カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

未来のために年寄りに教育を

2008-01-12 | 雑記
 出張中に風邪をこじらせてしまったらしく具合が悪い。鼻水が大量に出て、ティッシュの浪費が続いている。目がしょぼしょぼしていて、活字を追うのも調子が出ない。せっかくの移動時間も有効活用できなかったようにも思えてもったいない。

 さて、年配の人と一緒だったのでそれなりに認識格差を味わいながら会話を楽しんだわけだが、僕がわかっていないのか彼らが分かっていないのか、精神的格差社会は大きいなあと思うのだった。まあいろいろあるのでいちいち取り上げていてはきりが無いのだが、彼らの多くは想像以上に先進技術に懐疑的であるようだった。先進といっても生活の中に当然のように浸透している携帯電話のようなものについて、何とかならんもんかなあ、といいながら当然のように新幹線の中で電話に出たりするお茶目さはあるのだから、本当に嘆かわしいのはどちらの方なのかという疑問はある。しかし電話より何より、あのメールというヤツがけしからん、という強い意見が聞かれた。あんなに頻繁にメールをするなら電話すべきだというまっとうな意見があって、僕はそれには同意しているけれど、明らかに僕にも向かって意見を言われている風で、非難を受ける若者代表ではないので不当な扱いを受けたような気分になって閉口した。
 朝からホテルのロビーに待ち合わせていたのだが、時間より少し早く待っていたのでロビーの一角にあるパソコンでネットを閲覧していたのだが、あとから来た人が「いつでもパソコンが無いと落ち着かないのは如何なものか」と暗に僕を非難した。まあ、そういう気分的な反省は無いではないが、待ち時間にボーっとしているよりまっとうな姿勢をむしろほめるべきところではないかと思う。
 帰りの新幹線の中で前の席に座っている女の人が(特にビジネス関係者には見えなかったが)パソコンのキーボードを叩いている。音としてはほとんど聞こえないし、表に何かを書き込んでいるふうで、中断も多い。しかしある一人は聞こえよがしに「移動にまでパソコンが必要とはねえ」と言った。恐らく女性には聞こえたとは思う。しかし明らかに僕らの話し声の方が音量は大きいわけだし、パソコンだけ非難するというのはまったく不当ではないかと強く思う。車内で本を読んでいる人もいるのだから、基本的には同じような行動に過ぎないと思うが、恐らくそういうローテクのものにではなく自分が扱えないパソコンに対する嫌悪であるに違いない。
 知らないというのは恐怖を呼ぶのかもしれない。暗闇に何かいるというファンタジーは、実際に確かめてみて何もいない場合でも払拭しにくい。明かりをてらして確認できなければぬぐえにくい恐怖かもしれない。ハイテク技術は、その原理の説明を受けたとしても、なかなか理解しづらいものがあるということも分かる。専門性が高すぎて、その分野にある人でなければ本当には誰も分かっていないのかもしれない。しかし現実にはそこにあって活用は出来る。レンジをチンすれば食べられるように。
 何も電子レンジを使わずとも調理が出来るという理屈は理解できるが、しかし火を使わずとも調理は出来るというレベル程度に不当な比較だろう。レンジを使うことで人間的な基本の能力が劣っていくわけではない。
 若い人に出来て年寄りに出来ないことという線引きも、なんだかおかしなものではないかと思う。基本的にそういうことはないだろうし、ただやりたくなくなったという言い訳に過ぎないのではないだろうか。それは個人的な気分の問題であって、非難の対象ですらありえないのではないか。
 しかしうまくいえないが、僕は年配の人がそういう心配をしているという気持ちはなんとなく分かる。不安に思ってしまう心理も理解できていると思う。だから素直な気持ちで誤解ですよと教えたくなるのだけれど、それを理解できる能力のある人が少ないことも知っている。諭されればされるだけ、心の鍵は厳重にかけられることになってしまいかねない。むつかしいものである。
 若者の多くも年配の人を理解しようと努めていることも知っている。望若無人のように振舞っているという子供もいないではないが、ほとんどは若者の方が年配の人を大切に扱っていると思える。むしろ年配の人が若者に配慮をしない。いや、出来なくなっていっている場合が多すぎる。年をとるというのはそういうことかもしれないな、とやっと最近思うようになったぐらいだ。
 しかしそういうことが分からなくなっても、依然第一線で現状の判断をし、引っ張っているのは年配の世代であることは間違いがない。それも想像以上に平均年齢は上がっていると思われる。特に日本においては、恐らく人類が体験したことが無いぐらい、重要な判断をする人たちの平均年齢は上がっている危険がある。
 まっとうな指数ではないかもしれないが、世界トップだったこともある日本の一人当たりのGDPは、既に18位まで転落してしまった。その責任すら感じない世代が、今も日本の最前線にいるのである。僕にはそう思えて仕方がない。
 いや、世代論で一所くたに論じたくなるのは悪い癖だと分かっている。個人差があるのだから前線で十分に戦える人がそれなりにいることも事実だろう。しかし、というのはもっと多いはずの邪魔な連中だ。少なくともパソコンが憎憎しく思えている人は要注意だろう。別にできなくたってかまわないが、攻撃したくなる自分の姿が分からなくなったら、誰かが引導を渡すしかなくなるのではないだろうか。そういう年配の人を教育できる社会になれば、もう少しまともな未来を見ることができそうなのだが…。
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素直になれない客

2008-01-09 | 
 食事会でバイキングを食べに行く。しかしどうしてバイキングというのだろう。ホテルなどではビュッフェというのがいわゆるバイキングだよね。まあここは日本なので西洋と違って当然だけど…。
 こういう場合は食うぞという気合が大切である。ではまず何から。ということで寿司がいいとのこと。千綿にロボット寿司というのがあるが、まあ、そういう寿司である。徹底して安っぽいが、そんなことはどうでもいいのがバイキングの醍醐味だ。
 テーブルに寿司を並べて、お次は肉を取りに行く。牛にブタにレバーに鳥。辛く付け込んであるのはパス(僕は好みだが、テーブルでの万人受けを気にして)して無難な選択。蛸なんかもある。真ん中の網にダーっとこぼして(そういう感じの焼き方ということ)どんどん焼いてゆく。焼きあがったらホイホイ小皿に移して食べてもらう。他にも唐揚たこ焼きハンバーグにスパゲティ、シュウマイとかカレーを食っている人もいる。僕は運転手なのでパスしたが、ビールもジョッキでぐびぐびの人もいる。この騒然とするような熱気がバイキングだなあと思う。さあ、次は何を、というと、もう結構とのこと。なんだ面白くねえ奴らだな。ということで僕の班は意外と少食のようである。しかし僕の方だってさっき個人的にうどんをとってきて食った後であり、もうそんなに食いたくない。テーブルには微妙に残った食材の山である。ウーン計算違いであった。そうして悩んでいると、お店の人が「ウチは先払いのシステムなんですが…」と会計の話をしに来た。僕らの集団が気合を入れて入ってくるなり食いだしたので言い出し難かったのであろう。
 まあしかしなんとなく気の毒な気がして残り物を片付けたので腹いっぱいである。ものすごく美味いというわけではないものを腹に詰め込むのは悲しい。ご利用は計画的にである。
 しかしながらバイキングを食べている時には、皆さんそれなりに食い物にケチをつけながら食っていることに気付いた。この肉はなんか怪しいとか、ハンバーグには何がはいっているか分からないよね、とか、仕入れのシステムがどうなのだとか。そんなことをいいながら、結局デザートのケーキまでパクついたりしているので可笑しい。バイキングをおいしく食うことが、なんだか後ろめたいとでもいうように…。「この間ウチの娘がここで食べてきて、帰ってきてから具合が悪くなったのよ」というが、単に食べ過ぎたのでは…。
 確かに安いと思うが、それでも元を取ろうという気分にさせられるバイキングというシステムは恐ろしいと思う。そういう客を相手に、恐らくしっかり元を取っているのは店のほうだというのもさらに恐ろしいのだが…。
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安打を刻むということ

2008-01-08 | 散歩
 朝から散歩していると頭上をゴワゴワバサバサと鳥の群れが飛んでゆく。鴨の群れだろうと思うが、真っ暗な中の住宅の間で急にゴワガワした音が通り過ぎるので、杏月ちゃんは心底怯えている。正直に言って僕もそれなりに驚く。方向からして池田の堤に向っているに違いない。水面には既にたくさんの水鳥が陣取っている。池の広さからいって過密すぎる気もするが、こうやってどこか近場に散歩して戻ってくるものかもしれない。先日萱瀬のダムにも行ってみたが、ほとんど水鳥はいない。鴨の番のような姿が一組だけ。水が少なくなっているとはいえ、あそこなら生存競争も激しくなさそうだが、何故選択肢からもれるのだろうか。やはり餌の問題なのだろうか。本堂川のあちこちにも鴨は泳いでいるが、たいてい番がチラホラしている程度だ。団体と外れモノの生活には違いがあるのかもしれない。

 散歩にも強迫観念があるらしく、歩いていないと昼過ぎぐらいからだんだんとイライラしてくる。歩数が稼げていない焦りである。歩く程度の運動でカロリーの消費はしれているので、ダイエットのために歩いているわけではない。それは以前にも書いたことだ。しかしながら意識付けとして毎日歩くことはやはり有効で、歩いているという状態で新たなファイトが沸いてくるのは確かである。ただ飯を制限するだけでは、精神的につらくなる。運動もしているということで、生活全体が楽しくなるということでもあるようだ。
 しかしながらずっと習慣的に歩いていると、歩けなかった日が非常に惜しくなる。万歩計の数値を記録しているのだが、その数値の平均値が微妙に下がるだけでかなり口惜しい。イチローなどの打率が三割を超えるというのを見ていると、ほとんど毎日ヒットを打っていることが分かる。ちょっとでもあたりが止まると、たちまち打率が下がってしまう。逆に相当固め打ちをしても、そう簡単には打率はあがらない。毎日コンスタンスに結果を出し続ける。それは確かに大変だろうなあと思う。毎日確実に一万歩を刻むというのも、同じように大変なことなのである。自分の体調が整わなければならないし、仕事などで缶詰にならざるをえない状況になっても困る。天候にも左右される。そうして長期間平均値を一万歩以上に保ち、なお消費カロリーを300キロ程度以上にするのは本当に至難の努力を要することなのである。ホームランならランナーが溜まっていたら同じ一本でも打点が違うが、打率はあくまで安打数を稼ぐより無い。歩数だって同じことでストイックに追い求めないかぎり増えることは無いのである。先日は少しばかりイチローを腐したようなことを書いてしまったが、彼の性格は好きになれないにしろ、僕は彼自身をそういう意味で尊敬している。そして今日も歩数を刻むべく散歩にいそしむのである。
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餅で死ぬにふさわしい時期

2008-01-07 | 時事
 職場にて鬼火焚き。今年はたいした音がしないねえ、と話をしていたらバーンと派手に鳴りました。本当にあの音には肝を冷やすよ。
 そうして鏡餅をハミキリで割って焼いて食う。年始のご挨拶にこられる人にも餅を分ける。今年もよろしくお願いします。
 さて、餅を食っていると今年もたくさん餅を食って死んだ(餅をのどに詰まらせて)人がでたらしいことが話題になる。毎年のことなのにどうしてこうも事故を防ぐことが出来ないのかというような意見を聞いて、僕は激しく同意できないと感じる。データを前に話をしないのは間違いの元かもしれないが、たぶんそれは違うと確信を持って思う。
 もちろん餅を食うのは正月の風物詩である。正月以外でも餅を食うことはあるだろうが、ほとんどの人は特にこの季節に餅を食うだろう。だから確率的にこの季節に餅を詰まらせる人が多いのは当然のことだろうと思う。そういう意味では不幸な出来事だ。しかし、例年と比べて本当に死んだ人が多いのかというと、多少の増減はあるもののそう大差ないのではないかとも思う。ここら辺は強く思わないが、予想としてそう思う。
 僕が問題視したいのは、これは正月の話題だということだ。正月の風物詩として餅を詰まらせて人が死ぬということをニュースにしたいという報道姿勢があるのではないかということである。今年は何人死んだとか、どこの地区でも誰が死んだとか、この季節になると喜んで調べてなおかつ知らせたいという気分があるのではないか。そうして餅を食いながら、何てことだと話題に上げてみたいという欲求があるのではないか。
 餅に限らず嚥下しにくい食い物というものはある。以前には蒟蒻ゼリーでの事故が多くて話題になったことがある。僕はこれも蒟蒻ゼリーが悪いというより、それ以前に蒟蒻を食って死んだ人もいるのではないかと疑った。蒟蒻ゼリーが売れてみんな喜んで食っている時に、こんなに危ない側面があるんだということを面白おかしく警告したい人がいるのが先の話ではないかと思ったのだ。ただでさえ嚥下不得意な人は、蒟蒻でなくとも注意が必要だ。実際のところちょっと大きめの歯でかみにくいものであったら、何であっても喉に詰まらせる可能性がある。たとえそうでなくても、モノを食うというのは、それなりにリスキーな行為なのではないか。一定の食い物を怖がらせて面白がる人のほうが罪深いのではないか。
 たぶん二月になっても三月になっても、餅をのどに詰まらせて死ぬ人は日本全国のどこかにいるのではないかと思う。しかしたぶんどこの報道機関もまじめに報道することもあるまい。誰かが無理に食わせて殺さないかぎり、見向きもしない事故になってしまうのであろう。
 さて、そうは思っても、大勢で餅を食っている時に目が行き届かずに、いつの間にか手遅れになってしまう場合もあるかもしれない。この人は危険だからと食うことが許されず、隠れてひっそり食って詰まらせてしまう人もいるのではないか。リスクはあるが、正月だからどうしても食いたくて落ち着かない。そんなに簡単に引っ掛けるものかと高をくくって引っ掛けてしまった人もいるかもしれない。そういう意味ではやはり気付けて厳重な厳戒態勢をひいて餅を食うという姿勢も必要な場合もあろう。少なくとも既に数人は亡くなってしまわれたわけで、彼らの死を教訓にしないのはもったいない。分かっているけれど事実としてなくならないリスクを呼びかける姿勢が好きなのが、人間の習性なのかも分からない。
 問題はそれを正月だけの話題にしないことだ。それが出来ない人は本当に正直な人ではないのではないだろうか。
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暖機運転

2008-01-06 | 雑記
 思うところあっていろいろ整理しに職場へ。すると時計の修理やらアンテナの修理やら髭剃りの機(シェーバーというのかな)の修理などいろいろと頼まれる。僕の役割は一種の何でも屋のようなものらしい。外にも洗濯機の調子の悪さだとか(これは昨年から対策は打っているが、完全には未解決)、廊下の電気がすぐに切れる件など(同左)、懸念事項が数多くあることが判明した。N間さんの便秘が深刻であるとか、I籐さんが昼夜逆転の生活になってしまったなど、まったく困った困った。水をいっぱい飲んでもらって、昼間に活動してもらうしかあるまい。まだまだのんびりしたい人もいるには違いないけれど、多くの人が早く日常に戻ることを望んでいるのではないだろうか。休みというのは、長ければいいというものでもないようだ。
 本もいろいろ届いていて、ぱらぱらめくるのは楽しい。注文していたが品切れだったという連絡もある。もちろん別の業者に再度注文する。ネットはすばやくて便利だ。しかし新刊書で品切れ状態が続いていて、新古書の値段が急騰している本がある。アマゾンはもう少しすばやく対応すべきだと思う。記憶では僕のマイタウンの本屋にあったはずである本だから注文しないが、こういう差額を狙った商売が成り立つのもネットならではかもしれない。明らかに絶版のもので値が上がるならわかるが、担当者が版元に確認すれば補充できる商品ほど、短期で値が上がるようである。そういうものは怠慢なのであって、商売としては信用を失うだけであろう。
 メールも溜まっていてとても一日では目を通せない。いくつか拾い読みし、出欠関係はすぐに返事を出す。出張の行程が決まらないものなどあって、週明けに確認しなければならないものを紙に書き出しておく。以前はこういうものこそ煩わしいと思っていたのだが、来週のめぼしがつくという点では、手をつけやすくいい仕事の残り具合である。
 新年早々のメールで昨年末からの懸念事項が片付かない現状相談など頭の痛いものもある。相手が職場にいるものかどうか不明なので、来週明けから再度確認せねばなるまい。締め切りは過ぎているんだが、やはり守らない人がいるのである。足を引っ張る人が減るだけで、仕事の効率は随分上がるはずである。守らない人は守らないことで自分の忙しさの正当性を語っているのかもしれないが、そういうものを抱え込む前にちゃんと依頼を断って欲しいものである。ぎりぎりになるほど精度は落ちる。そういう言い訳が必要になって手をつけるので甘えた仕事しか出来ないのである。まあ、半分は自分自身についても通用する愚痴なのだが…。
 しかしながらそういう休みの空間を埋める作業をしていると、それなりに落ち着いてきた。また今年も仕事があることがしあわせだ。今日は暖機運転の日だったということであろう。また休めるのだから考えてみれば随分贅沢なものだ。一月の予定もほとんど固まってきたが、安心の未来といえるのではないだろうか。
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ゲーマーは幸福だ

2008-01-05 | 雑記
 朝から電話を待っていると、待っている人以外からの電話がかかってくる。そうして気付いたが、携帯電話以外の家の電話にでたのも久しぶりのことだった。仕事では他の職場に電話することがあっても、なかなか人の家に電話することはなくなった。携帯同士の電話が恐らく一番多く、見慣れない電話の数は数えるほどだ。世の中はこじんまりとまとまりすぎているのではなかろうか。新しい変化のしにくい時代になっているのではないだろうか。しかしながらそうかといって知らない人からばかり電話のかかってくる状況は勘弁して欲しいけれど…。
 半日つぶれてちゃんぽん食って、さて最初は職場に顔を出すかと思っていたが中途半端に思えてやはりオフにする。そうなると散歩だ。だらだらしているようで歩くほうはしっかりしている。新年から駅伝なんかを見ていたので歩数自体は伸びていないけれど、歩き出すと遠くまで行きたくなる。杏月ちゃんを連れているので路上をかぎまわっているだけのようだけれど、聾学校を回って自衛隊も回って本堂川を登って帰るコースだと一時間以上にはなる。けっこうしっかりしたテルトリーではないだろうか。
 雀が田んぼにたむろしていて、僕らが近づくと一斉に舞い上がって飛んでゆく。杏月ちゃんはそういう雀たちを眺めてしばらく立ちすくんでいる。そうして不思議そうに僕の顔を眺める。違う種類の動物という意識はありそうだが、お友達になりたいとも思っているのではないだろうか。いや、擬人化して考えると危険だ。食事が逃げていくと考えている可能性もある。川沿いで鴨がバシャバシャ飛んでいくと、杏月ちゃんもびっくりして逃げ出している。鴨はお友達ではないらしい。遠くの方で踏み切りの信号機のなる音がすると抱っこしてくれと催促する。汽車の通る音が怖くてたまらないのだ。轟音で走る鉄の塊は、杏月ちゃんには悪魔に思えることなのではないだろうか。
 夕方になってつれあいの実家に遊びに行っていた子供達が帰ってきた。またお年玉をもらったらしく、買物をしたくてたまらないらしい。目当てはもちろんゲームソフト。人気のあるソフトはやはり売り切れているらしく、四件ハシゴしてやっとGET。それもある店より10円安かったといって満足げである。僕にはこの価値観がまったく理解できないけれど、すばらしいことなのであろうなあと思うと、僕も満足するのであった。いつまでもゲーマーのままで大人になるものかどうかは分からないけれど、ゲームで確実に楽しい毎日が過ごせるならば、彼らの世代というのはしあわせな世代といえるのかもしれないとも思う。少なくとも僕はゲームでは満足できない。彼らよりはよっぽど不幸な人間なのではないだろうか。
 夕食には年末に注文して今朝届いていたボー・ペイサージュのラ・モンターニュを飲む。先日はタケダワイナリーのサン・スフルを飲んだ。これはシュワシュワしているくせにタンニンの濃厚な不思議な味だった。どちらも三同敦子が推薦していて興味を持ったもの。どれぐらいすばらしいかは僕の舌では正直わからないけれど、きりっとしてそれでいて深みのある世界にウーンと唸ってしまう。いつの間にかどんどんのんでしまいそうで怖くなった。まあしかし僕にも幸せがあることは確かだ。他人より不幸だなんて単純には言えはしない。そうして酔っ払って焼酎のお湯わりを飲むと、チョコレートのように甘くて耽美で、さらに酔っ払ってしまうのだった。
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個人主義の違いだろうか

2008-01-04 | 雑記
 駅伝放送が長いせいもあるが、テレビの前で運動不足である。それで散歩に出てみるが、けっこう寒い。これは引きこもる時期なのかもしれない。そうかもしれないが、散歩のときは寒いのもけっこうである。一所懸命に歩いても容易に暑くならない。寒いと勤勉になるのではないかとも思う。じっとしていれば、下手をすると死んでしまいかねない。酒を飲んで路上に寝てしまったりすると、そのまま目覚めないかもしれない。人間がしっかりしてくるのではないか。
 
 ビデオにとっていたイチローの番組を見る。彼がヒットを打つことは願っているし、活躍して欲しいとは思うが、特にファンではないし、むしろ嫌いなタイプの人間かもしれない。報道の画面を見る限りでは、禅問答好きの気難しがりの自己中心人間であると思っていたのだろう。しかしこの番組をみて、自分を追い詰めて戦う以外に道がない立場に同情した。ああいう具合に自分自身が大切でなければ、才能というものは開花しないのかもしれない。かっこうつけているには違いないし、演じているということでもあろうけれど、そういう自分自身に酔えないとプレッシャーには勝てないのかもしれない。お金を稼ぎ自分自身に価値のある人間というのは、とても生きるのが大変だと思った。坦々とカレーを食い素振りをして結果を残そうとする。そしてたぶんそういうことに追われながらプレーをする限り、終わりというものはないのだろう。米国式野球というものに、なんだか興味が薄れてしまった。もう少し単純でワイルドなんだと思っていた。いや、これはイチローということなのだろう。他人と自分の期待にこたえるということの、方法なのだろう。そして、この現代思想のままだと、人間はしあわせにはなれないということがよくわかった。とにかく金があるのに憐れである。ああ、しかしそうして僕らは彼らに金を払い、試合を見るのだろう。なんだか誰がこのようなスポーツの世界を作ってしまったのか、情けなく恨めしい気分である。

 高校サッカーの怖そうな監督さんの年齢が37歳だったのでびっくりした。ああ、僕はあの人より年上なんだ。警察官が若いと思えるようになったら、自分が年をとったということらしいが、最近は年下が驚くほど年寄りだ。これは一体どのようなことなのだろう。僕らの年代は苦労しているのだろうか。

 ドキュメンタリー映画の「マーダーボール」を観た。けっこう笑えたし、考えさせられ面白かった。車椅子ラグビーの話なのだが、障害者ものでも単純なお涙頂戴なのではない。人間という屈折した面白さ。僕はカナダの監督さんのような人が好きかもしれない。頭にきたら素直に発散させる。このストレートな爆発こそ自由の国の住人の愉快さではないか。性の問題にも素直に語られており、意外だが、人間の本性をうまく語っていると思う。これだけぜんぜん飾らずに生きていけるというのは、日本人の僕には大変にうらやましい。なぜなら絶対に不可能な生き方だからである。
 イチローはベースボールをやりに行ったほうがいいのではないか。充分活躍しているのだから要らぬお世話だけれど…。この映画のパワーは複雑な人間模様でありながら、単純に人を幸福にさせる。彼がこれを観たらどう思うだろうか。少しぐらいはしあわせになれるんじゃないかと思うのだが…。
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特別でないスペシャル

2008-01-03 | 雑記
 お正月として特別なことは何もしない。といいながら、年越しそばを食って餅も食って正月サッカー(小規模)をして箱根駅伝を完全に見た。ああ、満足。そして二日酔。新年は特に栄ちゃんとたくさんしゃべった。小学校の低学年からよく遊んでいた仲だったんだよね。本当にあの時の空気まで思い出したよ。それにしても以前のことをよく覚えているもんだね。言われるまで思い出せないことばかりだったよ。
 さて、喪中ということで年賀状を遠慮していたのであるが、年賀状はそれなりにいただいた。なんとなく申し訳ないような気分である。ご挨拶もれのあった方には失礼いたしました。こういう場合寒中見舞いというような返事を書いた方がいいのだろうか。なんとなくぐずぐずしてしまって三が日が過ぎてゆく。まあ、過ぎたものは仕方がない。お会いできる人には直接ご挨拶をするまでである。何しろ日常はもうすぐやってくる。焦る必要もないのである。
 僕は特に年始に目標を立てない。何故かと言うと、こういう特別感の漂うときに特別な感情でもって目標を立ててしまうと、僕の性格からして碌なことにならないような気がするからである。今年はどんな風になるなという状況確認が済んでから、おもむろに思いつくことするというようなことを信用している。まあだから新年は関係ない。ブログのような備忘録のような日記のようなことも、こういう特別なイベントとしては始めない。これが僕の基本姿勢なのである。特別といえば、ちょっと贅沢な酒を買うとかしてしまいそうだが、やはりこれも正月というような全体的に特別な区切りより、誰かの誕生日というような局地的なスペシャルに特化する。そうすることで、自分自身が流されないような気がする。みんながするから正しいことは疑うし、みんながしないから特別なんじゃないかというようにも思える。自分が楽しい、で、自分以外には迷惑がかからない、というような特別が、何より尊い。みんなが好ましいからということを価値においてしまうと、自分を簡単に見失う。自分自身が好きだということを信じないで、なにを信用するというのか。それが自分を磨くことでもあるだろう。まあそれで相対的な価値が高いかは、やはりついてはこないだろうけれど、それを諦めたり相手にしないだけで、ずいぶん気楽で救われるものである。何よりハッピーだし、愉快だ。今年もそんな年になるように。スペシャルは求めないことにする。
 みなさん、どうぞ今年もよろしくおねがいします。
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