カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

気分的に無視を決め込んでいたけど…

2013-04-15 | HORROR

 北の動向については、ほとんどの人はうんざりしたりお笑いになったりしていることと思う。しかしながらいつの間にか脅威や恐怖というものをほとんど感じないということがあって、我ながら驚くのである。狼の嘘をついた羊飼い少年が食われたのは、このせいだろう。
 馬鹿にしか見えないけれど、どうもそれなりに真剣かもしれないとは思う。何故というのは、やはり理解できない。虚勢を張ってもほとんど無駄だということが僕らには分かっているけど、しかしどうも彼らには分かっていないらしい。そこがかなりミステリーというか、どうなっちゃってるんだろう、という感じかもしれない。
 お父さんの正日さんは、実はあんがい狡猾だったということは、透けて見えるところがあった。結果的に一生をまっとうしてしまった。たぶんそれ以外に選択は無かった訳で、ギリギリのところで孤立して生きていかなければ、自分が殺されていただろう。
 立場としてはやはり正恩くんも同じようなものかもしれないが、しかし自分で選択して舵を取っているというふうにはどうしても見えない。いわば素直に馬鹿を演じている訳で、そういうところがかなり痛々しい。そうしてやはり危なっかしい。
 狼少年は無視されるようになる訳だが、彼等はその為にさらに大声を張り上げるようになっている。具体的にはあらん方向にミサイルだかロケットだか人工衛星だかを打ち上げるということに落ち着くかもしれないが、しかし今回こそは、何かさらに踏み外すことをちょっとだけやろうという気になっているかもしれない。実際には致命傷になるはずだからやりはしないのだけれど、彼らの感覚が勘違いの度合いを深めてしまい、その少しが、反射の強度を読み間違う可能性も、やはりあるのではないか。
 しかしながら、そういう思いは、もはや願望かもしれない。少なくとも僕の中には、いっそのこと具体的に動きがあった方がいいようにさえ思えてきている。上手く言えないが、世論的にもそのような空気が感じられるようにも思うのだ。それは大変に危険だし、やはり大きなリスクは伴う。その代償を経て違った歴史が生まれるということではあろうけれど、そういう近未来を見てみたいという欲求が高まると、本当にそれ自体はやってくるかもしれない。
 期待としてやってきて欲しいが、しかしその期待がそんなに良いものとは限らない。本当に今は妙なバランスの上にふらふらしている状態なのではあるまいか。
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啓蒙、安全運転

2013-04-14 | 音楽
R. Kelly - Radio Message


 人間とは別の生命が歌っているみたい。

 巷間では交通安全週間というものらしい。いろんなところで張っているのでお気を付け下さい。
 また、新一年生も登校を始めているようで、路肩で危なっかしく歩いている姿が目に付くようになった。無事に移動するって、改めて大変なんだなあ、などと思いながら眺めております。
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馬にとらわれる生き方だけはしたくない   戦火の馬

2013-04-13 | 映画

戦火の馬/スティーブン・スピルバーグ監督

 僕は動物の中でも特に馬が嫌いかもしれない。理由は単純で、飼っていたから。
 馬というのは厄介な動物で、とにかく飼うには面倒である。世話をするのが死ぬほど嫌だった。牛とかヤギだとそうまで感じないのだろうけど、馬というだけで特別な感じがある。そういうところが気に障ったのかもしれない。その上確かにそれなりに賢くて、いろいろとやんちゃをする。僕は馬自体が嫌いだから、そういう感情もよくわかるのだろう。ぜんぜん僕になつくことはなかった。必要最小限の世話をするが、最後まで僕に構うということはなかったと思う。何度か乗ったことはあるけど、乗馬が好きなわけではない。バイクに乗っている方が性に合っているので、仕方なく乗っているだけのことだ。めんどくさくて嫌でしょうがなかった。結局馬という生き物を僕は憎んでいるのだろう。
 そういう僕がこの映画を見て思うのは、やっぱり嫌な生き物だな、というだけのことのようだ。人間の感情を揺さぶるものがあるのかもしれないが、僕にはどうだっていいことのように思える。最終的には同情を覚えるけれど、それだって人間の勝手な思い入れに左右された一生を思うからということだ。ほかの動物なら、もっと何の感情もなしに、食われたり殺されたりするだけのことだろう。
 馬のいない世の中になると、もっとハッピーかもしれないな、とも思う。こんなに嫌いな生き物がいるおかげで、僕はギャンブルとも縁のない生活が送れるのかもしれない。馬という象徴は大嫌いだが、個別の馬自体には何の恨みもありはしない。馬に翻弄される人間がいるということが、僕にはたまらなく馬鹿らしいだけのことなのかもしれない。映画の出来はいいものだろうけれど、僕にはやっぱり馬が嫌いなせいで、変な映画だったなあ、という時間を過ごしただけのことだった。馬を特別視したい人間の思いというのは、本当にくだらないものだというしかない。僕が一番どうでもよく人を不幸にする対象ということを表していた。人間のそのような嫌な側面を、やはり馬はよく表している。僕は生きている間、馬とかかわりなく生きられるか否か、そういうことに、心の平安があるような気がしたのであった。

 追記:戦争で生死を分けるのは、心がけなのではなさそうだ。生きたいという思いが強いから生き残るということではない。そのような人間模様を馬を通して描いている訳で、映画としてはなかなかよく出来ていると思う。そのような非情の描き方も贅肉を落として見事だった。僕のような馬に対する異常な偏見のない人間にとっては、ぜひ観るべき名作だったと追記しておきます。
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親日は反中の背景があるとみた

2013-04-12 | 境界線

 台湾に行って来た。
 団体だったのでガイドさんがついていろいろ案内してくれる。僕は過去に2回は来ているはずだけど、2回ともバックパッカーだったのでこういうことは初めてだ。でもまあ、行くところは同じようなところだったかもしれない(だいぶ思い出したが、ほとんど忘れてた)。
 ところでこのガイドさん。流暢ではあるけどそれなりに癖のある日本語で、けっこう真剣に聞かないとなかなか意味が分からない。おかげでだいぶ日本語の勉強になった。
 ガイドさんのお父さんが日本統治下で日本語教育を受けた人らしくて、普段も日本語の本を読んでいたくらいらしい。おそらく子供の頃に日本語を叩きこまれて、日本語ネイティブで台湾語とのバイリンガルだったのだろう。ところでガイドさんのお子さんは日本語はもうぜんぜん駄目なんだそうだ。
 ガイドさんの日本びいきも激しくて、僕らにものを買わせたい商魂も背景にはあると思うが、ちょっとむずがゆくなってくるようなところはあった。また、それに伴う中国批判も激しい。台湾は中国とは違って親日だし、そもそも人種が違う。蒋介石のような独裁者に苦しめられて、中国から来た中国人をみな憎んでいる、という話だった。でもまあ、それを言うなら日本統治だってあったんだから、日本にだってある種の複雑な感情を持っているだろうことは推察される訳だが、今の中国に対する嫌悪もあるだろうから、感情的には歴史をさかのぼって批判が展開しているもののようだ。
 もちろん、中国のような反日とは違う国であることは分かる。しかしそのとばっちりを受けて、観光としては台湾まで風評被害を受けているということはあるのかもしれない。尖閣諸島には中国漁船も来るけど、もちろん台湾も別の立場としてやってくるようだし、一般的な日本人にその意図するものの違いに関心が向かないのかもしれない。安倍さん辺りは肌感覚としてそのことは理解されている感じはあるけど、やはり日本国民自体は、厳密には理解できているのかどうかは怪しい。また、だからといって相手のことを配慮することを忘れてしまってはどうにもならない訳だ。
 旅行自体はガイドさんに連れられたところをウロウロするより、結局自由行動で台湾の電車(MRT)に乗ったりしたことの方が楽しかったのであった。まだまだ怪しいところがたくさん残ってて、まったくいい国だと思ったよ。まちの人の言葉(台湾語)はまったく聞き取れなかったけど、一応普通語はどこでも使えたので不便はなかった。見栄張って10年パスポートにしたので、また行く機会があるといいな。
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僕には向かない職業

2013-04-11 | HORROR

 職業に貴賎なし、という考えに僕は激しく同意している。まさにその通りである。しかしながらやりたくないという仕事はゴマンとある。やりたくてもやれない場合は悲しいが、ある一定の尊敬の念もありながら、やはり自分にはとても無理だし、やはりやりたくないと思われる職種がある程度あるようだ。
 実はその中の代表が「消防士(またはレスキュー隊のようなもの)」なのである。実に尊い仕事だし、絶対的に必要で、なおかつ社会的にも認められる立派な仕事である。その上大変だろうけれど、やはりカッコいいというのもある。なかなか出来ることではないが、自らの危険をかえりみず多くの人の命を助けることのできるという、男の子(女の子でもいいんだけど)なら一度は憧れるような仕事なのではあるまいか。
 そうした認識はもちろん持っているのだが、僕にはとても無理なのである。やりたくない理由もはっきりしていて、ものすごく不安で仕方ないからなのだ。高所恐怖というのもあるし、熱いのも嫌だということもあるし、はっきり言って臆病というのはあるのだけれど、それは最大の理由とはいえない。そういうことよりもっと切実で、そうしてどうしても乗り越えられそうにないハードルがそこにあるのである。
 その理由というのが他ならぬトイレ問題なのだ。
 火事というのはいつ発生するのか分からない。それこそ呼び出されたら、寝ていようと食事中だろうとかまわず出動しなければならないのだろう。何はともあれこれがカッコいいという紹介のされ方をする場合が多いのだろうが、僕にはこれが無理そうなのだ。
 そうした消防士の様子を伝えるドキュメンタリーなどを見るにつけ、トイレに行きたい人はいないのかな? といつも疑問に思っていたのだ。急だけど、ちょっとトイレに行きたいという人だって必ずいるのではあるまいか。そういう人が置いて行かれるのかといえば、そのような様子は無い。じゃあどうしているのかというのは想像するしかないのだが、恐らく多少は我慢しているのではないか。我慢してしたくなくなるとは思えないが、我慢するより無いのだろう。それって本当に可能なことなんだろうか。
 僕は胃腸の具合が大変に悪い人間で、いわゆる大の方でも一日に大抵3回くらいは行かなければならない習慣をもっている。多い時はもちろんもっと凄いよ。その上催してきたら、3分くらいしか我慢できない。あッと思ったら、トイレに駆け込まないと大変に危険だ。通学や通勤路にトイレがどう配置されているかを確認するというのが、まずは大変に重要なことだった。
 僕はパチンコなどはやらないが、いまだに店を利用することはある。だからパチンコなどのトイレを完備した娯楽施設を批判したことは一度も無い。これは社会的に必要な施設であると切に思っているのである。
 消防士の話に戻ると、そういう僕がそもそも勤まる訳の無いことがこれでおわかりになるだろう。いつでもトイレに行ける環境に無い職場というのは最悪である。安倍総理だってトイレ問題で、一度は首相を辞められたのである(というか、腸の難病らしいが)。それくらい非常に深刻で、なおかつ重要な問題なのである。
 また、たとえ小の方であっても、消防活動をやりながら我慢するなんてことができるのだろうか? どうしても我慢できない状態だとどうするんでしょうね。火事場には大勢の野次馬も集まることだろうし、消火の途中だけど、ちょっとやっぱりトイレに行きたいという場合、なんというか漏らしてしまうという人だって歴史上いたのではあるまいか。そういうことを考えると、本当に尊い仕事だと改めて感じはするのだけれど、やはりそういう体験はできるだけしたくないではないか。
 以上、大変に尊敬はしているが、どうしてもできない仕事の筆頭は、消防士ということなのであった。ごめんなさい。
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遡って愚かさを理解する   Xメン ファーストジェネレーション

2013-04-10 | 映画

Xメン ファーストジェネレーション/マシュー・ボーン監督

 後日談では無くて前日談ということらしい。もちろんもとを知らないので(というか忘れた)関係ないといえば関係ない。これからお話が始まるということは終わってから分かったが、だからといってどんな話に発展するのかというのはやはり分からない。よって、この作品のみで完結して楽しむことは十分可能だろう。その上聞くところによると、この前日談でも続編があるという。なんだか理解に苦しむが、スターウォーズ辺りからそういう話は多くなっているような気もして、ある意味で正当性のある流れなのだろう。未完成の方がお話が却って身近になるということとか、行き過ぎた話の理由づけというものにも、人々は関心をもつものかもしれない。
 ミュータントというのは日本の漫画の世界でも、ある程度はおなじみの設定である。人間とは異形の同族という存在が、神話以外でも信用できる土壌のようなものがあるのかもしれない。ひょっとするといるかもしれないという期待と、尋常では考えられない能力を獲得するには都合がいい。バンパイヤになると人間とは離れてしまうけれど、ミュータントだと親戚である。近いが遠いという距離感の持つ緊張感ということもあるかもしれない。本人たちもそこのあたりで悩みを持っているし、人間側としてもそういうものは親近感より否定したいものがあるかもしれない。実際にはそれを役立てた方がいいように思うが、お決まりとしてそういうアイディアを最初に思いつく方は、どういう訳か悪人の方である。人間社会をそうして牛耳ったり支配したり滅ぼしたりしたいという欲求になるらしいのだが、そういう精神性の方は今一つやはり僕には分からない。ミュータントの世界より数段不思議だが、だからこそミュータントがさらに嫌われることになる訳で、なかなか感慨深いものである。
 友情あり裏切りあり、そうしてまた人間の愚かさあり。そこのあたりの距離感は、人間としての悲しさもあるかもしれない。脅威に対して愚かな行動を躊躇なくしてしまうことに疑問を感じないではないが、しかし歴史的にそういうもんだ、ということを踏まえているのかもしれない。ある種の達観のようなものが、製作者側の方にあるように感じる。ひょっとすると原作のニュアンスがそういうものを含んでいるのかもしれない。そういう感じは日本の少年漫画の世界にもあって、僕らは子供時代に人間社会に悲観的に育ったように思う。大人になってみて確かに人間は愚かだと再認識するが、だからといって自分が賢くなっている訳でも無いようだ。つまり人間の愚かさは第三者的な他人事なのではない。自分自身が愚かだから、大人社会は愚かなのだ。子供が偉い社会というのは、やはり大人のおかげなのである。
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素直に楽しくやりたいもんです

2013-04-09 | 音楽
Let It Be - atles: Michael Province & Nathan Chan on Violin and Cello


 楽しそう。

 技術的に分かり合える信頼ってあるような気がするね。これは面白くなるな、って、やってる途中でゾクゾクするんだよね。そうして実際にそうなっていくというのが、やっぱり面白いというかしあわせというか…。そういうのってあんまりないのかもしれないけど、しかしそういうのを求めて、いろいろと熱中して何かをやろうとする人は多いんじゃなかろうか。
 何もかも中途半端だったけど、仕事の面ではそんな感じがだんだんわかってきた感じかもしれない。うまく言えないけど、きついところはあるけど、今は、けっこう仕事自体が面白いかもしれないですね。そういう感じがいつまでも続くといいな。
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まっすぐさがダイレクトに伝わる物語   シングルマン

2013-04-08 | 映画

シングルマン/トム・フォード監督

 ブロークバック・マウンテンの時にも感じたことだが、今や純愛というのは、同性愛の世界でなければ、いわゆる正常に語ることができなくなった題材ではなかろうかと思われる。男女が恋愛をするハードルはどんどん低くなっていて、以前はあったかもしれない身分や人種の違いなどで愛が阻害される社会というのは、当たり前にナンセンスになっている。恋愛の結果お互いがいつまでも幸福かというのはともかく、禁断の愛なんてものは、不貞をはたらく場合などの状況をつくならない限り難しくなっている。以前はその困難さというものに一定の共感があったものだけれど、現代の日本のような社会においてさえ、そのような不自然さというか困難さというものは、一般の精神上には、かなり消えてしまったハードルなのではないだろうか。
 同姓愛というものに対する社会的な嫌悪というものの正体は何だろうか。男女は正常でそれ以外は異常なのだろうか。いや、認知的な問題としては、そのような人々がかなり知られるようになって、いわゆる異常ではない状態というのは、それなりに理解はされていることだろう。しかし、抵抗感が消えていないかというのは、まだまだ怪しい。
 僕は男性だからだろうけど、同性のゲイという存在には、確かに一種の気持ちの悪さというものを感じるというのは何となく理解できる。身近にそのような人がいる訳でも無いし、単なる偏見だということも分かっていながら、やはり肌感としての異質さというのは、あるようである。
 偏見と分かっているといっても、過去にはゲイと言われる人と友人だったことはある。その場合はやはりそうか、ということはあっても、その後はそんなに気になることは無かった。やはりそれは偏見であるだけでなく、慣れの問題ということは言えるのだろうと思う。
 岡崎京子の漫画だったと思うが、ゲイだと分かるとすぐにセックスのことばかり気にする人を揶揄する場面があったが、つまり多くの人はそういうことばかり気にしている訳で、実際にはつきあいとしていきなりセックスまで発展する訳の無い相手に対して、考え過ぎているということは言えるだろう。はっきりいって付き合い上まったく関係ないことを問題にして、そもそもの関係をこじらせているといえて、非常にめんどくさいのかもしれない。
 かと言っていわゆるカミングアウト問題というのがあって、公表した上で無いと関係が落ち着かないということもある。分かる人には分かるのかもしれないが、分かりやすい人と分かりにくい人もいるのは確かで、とか言いながら、分からないままでも、たぶん本当に問題になるのは、やはり付き合う先の話になるということなんだろう。
 話はずれていっているが、結局のところマイノリティとしての迫害される恋の行方こそ、深く純愛が守られているということを、改めて感じさせられた訳だ。演じている役者さんは必ずしもゲイでは無いのかもしれないが、しかし、映画の中ではしっかりとそのようなまっすぐな恋愛感情が見事に描かれていた。そうしてその切なさこそ、やはり人としての、確かな感情であることも、間違いなく伝わってくるのだった。
 このような激しい感情は何故普通の男女間から伝わりにくくなってしまったのだろう。むしろそのことが不思議なくらい、まっ直ぐすぎる純愛の描かれた映画なのではないだろうか。
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個性なんて影響を受けても自然に出るものなんだろうね

2013-04-07 | 音楽
"Better Things" - Ray Davies & Bruce Springsteen


 レイ・デイビスの曲なんだけど、Eストリート的な、アメリカ的な感じなんだよね。考えてみると当たり前かもしれないけど、不思議というか、変というか、面白いわけです。

 先日、人の批判ばかりで、社会を揶揄する意見ばかりいう人がいて、それなりに周りの人がシラけきっている感じなった時に、甘えるばかりでなくて、自分に厳しくやることからやろうじゃないかという意見を言う人がいた。言いたかったけど言えなかった自分に恥ずかしさを覚えるとともに、なんだかとっても嬉しかったな。世の中捨てたもんじゃないということかもね。
 そういう意外性もあって、何とか毎日をやり過ごしているということなんだろうかね。
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僕は連続した僕なのか

2013-04-06 | 雑記

 驚いたのはプロ野球のシーズンが始まっているのに気づいて無かった事かもしれない。いや、春の選抜が終わっているのにも驚いた。聾唖の知人からメモをもらって「シロハト」が優勝したというのを聞いたのも、ああそうか、と思った。そんなに世間から隔離されていた訳ではないのだけれど、まったくそういう関心が薄れていた。見出すと離れられない感じが嫌で、離れていたというのが真相かもしれない。
 もっともだからといってそういうものから離れていることが、苦痛であったかというとそんなことは無い。それなりに大変さはあったものの、早く時間が流れて行っただけのことである。その分早く年を取ってしまったのかもしれないのだけれど、どうせ戻らないのならそれでもいい。早く先のことを知りたいということであれば、死期が早まるのも致し方なかろう。
 録り溜めている番組も、なんだか興味が薄れて見ないまま消去する。見たかった僕と、もう見なくていい僕は本当に同一の人物なのか。人間の連続性なんて怪しいものだなと思う。子供の頃におねしょをしたことをいまさら咎められても、恥ずかしさも何も感じないだろう。もっともしてしまった借金は、ちゃんと毎月振り落とされる。連続と不連続。つまるところ相手がどう考えているかで自分の連続性は確定しているのかもしれない。
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暇にプラス・イメージを!

2013-04-05 | ことば

 エコノミック・アニマルといえばかつては日本人のことだった。景気もあるとは思うが、いまや米国より労働時間は短くなった。休みも有給消化は少ないと言われながら、実際には多く取られている。そもそもの休日が多いせいだろう。しかしながら、恐らく実感としては、いまだに日本人は働き過ぎという印象がぬぐえていないのではなかろうか。
 労働時間にカウントされていないサービス残業の無い業種の方が少ないだろうし、いわゆる上場企業でもブラックと言われるところも多い。あいまいなところで勤勉さを保ち、いわば強要されていると感じている人が多いのではないか。
 一方で効率が悪く生産性が低いとも言われている。統計の比較の仕方やサンプルに恣意的なものが見られるとはいえ、実際に効率良く生産性をあげているとは考えづらい現実がありそうである。
 結果的にいわゆる「忙しい」人が多いということは理解できる。しかしながら、この「忙しい」の意味については、多少考え方の背景がありそうな気がする。
 実際に西洋的な感覚としては、「忙しい」にはマイナスのイメージしか無いのだという。強要されているのならゆゆしき社会問題だし、仕方ない境遇ならかわいそうな人。さらにひょっとすると能力の足りない人、効率悪く要領の悪い人。平たく言うと馬鹿にされる対象になる可能性もありそうだ。望んで忙しい人間は、人間的でない人。ディッケンズのクリスマス・キャロルのスクルージ爺さんのように、嫌悪の対象として描かれる訳だ。さらにユダヤ人が嫌われるのも、恐らく勤勉さと忙しさを厭わないところも含まれているに違いない(もちろん、イメージとしてだが)。
 ところが日本では、「忙しい」にはそのような意味がありそうだということは薄々理解できるものの、実際の印象としては、あんがいプラスの響きが感じられているのではあるまいか。忙しく働いている人は、仕事をたくさん抱える能力の高い人、実際に裕福な人(これは労働時間と比例しているのなら公平な判断だ)のような印象ではないか。事実としてそうでない人も、そのような人になりたいがために忙しさを演出するということもあるのではないか。また、暇というのは困った状況を指すこともある。仕事が無いのは困窮の原因だし、将来性も感じられない。忙しいのはともあれ、将来的な豊かさを保障する勤勉さの象徴なのではないか。
 勤勉さというのは人間的な高い「徳」である。そのような倫理観は必ずしも悪いとはいえない。しかしながらそれに付随する「忙しさ」というのは、一緒に高い地位を獲得すべきではないのではないか。
 まあ、単に僕は自堕落なだけなんですけどね。暇という価値観の高い国には素直に憧れを抱いているだけのことかもしれない。それに日本がそうなったら、あんがい悲惨さが増しているかもしれない。ホントは誰もが忙しい訳ではないけど、自分だけいい境遇で暇だというのが、嫌らしく品が無いというだけのことかも言えるだろうし。みんなが暇になると、状況が一転するということになるんだろうか…。
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目的が無くドレスコード有り

2013-04-04 | culture

 女子会と男性の飲み会は何が違うかという話をしていた。
 女子会の特徴として、
① 監事の役割が大きく予定がしっかりしている
② メンバーも厳選されている
③ 何を食うか(店の選択)、のポイントが高い
④ ドレスコードがある場合がある
⑤ コミュニケーションそのものが目的で、つまり目的は無い
 
 男子会(仮称)との比較をしてみよう。
 まずは①の場合たぶん男の場合ふらりとその場にいる人と飲みに行くか、という場合の対比だろう。でもそれって会社の飲み会ということなんじゃなかろうか。最近は男の場合も女子会的な飲み会はあるようだが、まあ確かにいい加減に集まるという感覚は分からないでは無い。
 ②の場合は、確かにそれはありそうだ。未知の人も呼んだとして、たぶんそれはかまわない。むしろそういう人をそこで知ればいいという感じもあるかもしれない。
 ③は少し考えどころだが、とりあえずビールでアラカルトで、注文は特に誰が何を頼んでも、まあ、どうでもいいということは多々あります。基本的にメニューを手に取った人にすべてを委ねる。嫌なら食わなければいい。
 ④は一瞬意味が分からなかったが、何着て行こうか、という相談がある場合があるというものを含んでいるようだ。誰かに合わせるとかいうような思惑がある場合もあるらしい。やはりよく分からんか…。
 ⑤は何となく、なるほどと思った。考えてみると男子会は、やはり昼間のことをどうするかを夜に考えるためにやっているということも言える。つまり昼のコミュニケーションを円滑にするとか、昼の問題点や提案の素案のようなものを夜の間に揉んでおく、などなど。基本的には仕事や組織関係の人以外ではあんまり集まらないし、友達であってもあんがい自分の会社の問題を整理したりするのに使ったりする訳だ。結局は昼間のための集まりなのかもしれない。
 もちろん、他にも意見はあるだろうし、そもそも認識が違うという意見もあるだろう。
 酒を飲むそのものが目的化している人もいるかもしれないが、それだって昼の問題を何とかするためかもしれない。
 家庭の問題もあるかもしれないが、そもそも男子会が崩壊しているという意見もあるようだ。都市部や田舎でも違うだろうし、世代でも捉え方はぜんぜん違うかもしれない。
 何となく実感として思うのは、僕はあんまり友達なんかいないのかもしれないということかも。それはそれで特にどうでもいいのだけれど…。家で飲んでいるのはけっこう好きだしね。
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ちゃんと食うようになってる

2013-04-03 | 

 訳あって長男次男、それぞれ別に飯を食いに行く機会があった。二人きりで飯を食うなんてことは日常ではほぼ無かったことで、そういうことだけのことなんだが、妙なイベント感がある。相手も何となく勝手が悪いというか、そういうことは感じているかもしれない。いつもより遠慮がちというか、違うテンションがあるような気がしないでも無い。
 まず何を食うかというのがあって、何となく選択が難しい。一人だと大衆食堂的な店なんかに入ってしまうところだが、若い人間はどうなのだろう。聞いてみると何でもいい、というくせに、店の前だと躊躇しているのが分かる。よく聞いてみると、チェーン店という感じの方がいいらしい。まあ、無難なんだろうな。僕としても、それはそれで妙な安心感がある訳だ。名前が売れているっていうのは、そういう効果があるのだろう。
 それぞれうどんだったりラーメンだったりちゃんぽんだったりした訳だが、改めて感じたことだが、ちゃんと飯を食うようになったんだな、ということだったのだ。普段も一緒に飯は食うのだけど、家で食うのとはやはり感じが違う。それに子細に観察している訳じゃ無いので、ちゃんと食っているかどうかさえよく知らなかったよ。
 店で食っている時もほぼ残さず大人サイズのものをちゃんと食っている。ただそれだけなんだが、大きくなったなあ、と思う訳だ。もう高校生なんで当たり前といえば当たり前だが、そういうことが妙に感心してしまうということなのである。
 会話というような会話もたわいないが、ちゃんとするようである。家だと面と向かって話すなんてことも考えてみるとあんまり無いみたいだ。しかしながら、既に友達と一緒の方が楽しいことは間違いないだろうし、これからはさらに話すことなんて何にも無くなって行くのかもしれない。それでいいといえばいいのだろうけど、やっぱりさびしいのかもしれない。
 もう少し大きくなると酒を一緒に飲むなんてことがあるんだろうか? それが楽しいことなのかどうかはよく分からないのだが、現実味を増していることは確かなのだろう。そんなことを考えると、もうあとは僕は死ぬばっかりしか残って無いな、とも思う訳だ。人間の一生というのはあんがい短いもんだね。まあ、それで別にいいんだけどね。
 子供が大人になるのは、過ぎてみると、本当に早いものであります。まあ、もう少しは頑張っていきますか。
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つらい道こそ…   成功はすべてコンセプトから始まる

2013-04-02 | 読書
成功はすべてコンセプトから始まる/木谷哲夫著(ダイヤモンド社)

 一緒に仕事をする機会が多いのに悪口を言ってすまないが、役人さんと話し合いとか会議などをしていてつくづく思うのは、このコンセプトが本当につまらないと思うことかもしれない。わざわざ面白くなく陳腐なものを選んできているのではないかと疑いたくなることが実に多い。
 素案の打ち合わせなどをしている時には、それなりに面白くなりそうなアイディアが出ていたりするんだけど「では持ち帰ってまとめてきます」と丁寧に時間をかけてまとめ上げられてきたものを見ると、本当に愕然としてしまったりする。おいおい、議事録みせろよ、と言いたくなる。いったい僕らの存在は何なのか、もしくは持ち帰った後の状態がどうなってしまったというのだろう。
 もう、付き合いたくないのだが、こちらにも利害があったりしてそのままの案でやることになるが、自分でも全然よくないと思っていることをやらされることになる訳で、自己分裂状態でその後の事業を展開しなくてはならないのである。かろうじて自分なりの裏目的を作ってさくさくやっていくしかないという感じなのである。そうでもしなけりゃ普通の人間なら病気になってしまうだろう。
 問題はセンスだとか資質ということでは無いのだろうと思う。おそらくいろんな人の意見を聞き過ぎるからだろう。すべての方向にいいものなんて最初からある訳無いし、会議は同意形成のためだけにある訳ではない。特に何かの事業を行うというような時は、実際にはかなりの方向性を決める必要があって、つまりそれなりに目的に沿うターゲットが絞られてなければどうにもならない。方向が違う関係への配慮というのは、そもそも目的外といっていいのではないか。
 要するにそれができない団体の案というのは、面白くなりようがないということかもしれない。
 公の場合は、まあ、仕方ないか…。しかしそうでないはずの団体のものであっても、えてして役人化する傾向があんがい見られるのである。そういう会というのは、ほぼ間違いなく皆無責任ということである。誰にも責任が無いからつまらないものしか意欲がわかないということだろう。
 面白いものというのは、実は楽な道では無い。大変につらい道という場合がほとんどだろう。そういうつらさに突き進むことは、本当にお勧めできることなのか。
 答えは断然イエスである。何故ならそれが面白いから。
 腐る前にやるべきは、実はそのような苦労を買う勇気かもしれない。別に精神論の話じゃないのだけれど、みなさんも頑張って行きましょう。
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観ない方がいいかもしれない恋愛の姿   ブルー・バレンタイン

2013-04-01 | 映画
ブルー・バレンタイン/デレク・シアンフランス監督

 一緒に観てたはずなんだけど、途中でつれあいは寝てしまっていた。結果的にはそれで良かったかもしれないなあ、というような、極めて重たい映画。恋愛映画だからといってカップルで観るには最悪の選択となるだろう。いい映画だけど、人生を棒にふるよりはましだ。一人、ないし、ちょっとした集団で勉強目的に観賞するのならいいかもしれない。いや、それなりに性的なシーンも多いので、それはそれで気まずいものにはなるだろうけど。まったく誰だろうね、こんな映画作ろうと思ったのは。
 どっちが悪いというような事を考えてもいいのかもしれないけど、僕でもこんな男は御免だな、とは思う。しかしまあ、それは役割なんだしね。不釣り合いな男女のつりあいを描いたものかとも思っていたのだけど、男性遍歴がそれなりに多いインテリということなんだろうけど、何となくそんなイメージの女性とは勝手に違うとも感じてしまった。インテリだけど妙にかわいいからそうなるという話でもないのだろうし。
 そういう分かりにくさの背景には、あちらの国の仕事観のような偏見的な背景があるらしいということも分かる。日本にも身分違いの男女関係というのはあるが、それは家の格の違いのようなものであるが、仕事の違いについては、あんまりとやかく言わないところはある。あちらには身分の違いもあるし、仕事の格の違いもある。職業に貴賎なし、という思想がそもそも無いので、まともな職業に就けないというのは、いつまでもハンディ・キャップなのかもしれない。
 もちろんそれがすべてでは無かろうが、最初は、その違いそのものを、女の方こそ面白がっていたということはありそうだ。今まで身の回りにはいなかった男性像に惹かれるということはあったのだろう。男の方は最初から自由人である。愛に生きることに、本来的には大きなためらいは無かったかもしれない。
 それにしても何を言っても物事を素直に捉える事が出来なくなっている状態のつらさというのは、まさに地獄図のような感じもあった。お互いに好きあっているのは間違いないものの、最初の頃はそういう部分も含めて惹かれあっていたものの、一度歯車が狂いだすと、そういうものすべてが嫌悪に変わっていく。何度も何度も立ち止まって何とかしようという葛藤があるが、最終的には嫌悪と憎悪が増幅しあって、結局は暴発、もしくは爆発してしまう訳だ。長く付き合っているカップルほど、この事実には多かれ少なかれあんがい覚えがあるのではあるまいか。やはり、こうやって破局というものが形作られるという訳だ。
 それにしても出会ってからの楽しいひと時や、ハプニングがあって絆が確定して結婚しようという流れは、本当に美しい。破局が悲惨だからこそ、このコントラストが本当に切なくなってしまう。おそらく何よりも強い男女の絆であったことは間違いなく。しかしそういう男女が、修復不可能なほどの亀裂を生じさせたことも間違いないのである。
 子供がかわいそうだという感想を持つ人もいるかもしれないが、僕が個人的に感じることは、それでもこの選択は、ベストだろうということだ。むしろ二人のことだけでなく、子供のことを考えるならば、やはり別れるべきなのであろう。さて、みなさんはどう思われるでしょうね。勇気ある人は観てみてください。
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