前回のアーサー王(King Arther)の最後の文字rからしりとりして、今回はドイツでなく、イタリアの名バリトン歌手の一人であったローランド・パネライ(Rolando Panerai)について。
この人はモーツァルトやロッシーニからヴェリズモ・オペラまで、大変幅広いレパートリーを持ち、また非常に現役キャリアの長かった人である。ただし、往年のゴッビやバスティアニーニのようにその一声を聴いただけで、「あ、この人だ」とすぐにわかって、いきなりその声自体の力で惹きつけるタイプの歌手ではなかった。声質自体はバリトン・カンタンテなのだが、むしろ地味な響きのもので、「手堅い脇役として、声のアンサンブルに過不足なく貢献していた名手」という印象の方が、私には強い。
だから、カラヤンの<トロヴァトーレ>(EMI)でのルナ伯爵は、私個人の意見としては何とも物足りない。(※もっともこの録音では、レオノーラ役で出ているマリア・カラスの声が私はとにかく嫌いなので、ちゃんと全曲を丁寧に聴いたわけではないのだけれど。)また、同じカラヤンの指揮によるプッチーニの<ボエーム>(L)でのマルチェッロなども、その声や歌唱がどうも私の印象に残ってこないのである。
しかし、この人の「過不足ないアンサンブルへの貢献と、出過ぎない手堅さ」みたいなのがカラヤン好みだったのか、本当に永きに渡って彼はマエストロに重用されて来た。それを証明する最たる好例が、ヴェルディの<ファルスタッフ>と言えるのではないだろうか。1956年盤(EMI/ゴッビ、シュワルツコップ、バルビエリらとの共演)と、1980年盤(G/タッデイ、ルートヴィヒらと共演)に出演している。
パネライはいずれの録音でもフォード役を務めているが、まず、この2つの録音年度を見比べれば、彼がいかに息の長い歌手であったかが実感できるだろう。ただ、一応私も両方の演奏を聴いて知ってはいるのだが、前者についてはゴッビの強烈な声と性格的表現が、後者についてはカラヤンの(良し悪しの議論は別として)分厚いビフテキのような肉汁じゅうじゅうサウンドが印象に残って、「パネライさん、出ていましたっけ?」という有様なのである。
逆に、この人の「アンサンブルに溶け込む上手さと、優れた歌唱表現力」が印象に残る好例として、シルヴィオ・ヴァルヴィゾの指揮によるロッシーニの<アルジェのイタリア女>全曲(L)を挙げておきたい。ベルガンサのイザベッラ、コレナのムスタファー、アルヴァのリンドーロと並んで、パネライはタッデオ役で参加している。これは見事である。ヴァルヴィゾの指揮も生命感溢れる素晴らしいものだが、ベルガンサを始めとする名歌手たちがまさに適材適所で、それぞれの役の個性を見事に歌い出して、今もなおこの作品のベストを争える名演を成し遂げている。ここでのパネライのコミカルな役作りと、アンサンブルへの貢献度は極めて高いものと絶賛したい。
この人はモーツァルトやロッシーニからヴェリズモ・オペラまで、大変幅広いレパートリーを持ち、また非常に現役キャリアの長かった人である。ただし、往年のゴッビやバスティアニーニのようにその一声を聴いただけで、「あ、この人だ」とすぐにわかって、いきなりその声自体の力で惹きつけるタイプの歌手ではなかった。声質自体はバリトン・カンタンテなのだが、むしろ地味な響きのもので、「手堅い脇役として、声のアンサンブルに過不足なく貢献していた名手」という印象の方が、私には強い。
だから、カラヤンの<トロヴァトーレ>(EMI)でのルナ伯爵は、私個人の意見としては何とも物足りない。(※もっともこの録音では、レオノーラ役で出ているマリア・カラスの声が私はとにかく嫌いなので、ちゃんと全曲を丁寧に聴いたわけではないのだけれど。)また、同じカラヤンの指揮によるプッチーニの<ボエーム>(L)でのマルチェッロなども、その声や歌唱がどうも私の印象に残ってこないのである。
しかし、この人の「過不足ないアンサンブルへの貢献と、出過ぎない手堅さ」みたいなのがカラヤン好みだったのか、本当に永きに渡って彼はマエストロに重用されて来た。それを証明する最たる好例が、ヴェルディの<ファルスタッフ>と言えるのではないだろうか。1956年盤(EMI/ゴッビ、シュワルツコップ、バルビエリらとの共演)と、1980年盤(G/タッデイ、ルートヴィヒらと共演)に出演している。
パネライはいずれの録音でもフォード役を務めているが、まず、この2つの録音年度を見比べれば、彼がいかに息の長い歌手であったかが実感できるだろう。ただ、一応私も両方の演奏を聴いて知ってはいるのだが、前者についてはゴッビの強烈な声と性格的表現が、後者についてはカラヤンの(良し悪しの議論は別として)分厚いビフテキのような肉汁じゅうじゅうサウンドが印象に残って、「パネライさん、出ていましたっけ?」という有様なのである。
逆に、この人の「アンサンブルに溶け込む上手さと、優れた歌唱表現力」が印象に残る好例として、シルヴィオ・ヴァルヴィゾの指揮によるロッシーニの<アルジェのイタリア女>全曲(L)を挙げておきたい。ベルガンサのイザベッラ、コレナのムスタファー、アルヴァのリンドーロと並んで、パネライはタッデオ役で参加している。これは見事である。ヴァルヴィゾの指揮も生命感溢れる素晴らしいものだが、ベルガンサを始めとする名歌手たちがまさに適材適所で、それぞれの役の個性を見事に歌い出して、今もなおこの作品のベストを争える名演を成し遂げている。ここでのパネライのコミカルな役作りと、アンサンブルへの貢献度は極めて高いものと絶賛したい。
タッディが参加しているにもかかわらずちゃんと聞いていなかった録音を聞いたら、たまたまそこにパネライも参加していたのでこちらに書かせて頂くことにしたのです。
『道化師』(1965年DG盤、カラヤン指揮、スカラ座のオケ)のタッディのトニオは、プロローグからして表情豊かで、「昔の口上ではこうでしたけど…」と歌うところはちょっと声量を落として内緒話をするみたいにしてみたり、「あらっ」と思わせてくれる発見多し。ネッダに迫る場面は最初はあくまでも本当にぼーっと見とれてしまった、という感じそのままで、「俺はお前が欲しい!」のあたりになってようやく恐ろしげになってくる。ただ、劇中劇のシーンは1954年のRAIの録音(カニオはコレッリ、Opera d’oro盤)に参加していたゴッビの方が巧いと思いました。ゴッビはわざとブッファの作り声のありったけを駆使して滑稽にふるまい、カニオの怒りの火に油を注いでいっています。逆にゴッビはプロローグで声を張る時、ちょっとキツそうだな、と思いました。
『ボエーム』(1963年ウィーン国立ライヴ、RCA盤 これもカラヤン指揮)はショナールなのでちょっとこれだけじゃ何とも言えない…と。とにかく、いかにも人懐っこい感じが出ていました。ただ、最後に「ミミはもう息を引き取ってるぜ!」と言う時、もうちょっと深刻そうな方がよかったんじゃないかな、などと思ったり。
『ボエーム』はマルチェッロですね。セラフィン/テバルディのDecca盤を聞き慣れている私はバスティアニー二の豪快かつ気っ風の良い兄貴みたいなマルチェッロが耳に染みついていますが、パネライは当然、まるで違いました。パネライの方はどこかとぼけた味わいがあり、お人好しっぽい感じがしました。深刻になりがちな話を明るくするような役割を十分果たしています。このライブは正規ルートで販売されたのにモノラルで音が貧弱なのが残念です。音のせいもありますが、ヒロインのサイズ(?)に合わせたのでしょうか、このライブの歌手たちはとにかく一回り、セラフィン盤の歌手より小ぶりな歌唱をしているように思いました。
それから『愛の妙薬』(1986年DG盤)のドゥルカマーラ。この盤、アディーナがバーバラ・ボニー、ネモリーノがイェスタ・ヴィンベルイ、ベルコーレがベルント・ヴァイクルというけったいな盤で、ボニーとヴィンベルイはただちゃんと歌いました、というだけだし、ヴァイクルはおじさん臭くて青年兵らしくない。パネライのドゥルカマーラがひたすら巧くて一人で目立っています。ブッファの技をありったけ駆使した歌唱(それもこの年代で声の衰えがほとんど目立たない!)はお見事と言うしかないです。
『ファルスタッフ』と『トロヴァトーレ』は主様が言及なさっているので私が何か書くのは蛇足です。ただ、あの『トロヴァトーレ』は殆ど聞いていません。実はカラスが嫌だから、というわけではなく、私としてはアズチェーナがコッソットじゃないのは「ヤダ!」(子供の我儘か?!)からなのです。彼女の声は「老いたジプシーの母」らしくない、と言われればそれまでですが、2幕のあの迫力は彼女でないと出せない、と思います。それと、ルーナ伯爵はやっぱりバスティアニーニが最高だと思います。
長くなりますが、最後に。結局はどの歌手をどう思うかは聞き手の主観がかなり影響するので、私が自分のブログでもないのに勝手に感想を書きまくるのはやはりご迷惑でしかないな、と思いました。(私には自分でブログを運営するだけのIT上の知識もハードもありませんのでつい。)主様の該博な知識と鑑賞歴には全然ついていけませんし。他のエントリーも興味深いものが沢山、ですが、主様が困惑なさるだけかと。それで、これで書き込みは最後にいたします。無理にレスなさったり、またわざわざ特番をお組みになったりなさらないで下さい。読み捨てになさって構いません。どうかお身体をお大事に。そして本当にお加減の良い時だけ、オペラの記事を書いて下さると嬉しいです。