チャイコフスキーの名作<エフゲニ・オネーギン>の聴き比べ・第2回。今回は、通し番号で第4&5番。
4.B・ハイキン指揮ボリショイ劇場管、他 (1956年)
【出演: ベロフ、レメシェフ、ヴィシネフスカヤ、ペトロフ、他 】
この録音で一番注目されるのはやはり、若き日のガリーナ・ヴィシネフスカヤが歌ったタチヤーナであろう。彼女は少女時代から<オネーギン>に激しく入れ込んでいて、この役には特別な思い入れがあったようだ。『ガリーナ自伝』によると、当ブログで前回語った2の録音、つまりM=パシャイエフとオルロフの分担指揮による1937年の全曲盤を、彼女は子供の頃毎日毎日繰り返し聴き込んでいたそうだ。それはもう、周りの人たちがうんざりして怒り出すほどだったそうである。ヴィシネフスカヤの言葉によれば、「タチヤーナに関しては、これまでに聴いてきたどの歌手も、私を満足させてはくれなかった」そうだから、この1956年の録音には、彼女としても心中期するものがあったに違いない。
実際聴いてみると、「自分はここを、こうしたいのだ」と言っているような強い表現意志を、彼女の歌唱からはっきりと感じ取ることが出来る。歌詞を丁寧に吟味しているという点では、先述のクルグリコワを引き継いだ面もありそうだが、ヴィシネフスカヤの声は先輩歌手よりもずっとスピントのかかった芯の強いものなので、それだけ歌の輪郭線がくっきりしたものになってくる。その結果、往年の録音には前例が見つからないような、鮮烈な存在感を持つタチヤーナが登場することとなった。中でも、私が特に強い印象を受けたのは、第3幕の後半である。熱っぽく迫るオネーギンの求愛を受けて、「あなたを愛しています」とタチヤーナがつぶやく場面。若きヴィシネフスカヤはこの一言に、万感の思いを込めている。後年のロストロポーヴィチ盤での歌唱よりもむしろ、こちらの方が感銘深く感じられほどである。
(※ここでまた一つ、本の受け売り話。「ヤー・ヴァス・リュブリュ・・」と一度はオネーギンに答えつつも、結局彼の求愛を振り切るに至ったタチヤーナの脳裏には、どんな思いが去来していたのだろうか。先頃言及したアッティラ・チャンパイ氏の論文の中に、そのあたりを巡る興味深い分析が述べられている。以下、タチヤーナの考えを直接話法で引用する形に直して、該当する箇所をちょっとだけ書き出してみたいと思う。
「もし私が今でもオールド・ミスとして田舎にとどまっていたなら、あるいは、誰か田舎の平凡な男の妻になっていたとしたら、オネーギンはこんな熱烈にアタックしてきたりはしないだろう」と彼女はわかっていたし、「仮にオネーギンとこれから一緒になったとしても、今の私が彼に感じさせている魅惑などすぐに消えてしまうだろう」ということもわかっていた。そして、「オネーギンは間もなく私を重荷に感じ始めるだろうし、彼の深い孤独の感情は私の力ではどうにもできないだろう」ということも読めていた。勿論、彼女はオネーギンを愛していたし、これまでただの一度も他の男性を愛したことはない。彼女がグレーミン公と結婚したのは憂鬱だったからであり、自分がいつまでも独り者でいることによって母親が人からとやかく言われる心配から解放してあげたい、という願いからである。久しぶりに会ったオネーギンが相変わらず自分の心を動かす力を持っていたにしても、彼はもはやタチヤーナにとっては過去の人、青春の思い出の一つになっていた。・・・彼女は自ら選んだ運命に従い、夫の傍らで自分の立派な務めに献身的に打ち込んでいくことだろう。乙女は夢を見尽くしたのである。)
ヴィシネフスカヤの清新なタチヤーナに続いては、グレーミン公を歌うイワン・ペトロフが立派だ。バリトーナルな高音を伸びやかに出して、名バス歌手は造型のくっきりした立派な歌唱を構築する。ドイツ的とさえ思われるような端正な歌の佇(たたず)まいの中で、老いた者の愛の喜びをさりげなく歌い出すペトロフの芸は、格別な魅力を持ったものである。
レンスキー役は再び、セルゲイ・レメシェフ。この当時、名テナーは既に56歳という高齢であったことを考えると、ここで聴かれる声はちょっと驚異的である。勿論、1936年のネボリシン盤に記録されているような若々しさを求めることは出来ないが、その代わり、ここでの歌唱はより一層自然体で、しかも深みを持ったものになっている。ひょっとしたらレメシェフは、先述のオルロフ盤を通じて、ライバルであったコズロフスキーの圧倒的な名唱を耳にしていたのかも知れない。だから、「よりによって、レンスキーの役で負けてなるものか」と、この録音に最後の情熱を思いっきりつぎ込んだということも十分考えられる。いずれにしても、かつて極め付けといわれたレンスキー歌いの声がこれだけ良質な録音で遺されたというのは、それだけでも十分珍重に値するものだろう。
5.M・ロストロポーヴィチ指揮ボリショイ劇場管、他 (1970年録音)
【出演: マズロク、アトラントフ、ヴィシネフスカヤ、オグニフツェフ、他 】
実はこのロストロポーヴィチ盤は、もう随分昔に私が初めて聴いた<オネーギン>の全曲録音だった。しかし、「これって、どこがいいのかな。全然、感動しない。レコード・アカデミー賞を受賞した名盤?・・・どうやらこの作品自体に、わたしゃ縁がないらしい」というのが、当時の私が抱いた正直な感想である。今回の記事を書くに当たって、本当に久しぶりにこのCDをかけたのだが、やはり良いとは思えなかった。それどころか、これを最後まで聴き通すのが苦痛にさえ感じられたのである。
ヴィシネフスカヤの歌唱は上記のハイキン盤よりもはるかに円熟し、圧倒的な深みと貫禄を獲得しているが、その割にはどうも私にはピンと来ない。最初にこのロストロポーヴィチ盤の歌唱でタチヤーナという役のイメージが出来ていた関係で、上記のハイキン盤を初めて聴いた時は、「ヴィシネフスカヤも若い頃は随分きゃぴきゃぴして、あどけない感じだったんだな」と思った。しかし逆に、ジュコフスカヤ、クルグリコワ、若い頃のヴィシネフスカヤ、そしてこの録音でのヴィシネフスカヤと時系列に沿って聴き並べてみると、タチヤーナの役作りとしては、ハイキン盤での歌唱の方がずっと好ましいものだったのではないかと思えてくるのである。
ロストロポーヴィチ盤は困ったことに、男声陣も不満だらけだ。ユーリ・マズロクは1970年代を代表するオネーギン歌いとして名を馳せた人で、同役での録音も相当数作っているのだが、少なくともここでの歌唱について言えば全く魅力が感じられない。声も歌唱も両方、ダメである。ウラジーミル・アトラントフのレンスキーも同じで、やはりつまらない。第2幕のアリアなど、彼は何とも英雄的な歌いぶりを示しているのだが、この歌をそんな風に歌って何だと言うのだろう。私の心には全く響いてこない。そしてオグニフツェフとかいうバス歌手のグレーミン公がまた、どうしようもなく非力。今回採りあげている8種の録音の中でも、一番聴き劣りがする。
ロストロポーヴィチの指揮には、愛憎相半ばする複雑な思いがある。彼は驚くほどにたくましい音楽作りをしていて、テンポも全体的に極めて遅い。勿論、その雄弁無類な表現によって、チャイコフスキーの音楽が真に内容豊かなものであることを分からせてくれる箇所も少なからず存在する。しかし、例えばトリケ氏が歌う『クプレ』を、こんなスロー・テンポにする必要がどこにあるのだろう。軽妙な小唄がどんどんと遅くなってきて、途中で止まってしまいそうになる。旧国鉄の順法闘争じゃあるまいし。もっとひどいのは第3幕のエンディングで、激しく迫るオネーギンと彼を振り払うタチヤーナのやり取りを、ロストロせんせーは全くいやになるようなスロー・テンポで流すのだ。せっかくの緊迫シーンが、まるで間延びしてしまっているではないか。
(※最後に、参考資料を一つ。ヴィシネフスカヤがタチヤーナを演じた<エフゲニ・オネーギン>の映画版というのが、1958年に製作されているようだ。私は未見だが、いつかDVDで発売されるかもしれない。他の歌手陣や指揮者等、関連する資料が全くないので今は何とも言えないのだが、内容的にはかなり期待できる物ではないかなと思う。)
★次回はこの続きで、第6番。ヴィシネフスカヤに続く世代の歌手が歌ったタチヤーナ。
4.B・ハイキン指揮ボリショイ劇場管、他 (1956年)
【出演: ベロフ、レメシェフ、ヴィシネフスカヤ、ペトロフ、他 】
この録音で一番注目されるのはやはり、若き日のガリーナ・ヴィシネフスカヤが歌ったタチヤーナであろう。彼女は少女時代から<オネーギン>に激しく入れ込んでいて、この役には特別な思い入れがあったようだ。『ガリーナ自伝』によると、当ブログで前回語った2の録音、つまりM=パシャイエフとオルロフの分担指揮による1937年の全曲盤を、彼女は子供の頃毎日毎日繰り返し聴き込んでいたそうだ。それはもう、周りの人たちがうんざりして怒り出すほどだったそうである。ヴィシネフスカヤの言葉によれば、「タチヤーナに関しては、これまでに聴いてきたどの歌手も、私を満足させてはくれなかった」そうだから、この1956年の録音には、彼女としても心中期するものがあったに違いない。
実際聴いてみると、「自分はここを、こうしたいのだ」と言っているような強い表現意志を、彼女の歌唱からはっきりと感じ取ることが出来る。歌詞を丁寧に吟味しているという点では、先述のクルグリコワを引き継いだ面もありそうだが、ヴィシネフスカヤの声は先輩歌手よりもずっとスピントのかかった芯の強いものなので、それだけ歌の輪郭線がくっきりしたものになってくる。その結果、往年の録音には前例が見つからないような、鮮烈な存在感を持つタチヤーナが登場することとなった。中でも、私が特に強い印象を受けたのは、第3幕の後半である。熱っぽく迫るオネーギンの求愛を受けて、「あなたを愛しています」とタチヤーナがつぶやく場面。若きヴィシネフスカヤはこの一言に、万感の思いを込めている。後年のロストロポーヴィチ盤での歌唱よりもむしろ、こちらの方が感銘深く感じられほどである。
(※ここでまた一つ、本の受け売り話。「ヤー・ヴァス・リュブリュ・・」と一度はオネーギンに答えつつも、結局彼の求愛を振り切るに至ったタチヤーナの脳裏には、どんな思いが去来していたのだろうか。先頃言及したアッティラ・チャンパイ氏の論文の中に、そのあたりを巡る興味深い分析が述べられている。以下、タチヤーナの考えを直接話法で引用する形に直して、該当する箇所をちょっとだけ書き出してみたいと思う。
「もし私が今でもオールド・ミスとして田舎にとどまっていたなら、あるいは、誰か田舎の平凡な男の妻になっていたとしたら、オネーギンはこんな熱烈にアタックしてきたりはしないだろう」と彼女はわかっていたし、「仮にオネーギンとこれから一緒になったとしても、今の私が彼に感じさせている魅惑などすぐに消えてしまうだろう」ということもわかっていた。そして、「オネーギンは間もなく私を重荷に感じ始めるだろうし、彼の深い孤独の感情は私の力ではどうにもできないだろう」ということも読めていた。勿論、彼女はオネーギンを愛していたし、これまでただの一度も他の男性を愛したことはない。彼女がグレーミン公と結婚したのは憂鬱だったからであり、自分がいつまでも独り者でいることによって母親が人からとやかく言われる心配から解放してあげたい、という願いからである。久しぶりに会ったオネーギンが相変わらず自分の心を動かす力を持っていたにしても、彼はもはやタチヤーナにとっては過去の人、青春の思い出の一つになっていた。・・・彼女は自ら選んだ運命に従い、夫の傍らで自分の立派な務めに献身的に打ち込んでいくことだろう。乙女は夢を見尽くしたのである。)
ヴィシネフスカヤの清新なタチヤーナに続いては、グレーミン公を歌うイワン・ペトロフが立派だ。バリトーナルな高音を伸びやかに出して、名バス歌手は造型のくっきりした立派な歌唱を構築する。ドイツ的とさえ思われるような端正な歌の佇(たたず)まいの中で、老いた者の愛の喜びをさりげなく歌い出すペトロフの芸は、格別な魅力を持ったものである。
レンスキー役は再び、セルゲイ・レメシェフ。この当時、名テナーは既に56歳という高齢であったことを考えると、ここで聴かれる声はちょっと驚異的である。勿論、1936年のネボリシン盤に記録されているような若々しさを求めることは出来ないが、その代わり、ここでの歌唱はより一層自然体で、しかも深みを持ったものになっている。ひょっとしたらレメシェフは、先述のオルロフ盤を通じて、ライバルであったコズロフスキーの圧倒的な名唱を耳にしていたのかも知れない。だから、「よりによって、レンスキーの役で負けてなるものか」と、この録音に最後の情熱を思いっきりつぎ込んだということも十分考えられる。いずれにしても、かつて極め付けといわれたレンスキー歌いの声がこれだけ良質な録音で遺されたというのは、それだけでも十分珍重に値するものだろう。
5.M・ロストロポーヴィチ指揮ボリショイ劇場管、他 (1970年録音)
【出演: マズロク、アトラントフ、ヴィシネフスカヤ、オグニフツェフ、他 】
実はこのロストロポーヴィチ盤は、もう随分昔に私が初めて聴いた<オネーギン>の全曲録音だった。しかし、「これって、どこがいいのかな。全然、感動しない。レコード・アカデミー賞を受賞した名盤?・・・どうやらこの作品自体に、わたしゃ縁がないらしい」というのが、当時の私が抱いた正直な感想である。今回の記事を書くに当たって、本当に久しぶりにこのCDをかけたのだが、やはり良いとは思えなかった。それどころか、これを最後まで聴き通すのが苦痛にさえ感じられたのである。
ヴィシネフスカヤの歌唱は上記のハイキン盤よりもはるかに円熟し、圧倒的な深みと貫禄を獲得しているが、その割にはどうも私にはピンと来ない。最初にこのロストロポーヴィチ盤の歌唱でタチヤーナという役のイメージが出来ていた関係で、上記のハイキン盤を初めて聴いた時は、「ヴィシネフスカヤも若い頃は随分きゃぴきゃぴして、あどけない感じだったんだな」と思った。しかし逆に、ジュコフスカヤ、クルグリコワ、若い頃のヴィシネフスカヤ、そしてこの録音でのヴィシネフスカヤと時系列に沿って聴き並べてみると、タチヤーナの役作りとしては、ハイキン盤での歌唱の方がずっと好ましいものだったのではないかと思えてくるのである。
ロストロポーヴィチ盤は困ったことに、男声陣も不満だらけだ。ユーリ・マズロクは1970年代を代表するオネーギン歌いとして名を馳せた人で、同役での録音も相当数作っているのだが、少なくともここでの歌唱について言えば全く魅力が感じられない。声も歌唱も両方、ダメである。ウラジーミル・アトラントフのレンスキーも同じで、やはりつまらない。第2幕のアリアなど、彼は何とも英雄的な歌いぶりを示しているのだが、この歌をそんな風に歌って何だと言うのだろう。私の心には全く響いてこない。そしてオグニフツェフとかいうバス歌手のグレーミン公がまた、どうしようもなく非力。今回採りあげている8種の録音の中でも、一番聴き劣りがする。
ロストロポーヴィチの指揮には、愛憎相半ばする複雑な思いがある。彼は驚くほどにたくましい音楽作りをしていて、テンポも全体的に極めて遅い。勿論、その雄弁無類な表現によって、チャイコフスキーの音楽が真に内容豊かなものであることを分からせてくれる箇所も少なからず存在する。しかし、例えばトリケ氏が歌う『クプレ』を、こんなスロー・テンポにする必要がどこにあるのだろう。軽妙な小唄がどんどんと遅くなってきて、途中で止まってしまいそうになる。旧国鉄の順法闘争じゃあるまいし。もっとひどいのは第3幕のエンディングで、激しく迫るオネーギンと彼を振り払うタチヤーナのやり取りを、ロストロせんせーは全くいやになるようなスロー・テンポで流すのだ。せっかくの緊迫シーンが、まるで間延びしてしまっているではないか。
(※最後に、参考資料を一つ。ヴィシネフスカヤがタチヤーナを演じた<エフゲニ・オネーギン>の映画版というのが、1958年に製作されているようだ。私は未見だが、いつかDVDで発売されるかもしれない。他の歌手陣や指揮者等、関連する資料が全くないので今は何とも言えないのだが、内容的にはかなり期待できる物ではないかなと思う。)
★次回はこの続きで、第6番。ヴィシネフスカヤに続く世代の歌手が歌ったタチヤーナ。