夫婦もパーティに呼ばれており、親だけが知っているベルタルダの隠れた肉体的特徴を老女が指摘したことで、その話が事実であると証明されたのだった。

12.パーティの席上で本当の両親である老漁師夫妻を口汚くののしったベルタルダは、侯爵から勘当されて追い出された。老いた漁師もまた、「恐ろしい森を一人で抜けて来られたら、お前を娘として迎えてやろう」と言い残して去っていった。ウンディーネは捨てられたベルタルダを、夫と住まう城へ連れて行ってやることにする。

13.城の中で、だんだんと尊大に振舞い始めるベルタルダ。その後、しばしば白衣の大男が現れて彼女を恐れさせるようになる。ウンディーネは家来に命じて、井戸の口に大きな岩を置かせる。それは、キューレボルンをはじめとする水の精たちが地上に出てくる通路をふさぐためであった。事情を聞いたフルトブラントは、ウンディーネに理解と愛情を示す。一方、彼に叱責されたベルタルダは、城を飛び出していく。

14.「黒が谷」という恐ろしい場所へ行ってしまったベルタルダを探しに、フルトブラントがやってくる。ベルタルダに化けたり、通りがかりの御者に化けたりと、キューレボルンがあの手この手で攻めて来る。そして騎士とベルタルダがいよいよ大水に飲まれて命を落としそうになる直前、ウンディーネが駆けつけて二人を救う。

15.ウィーンに向かうドナウの川くだり。ウンディーネ、フルトブラント、ベルタルダの三人を乗せた船の周りに水界の魔物たちが出現する。「それだけは、しないで」というウンディーネの懇願もむなしく、フルトブラントはついに水の上で彼女を罵倒してしまう。水中に消えてゆくウンディーネ。

16.時が経ち、騎士はやがてベルタルダとの結婚を考えるが、ハイルマン神父が止めに来る。枕辺にウンディーネが現れ、「私は生きていますから、彼の再婚を止めてください」と頼んだのだと言う。しかし、その説得も騎士には効果がなかった。

17.フルトブラントの夢の中に、ウンディーネとキューレボルンが現れる。魂を持ったことの幸せを語るウンディーネ。水の世界の掟により彼が再婚してはいけないこと、もしすれば、彼は死をもって償わねばならなくなることを、キューレボルンとのやりとりを通じて伝える。しかし、目を覚ましたフルトブラントは、「変な夢だったな」ぐらいにしか受け止めなかった。

18.フルトブラントとベルタルダの婚礼の日。式を司(つかさど)る神父は、事情を何も知らない人が呼ばれた。盛り上がらないパーティの散会後、ベルタルダは首に出来たそばかすがいやだと、塞いであった井戸の水についてほのめかす。「あの井戸水が、私の肌には良かったのよねぇ」。気を利かせた侍女が家来に命じて岩をどけさせた。すると地中から押し上げてくるように水が噴き出し、ウンディーネが現れる。彼女はフルトブラントの部屋まで進み、彼を抱きしめて接吻する。ウンディーネのあふれる涙が、彼の目に入る。彼女の腕に抱かれながら、フルトブラントは静かに息を引き取る。

19.ハイルマン神父が、亡くなった騎士の葬儀を執り行う。騎士フルトブラントの家系は、彼の死をもって断絶した。その葬列に、途中から不思議な女性が加わる。騎士の墓前に皆で跪き、祈っているうちに女は消えた。やがて、そこから泉が湧き出し、騎士の墓を取り巻くようにして流れ、墓地の脇にあった池へと流れ込んでいった。人々はこの泉こそウンディーネであり、愛しい人をいつまでも両の腕に抱き続けているのだと信じて疑わなかった。

―ちょっと長くなってしまったが、このフーケー作品の粗筋だけはご紹介しておきたかった。実はそうしないと、次回から本格的に始まる《ウンディーネ・シリーズ》のお話が、ごく一部の人にしか分からないような展開になってしまうからである。もっとも、上に書いたのは必要最低限の粗筋だけなので、より細かいニュアンスについては、原作でご確認いただけたらと思う。
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四大元素と妖精たち

2005年12月01日 | エトセトラ
前回までの話の最初の方で、ニールセンの第4交響曲に付けられた<不滅>という標題の意味に少し触れたが、その「燃え尽きた灰の中に、まだ消えない炎がある」という言葉から、私は想像上の生物を二つ、思い出した。一つは、不死鳥フェニックス。そしてもう一つは、火とかげサラマンダーである。どちらも燃える炎の中に消し難き生命を持つ者たちだ。フェニックスは特に有名で、「そんな名前、聞いたことない」という人の方がむしろ珍しいんじゃないかと思う。ちょっと大きな英和辞典でphoenixを調べてみたら、これはエジプト神話に出てくる想像上の鳥で、「500~600年ごとにアラビアの荒原に燃料を積み重ねてその中で焼死し、灰の中から再び若い姿になって甦る」という伝説があるのだそうだ。

しかし、クラシック音楽の作品史を語る上では、そのフェニックスよりも、もう一つの方、つまり火とかげサラマンダーの方がより注目に値する。と言っても、サラマンダーそのものがクラシック作品のモチーフになっている例は、少なくとも有名作品の中にはおそらく無かったと思う。むしろ、このサラマンダーを含んだ「四大元素」の妖精たち、すなわち、地、水、火、風のそれぞれに付けられた妖精たちの中に、独立したクラシック作品の系譜を持つものが見出せるのである。

まずは、その四大元素なる概念についてだが、これは古代ギリシャの哲学史を紐解くとそのルーツに出会うことが出来る。タレスという人が、「万物のアルケー(=根源)は水である」と考えたところから西洋哲学史はスタートするが、その後たくさんの哲学者達が登場して、ああだ、こうだと議論を始めるわけである。その中で、「万物の根源的要素は、地、水、火、風の4つであり、それらが様々な比率でくっついたり離れたりして、いろいろな物が生成・消滅するのだ」と唱えたのがエムペドクレスであった。さらにこの方、「それらの生成・消滅を発生させる力は、愛と憎しみである」なんて事もおっしゃったらしい。今の感覚で読むと何ともユニークな発想だが、このエムペドクレスの哲学がおそらく、四大元素という概念の出発点だろうと思われる。

時代が中世に進むと、パラケルスス(1493~1541)という人物が登場する。この人は中世ヨーロッパのオカルティズムとして現今伝えられる錬金術なるものに没頭していた一人で、例えば、鉛を炎で熔かして金(きん)を作ろうなどといういかにも怪しげな研究をやっていたらしい。しかし同時に、「錬金術を医薬の製造に役立てるべきだ」と主張して、医療学派の祖となった人物でもあったそうだ。このパラケルススが著作の中で、エムペドクレス以来の四大元素にそれぞれ妖精たちのイメージを与えたと伝えられている。これはネット上でもあちこちのサイトで紹介されている話なので、当ブログでは簡単に列挙するにとどめたい。四大元素の妖精たちとは、以下の四名(?)である。

地の精グノーム : Gnome(=英語読みは、ノウム。「地下に棲む小人」の古典的イメージ。)
水の精ウンディーネ : Undine(=フランス語流には、オンディーヌ。小娘の姿が一般的。)
火の精サラマンダー : Salamander(=鉛を熔かす炎から、トカゲの姿がイメージされた。)
風の精シルフ : Sylph(=優美な女性の姿が一般的で、女性名はシルフィード。)

これらの妖精たちについては、かなり詳しい解説を施したサイトが簡単に検索で見つかるので、興味の向きはその方面に当たっていただけたらと思う。さて、「上に並べた妖精たちのどれが、クラシック音楽史に一大系譜を持っているか」という事については次回以降のシリーズに譲るとして、今回は、四大元素そのものをモチーフにしたクラシック作品に少し触れて話を締めくくりたいと思う。

フランス・バロック期の作曲家ジャン=フェリ・ルベル(1666~1747)のバレエ音楽<四大元素 Les Elements>が、クリストファー・ホグウッドの指揮によるLPで登場して一部のクラシック・ファンをびっくりさせたのは、もう何年前になるのだろうか。この曲冒頭の「カオス(=混沌)」には私も当時本当に驚かされた。ドジョワァ~~~ン!と来るあの強烈な不協和音は、書かれた時代からすれば相当に過激な物だったと言うべきだろう。この記事を書くに当たって、先頃ちょっと本で調べたら、ルベル作品にあっては低音部が大地、フルートが水、ピッコロが大気、ヴァイオリンが火をそれぞれ担当しているのだそうだ。この曲も「カオス」から後はごく普通のバロック・バレエになって安心させるのだが、とにかくあの出だしはショッキングだった。併録されていたデトゥーシュの<四大元素>なんか完全に吹き飛んでしまって、そちらについてはもう何も覚えていない状況である。

一方、スペイン・バロック期の作曲家アントニオ・デ・リテレス(1673~1743)作曲による歌劇<四大元素 Los Elementos>の全曲CDを購入して聴いたのは、そんなに前の話ではない。エドゥアルド・ロペス・バンゾという人が指揮するアル・アイレ・エスパニョールというグループによる演奏だ。英文の解説によると、この作品はもともと6人のソプラノ歌手が舞台に登場して歌うもので、コーラスにテノールが一人加わっているのを別とすれば、完全に女性だけのキャスティングで書かれたものだそうである。作曲当時の上演劇場での人間関係等、いろいろやむを得ない事情があったのと、男役を女性歌手が歌っても別におかしくないという認識が行き渡っていたことから、そのような形で仕上げられたものらしい。バンゾ盤では、「風(空気)」と「水」がソプラノで、もともと男性のイメージがある「火」と「大地」はメゾ・ソプラノが受け持っている。そこに合唱の一員としてのカウンター・テナーと、「時」を歌うバリトン歌手が一人ずつ参加してくるという形で録音されている。

四つの元素たちの中では特に、「風」を歌うソプラノに主役っぽい存在感がある。彼女が歌ういくつかのアリアのうち、トラック17で聴かれる「夜明けの腕の中で」はとりわけ印象的なものだ。また、風、大地、水の三人が揃って歌うトラック13の三重唱は、ちょっとモンテヴェルディのオペラを髣髴とさせるような勢いを持っている。また、最後を締めくくるトラック23を中心に、随所に出てくるカスタネットの響きがいかにもスペインらしい雰囲気を与えている。しかし、「カスタネットが出てくるから、スペインの音楽だ」などと言ったら、それはいかにも幼稚であるとの謗(そし)りを免れ得ないだろう。この作品は副題にもある通り、“イタリアの流儀で書かれたオペラ・アルモニカ”であって、その音楽的な作りはあくまで、当時のイタ・オペなのである。

少し前の『レコード芸術』で、「バロック・オペラを見直す」みたいなテーマの記事を見かけたが、モンテヴェルディの三大歌劇ならともかく、果たしてヴィヴァルディやスカルラッティ、あるいはその周辺の作家たちのオペラ作品が今後恒久的にファンを獲得していくのかどうか、何とも予想し難いものがある。バロック歌曲がもともと好きな人にとっては良い物に出会える期待が持てようけれども、一般のクラシック・ファンにはちょっとどうかなあ、という思いを禁じ得ないのだ。
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