カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

ウェブ進化論/梅田望夫著(ちくま新書)

2006-08-17 | 読書
 ひとことで言ってしまうと、元気になる人とがっかり肩を落とす人とに分かれるのではないか。こちら側とあちら側のどちらに現在自分がいるかということで、その驚きは違うはずだ。まあ、当たり前だが、僕らはこちら側の社会に住んで生計を立てているわけではあるが、既に生活上はあちら側の恩恵を受けている、はずだと思う。これは多数決の問題で、一気にあちら側にみんなが行ってしまったときに、恐らくこちら側は崩壊する。その破壊力を思うと、劇的であるばかりでなく、空恐ろしい。たぶんホラ話だったはずのことが現実化しようとしている。そのリアリティのあるなしで、この本の評価は決まるのではないか。
 正直に告白すると、僕自身はIBMがパソコン事業部を中国の会社に売却した時に、アメリカの技術産業の斜陽化を感じたものである。しかしながら、その認識が完全なる誤りであったと、この本で知ることになった。かなりガツンと本気で頭を殴られた気分である。また、技術大国日本の将来のことを思うと、この本を読む前の自分と今の自分の葛藤を上手く整理できないことも事実である。Web2.0の破壊力は凄まじいし、この考え方を実感を伴って利用できることは、格段の能力を手にしていることと等しい。自分自身を高みに持ち上げたい。可能性として本当にレベルアップしたいという野望を持つものにとって、あちら側の可能性は、計り知れない魅力を放っている。その結果、自分自身がどうなってしまうのかはよくわからないのだけれど、知らないでいる人にはたどり着けない世界の住人になっていることは間違いがない。脅かして言うと、そういう感じである。
 この感覚がわかるかわからないか、ためしに読んでみてはどうだろう。いくらなんでもそんなはずはないよ、と思うか、激しく反発するのも、僕には理解できる。僕だって、とんでもない話だと思う。しかし、このリアルさはなんだろうとも思う。既にこの世界は現実化している。ただ、圧倒的なこの流れの中に、ほとんどの日本の会社はまだ移行していない。いや、ひょっとすると移行できないかもしれない。日本というスモールネットの中でいる分には、その可能性は残されているが、あちら側が巨大化したあとでは、恐らく未来を失うだろう。カギを握っているのは、僕より若い世代次第だろう。そこのあたりが、なにより革命的である。
 このホラ話をあえて必読書にしたい誘惑にかられて、強力に推してみたい。ライブドア騒動なんて、所詮こちら側の出来事だったと気づくだけでも、凄まじい衝撃が走るのではないか。恐ろしくもあるが、やはり僕は元気になった。Web2.0という考え方は、限りない豊かさがある。少年の頃の夢のように輝いている。その原点には幼稚な部分はあるにせよ、無邪気に人を取り込み、呑み込んでゆくのかもしれない。それは、大衆が創造する未来像である。そして、人間とは想像力を現実化することをしたがる癖があるのだと思う。手塚治虫が想像した漫画が現実化したように、想像できてしまった世界は、現実可能な未来像なのである。
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花火でフィナーレ

2006-08-17 | 雑記

 花火を買いにゆく。ところが、ほとんどの店で、だいたい売り切れ状態。残り物をどうぞ、という感じ。みんな花火が好きなんだ。というか普通は昨日までに花火はすませるものなのであろう。
 店を回っている時にA水委員長とも遭遇。焼酎を買いに来たという。日に焼けて顔が赤い。この暑いのにゴルフだろうか。
 近所の実家に帰ってきているJ内君にも久しぶりにばったり会う。娘さんが袋一杯に花火を抱えている。息子達も対抗意識に火がついた様子。目が負けられないと訴えている。これはたぶん勝負じゃないんだが…。
 5件ほどハシゴして花火を集め、食事後にミニ花火大会。子供達もこういうときは聞き分けがよくて、宿題なども少し済ませているようなジェスチャーがある。暗くなったし、下手な障害を避け、すんなり花火へ移行しましょうという強い意思が感じられる。新しく焼酎は作っており、もう少しゆっくりしたい気もしないではないが、これは動かねばなるまい。
 台風が近づいているということで、心なしか風が強い。空の植木鉢のアナにろうそくを立て、防風設備とする。それでも風の都合で、しばしば火が消えてしまう。もともと買わなかったが、打ち上げ花火は無理であったろう。
 何故かひもで吊り下げてぐるぐる回る種類が多い。火の粉が飛んで小琳ちゃんは迷惑そうだ。
 一通りいろんな種類を楽しんで、最後にみんなで火の粉をグルグル飛ばしてフィナーレ。これで我が家のお盆は終了である。
今年の僕は酒ばかり飲んで、あんまりいい父ではないお盆であったとちょっぴり反省するものであるが、それなりにいろんなこともあったのであるなあ、などと感慨深い。

 寝ていると、深夜に突然目覚めて寝付けない。ごそごそ起きだしてしばらく本を読んで又布団に入ると、金縛りに襲われる。自分では声を出しているつもりだが、うめき声さえでていないようだ。やっと開放されて息を整えていると、又襲ってきそうな気配がある。体を起こして手足をもむと、指の甲に軽い麻痺があるようだ。体力的にかなりつらくなっているのだと思う。あらためて若くないんだなあ、などと思いながら恐る恐る寝るのであった。
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トンボが飛んでいる

2006-08-16 | 雑記

 暑いのでごろごろしているが、窓の外を見るとトンボがたくさん飛んでいる。江戸時代に日本に来た外国人が、あまりのトンボの多さに驚いているが、本当にたくさんのトンボが浮いている。下界の人にとってトンボは秋だが、僕の家は中山間部なので、秋ももうじきということであろう。
 先ほどまでは二日酔いで仮死状態であったが、そろそろ復活する。もう少し寝ていてほしい人には残念かもしれないけれど、僕だってずっと寝ているわけにはいかない。先に書いた文章ではこのまま死んでしまいそうであったので、健勝をお伝えするものである。
 午後からは石を拾いに行く予定だ。今日は地獄の釜のふたが開いているということなので、水辺を避けて石を探すことになろう。ところで何のための探すのかは不明だ。夏休みの宿題なのだろうか。
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報道のわりに、区切りはついたのでは

2006-08-16 | 時事
 連日の報道騒動を見ていると、やはりこれで区切りがついたという気がしてきた。小泉首相の変人ぶりを強調する路線も見られ、鬼の首を取ったように喜んで批判しようとする勢力も、その加熱ぶりとは裏腹に、たいして効果的な手を打てていない気がする。客観的に考えて、小泉首相は最後まで勝利をおさめたと考えていいだろうと思う。最近の言い回しでいうと、「参拝しました。それがなにか?」という感じだ。これで完全に靖国問題は、問題にしたい人の問題に転化されたのであろう。
 毎日新聞の社説を読むと、「国民の圧倒的輿論を無視して参拝する愚行」と捉えているようだ。前にも書いたことがあるが、靖国参拝が問題化することと外交カード化することは、実は小泉戦法ではないかという気もする。外交問題は難しい局面が山積しているが、とりあえず放っておける。中国の輿論問題は単なる勘違いだし、韓国は脱日本という姿勢でもあろう。この流れに、逆に日本としても歓迎をしていいのではないかとも思う。親密なアジアの朋友路線に見切りをつけて、選択肢を増やしたということでもいいのだ。例えばインドに行く好機とも捉えられる。難しい関係にはそれなりの距離があったままでいい。中国朝鮮はその両国関係でうまくやってくれればいいのだ。それが長い視点ではかなり現実的に有効であるように思える。日本の政治家は案外先を見ているのではないか。ポスト小泉ということも考えると、これからしばらくは安定した成長日本の姿が容易に想像できる。もうやかましくなったので15日参拝はなくなるかもしれないが、安倍さんは別の日の参拝を続けることだろうと予想される。これでこの問題は、いろいろ言われている割に、ある程度決着がついたと思われる。小泉首相は民主的な人ではなかったが、時代に乞われて、なるべくしてなった人だという歴史が定着した。これは日本という不自由な国において、奇跡的な反動なのであろう。

 さて、連日激しい飲酒行動が続いていて、二日酔いで具合が悪い。気分がさえないので、もう少し落ち着いてから始動することにする。第一いろいろあったけれど、詳しく思い出せない。思い出す気力も出ない。点滴を受けたい気分だが、病院にいくのもわずらわしい。涼しいところで意識を失ってしまいたい。そういうわけで、さようなら。
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活動は精霊に任せる

2006-08-14 | 雑記
 夕方坊さんが来る。お盆である。皆が集まる頃に読経も終わる。母は40秒といい、子供は二分だという。人間の主観には差が大きい。まあ、忙しいのであろう。
 つれあいの実家に行く。一献交えて話をする。淡々とした話なのだが、家族はこういうつながりの中にあるのだなあ、と感じる。息子のことだとか、段々なじんでゆく感覚をお互いに静かに喜び合って、酔っ払った。
 さて、何して遊んだものかなあ。暑いけど、そろそろまじめに考えよう。プールに行きたいそうだが、プールねえ…、ちょっと決断力を有する選択である。
 家に帰ると兄夫婦も来ている。何故かコーヒーを飲んでいる。いろんな話が弾むが、僕は眠たい。今頃大阪の朝までカラオケが効いてきたのだろうか。今は安らかに眠りたい。盆で精霊達は暗躍し、人間はお休みさせてもらおう。
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暴力報道

2006-08-14 | 時事

 昨日の新聞だが、甲子園球児は監督のものではないという批判ものを目にする。代打で変えられた選手は泣きじゃくっていたという記述がある。結論として采配のあり方への批判である。これは全国紙のスポーツ欄の囲み記事になっていて、どこのチームの出来事かもはっきり明記されている。報道にはペンの正義という考えの人もいるようだが、これは明確なペンの暴力だろうと思う。
 高校野球のあり方は、勝つためだけではないという主張もことばとしてはあるようだ。しかし、本当にそうなのだろうか。勝ち負けは結果に過ぎないが、負けていいという考えで甲子園まで勝ち抜いてきたチームが存在するのだろうか。勿論それでも勝ちさえすればいいとは言いたくは無い。負けたときにはそういう言語も存在しそうである。少なくともそういうあり方を批判するのは、こういう場面が象徴的なのではない。采配という権限は、そういう尺度で測るものではない。この記者は何を勘違いしてしまったのだろうか。
 代打をおくったにもかかわらず、代打は打てなかった。しかし、もしもをあえて言うならば、代打が打てば、この記事は存在しなかったはずである。そういう場面で、やはり結果を重視して書かれた記事に、勝ち負け云々を語る資格は無い。自分のブログにでも、愚痴を書けばいい。自分の鬱憤を全国紙で個人の暴力に使うべきではない。まったくアンフェアな汚い行為だと思う。ジャーナリズムは、神様ではない。自分の卑劣さを制御できないほど、団体として機能していない証拠が、スポーツ報道に現れる。一方的で単純で非公平的な主観記事が暴力として堂々と載ってしまう感覚が、まず報道の最大の弱さだと思う。
 これでは本当に強力な権力には立ち向かう力がないことが、図らずも露呈している。ペンの力は嘘だと思う。ことに日本の社会においては、相手が地べたまで落ちたあとを踏みつける役割しかジャーナリズムには存在価値がない。実際最近の報道は、その使命に徹している。結果的に浅田農産事件のように、殺人まで犯してしまう。自覚がないからファシズムに走るのである。こんなバカ記事を平気で載せる感性である限り、毎日新聞は(購読していて悲しいが)ただのクズ機関である。
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異文化との遭遇

2006-08-13 | 雑記
 出張で大阪に行っていた。
空港から降り立ってその暑さに一瞬でヘタってしまう。上着を持ってきていたが、すぐにバッグの中に丸めて入れる。ハンカチを片手に電車を乗りついで会場へ向かう。ポケットに乗車券を入れていたためか、汗でしんなりしてしまった切符は改札を通さない。駅員をいちいち呼んで行列をいちいち作る。駅員は不思議ですね、というが、僕は当たり前だと思う。それでも切符をなくすわけにはいかない(決まった場所に切符をなおす習慣ができている。守らなければ、切符を紛失する習慣ができているのである)ので、ポケットに入れるしか方法がないのだ。
 会議の場所にどろどろになって到着。来ていた役員は全員クールビズだったので、ますます脱力。事務局の人が資料を配ってくれるが、汗だくなので水滴の玉がたくさんついている。死闘という感じで話し合いをする。副会長がパソコン資料で説明するので、映写機を使う。その機械の熱気でさえも、いらだたしい気分である。
 役員がどうしても用のある人がいるらしく、予定より早く話し合いを切り上げる。会員の会費から僕の交通費が出るのだが、遠くから参加しているので申し訳ない気がして飛行機代だけでいいです、と遠慮する。しかし、よく考えてみると、これでは僕の事業所の負担が重くなったわけで、さらに申し訳ないのではないか。会議の席で本筋とずれる発言しかしなかった所為か、少し卑屈な気分である。役職であるにせよ、遠くだから遠慮して僕を呼ばない配慮をお願いしたい。
 また電車を乗り継いで姉のところに遊びに行く。以前来たことがあるはずだが、知らない町を探索している気分。姉の職場で落ち合い、アパートを説明してもらってまた歩く。以前何があったか忘れたが、巨大なショッピングモールが建設中で、横目に歩いていく。引ったくりの多い町ということで、荷物を通路側で持たないようにする。僕はアジアで鍛われているので、玄人は狙わないだろうと思うが、あんまり注意するように言われると少し緊張感がある。途中でなんとなく記憶が戻り、すんなり姉夫婦のアパートを発見。鍵を開けて中に入ると、義理兄が腹巻姿で登場して驚いた。ビールはどれを飲めとか、風呂の操作の仕方など細かくご教授してもらい、挨拶もそこそこにして出て行った。早速風呂を借りる。一日のべっとりどろどろ感を払拭し、風呂上りの極楽ビールもぐびぐびプハーし、冷蔵庫に冷やしてあった海老とイカのサラダ(にんにく風味)をばくばく頂く。程なく睡魔に襲われるが、だらだらテレビを見たりして完全には意識は失わなかった。
 テレビでは爆笑問題の太田首相がアジア共通の教科書を作るなどといって議論されていて、議論の感情的ヒステリーぶりに絶望感を味わう。太田は戦争世代より今のほうが優れていると感じているとはいうが、もし自分がその場にいたら戦争にいったかもしれない、というところまで共通感があるらしい。稚拙な思考に残念さを感じるとともに、センスとしてもう少しで届きそうな惜しいという気がする。もう一人ロック風のタレントが、台湾の人から「お前も戦争に行ってみろ」といわれて逆ギレしている。まあ、これが現代人の共感力かな、と思う。どうしても理解しようとしないからキレられたのである。逆ギレするのは、想像力が足りないだけだ。誰かが言っていたように、日本がアジアに謝罪しなければならない根拠の最大のものは、戦争に負けたという理由のみである。他の議論は枝論に過ぎず、戦争責任の根拠であろうと、誰かが悪いからという判断は、今検証しても既に遅いのである。こういう議論を成り立たせるためには公平を期して、戦勝国の戦争責任にも言及すべきなのだが、事実戦勝国でその必要を説く国などないのである。それはなぜかといえないところが、敗戦国の立場なのであって、前提を無視して議論するのでモヤモヤ感が抜けず、ヒステリックになってしまうのではないか。たとえ民主主義の国同士であろうと、こういう差別は存在するのである。今こうした議論が盛り上がっているのは、ほとんどの人が検証不可能なほど無知化し、勝手に同価値の立場で物事を論じられるという幻想を抱いているためではないかと僕は考えている。もちろん、それでも議論は必要で、できればもう少し落ち着いて行ってほしいものだ。
 そんなことを考えさせられた所為で結局仮眠を取れず、姉夫婦が帰ってくると、焼肉カラオケで朝五時まで痛飲する。詳細はプライバシー問題もあるので省略せざるを得ない。体力的にガツンとくるような疲労感で、泥のように眠れた。
 翌日は昼ごろようやく起きだして大阪観光。難波のまちもなんとなく変わっている。ぐるっと回ってそごうに寄って、お土産を買ってもらう。これは僕の偏見なのだが、大阪のセルブっぽい人は、なんとなくケバイというか、強引な感じがする。しかしながら夏なのでそんな感じも少しだけゆるやいで、大人なしくなってよかったと思う。それでもまちにはいたるところにソース味の店が多くて、僕の嗅覚にはつらい感じもする。たこ焼きってそんなに旨いものだろうか。
 それと大阪ではエスカレーターで右側に立つのは何故だろう。電車に乗るときからおおっと驚くが、誰も驚いた様子がないのでリアクションに困ってしまう。都市部では国際的に片側に立つのをマナーと考えている現代人が多いようだが、エスカレーターの安全上の性質として、人を追い抜くなんて言語道断な危険行為であるばかりでなく、力学的磨耗問題などを勘案して、中央に立つべきが本来のマナーたるべきだと思う。思うが、誰も耳を貸さないことだろう。
 そんなこんなで、やっと帰ってくる。今度は姉夫婦といつ再会することになるやら。だいぶ散財させたようで申し訳ないが、夜通し飲むなんて歓待でお返しするような体力を持ち合わせたまま次回が来るものなのだろうか。先のことは先で考えることにしよう。
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西瓜貯金

2006-08-10 | 

 職場に西瓜がいくつか転がっている。誰かの知り合いが持ってきたらしい。ひとつ分けてもらって厨房の大型冷蔵庫を借りて冷やす。帰宅時間が楽しみである。
 自分自身が嬉しいという体験は、もちろんそれは嬉しいことには違いないが、瞬発的なものではないか。年をとると自然とそういうことは減ってくる。慣れというか、元気がなくなるのかもしれない。子を持って思うのだが、子供が喜んでいる姿を見て自分が喜ぶことが多くなった。僕の代わりに喜んでくれているのかもしれない。犬なんかはよく尻尾を振ってやたら喜んでいる。時々煩わしいけれど、なんとなく嬉しい気もする。たぶん、そういう意味でペットを飼うのではないか。
 そういうわけで、自分自身が西瓜を食いたいわけではない。冷やした西瓜に喜ぶ姿を見たい。いや、別にたいして喜ばないかもしれないが、少しぐらいは喜んでくれないだろうか。僕が子供のころには父がトラック一杯に西瓜を買ってきたことがあった。近所に配るが配りきれない。ほとんど腐らせてもったいなかったと母が嘆いていたものだ。
 援助交際ではないが、側室などに貢いでいる人も、いろんなものを買ってやって喜ぶ顔を見たいのだろうと思う。もちろんそのあとの下心の代償のためだということもあろうけれど、純粋に喜んでもらうと嬉しくなって、もっと買ってやりたくなるのではないか。後ろめたさを払拭するほど、無理をしてしまうのではないか。
 さて、子供の場合は教育的配慮もあって、何でも買ってやるわけにはいかない。ユダヤの格言にも、
「子供を良くする確たる方法はないが、駄目にする方法ならある。何でも欲しがるものを買ってやればよい」
 といわれているそうだ。だから、経済的な余裕いかんの問題はあるにせよ、いろいろ買ってやりたい誘惑を抑える必要がある。どんなものなら買ってもよいか、いつも悩んでいるようなものだ。第一彼らには欲しいものは貪欲に持っている。確かに欲望には際限のないことがよくわかる。人間は欲深い生き物なのだ。
 いろいろ用事を済ませて帰宅して西瓜を見せる。すると、つれあいが今日買物でも西瓜を買ったというではないか。抜け駆けするなんてズルイと思う。しかしながら長男が、一応近寄ってきて、おおっと驚いてくれる。こちらがお礼を言いたい気分だ。ちょっと良かった。まあ、次の機会に食べたらいいさ。西瓜貯金である。
 西瓜作戦はなんとなく失敗したが、人間は社会的な生き物なんだろうな、と思う。ひとりで楽しいも否定はしないが、ひとりよりももう少し多いほうが楽しい気がする。寂しがり屋の習性があるものらしいのである。
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「みのもんた」にはなりたくない

2006-08-09 | ことば

 話をしていて特に意識しているのは、当たり前だが理解してもらえるように噛み砕くことである。しかしながらだからといって単純化しすぎても問題がある。その場の空気というか、状況や対象者でかなり芸風を変えることになる。
 昨夜(というか今朝)の監事講評で「魚を食べると頭がよくなる」という文法を使ってレトリックの考え方を話した。その場にいない人にはわかりにくい話かもしれないが、理事会において、あまりにも説明がわかりにくいと感じたために、あえてこの題材を選んだ。
 趣旨としては、魚を食べてもらう目的の為に成功している文法であるという意味で使った。説明はそのようなわかりやすさを心がけてくれないものか。それと少しのユーモアのセンス(そのことは話さなかったけれど、この文法には含まれていると思う)。このわかりやすさが人を説得する技法だという意味である。
 さて、ここからが弁明である。その場の題材としてあえて僕は自分の嫌いな文法を選んだ。このわかりやすさが、たぶん現代思想の中で理解されやすい題材だと思ったからである。しかし、正直に言って、僕はこの文法を普段の生活では嫌悪している。人を動かすには効果的であるにせよ、不誠実な誤解を含む文法だと思うからである。
 魚に含まれる必須脂肪酸(DHA)というものが体にいいということは、必ずしも嘘とはいえないことではあろう。それだけをとって考えると、脳の働きにもよいということなのだろう。すなわち、そういう脳によいものを含んでいる魚を食べることで頭がよくなるという言い方をすることは、必ずしも嘘ということではないのだろう。魚を普段の生活でもっと食べてもらう為の説得として、単においしいと連呼するより、確かに気のきいた視点といえるかもしれない。だから、緩やかな冗談のような理解なら、何も目くじらを立てるほどのことではないと思う。それで話は終わりである。
 しかしながら、世の中には本当にまじめというか、それだけを妄信してしまう人も多いのではないだろうか。最近の占いだとか、マルチ商法だとかも、そういうレトリックを巧みに利用して成立している。僕はこれが嫌いなのである。それだけで理解してしまうと、多くのものを無視して成り立っていることを忘れてしまいがちである。頭の良し悪し(脳に良い)という複雑な問題を、単純な物質の化学作用ですり替えて論じているだけだということを忘れてはならない。よく考えると誰でもわかることだと思うが、人間はそんなに単純な生物なのではない。勿論人間に限らず、世界はそんな単純な成り立ちをしているわけではない。この話は、あくまで魚を楽しく食べようということに尽きるわけで、本当に頭をよくしようとして実行しては悲劇になってしまう。
 目的遂行の為に、僕らがこのレトリックを利用することは作為である。ヤクザの筋を通すというようなことに似ている。彼らはその筋で人を殺せるほど単純だが、それだけレトリックというものは力を持っているということだ。わかりやすさというものは、そういう危険も内包しているという意識も必要ではないか。
 やっと僕の真意である。この辺の説明は時間の都合上すっ飛ばした。単純化はそういう意味で恐ろしいということを自覚した方がいいと考えている。誰もが「みのもんた」にはなれないだろうが、この考え方だけで生きていくのは、本当の豊かさは身につかないのではないかと個人的には思っている。複雑な世の中にあって、自分自身で何を考えて生きていくか。それは、こういうレトリックに左右されないということではないか。
 昨夜の話と矛盾するので弁明しているのだが、人を説得することと自分が納得することは、僕の中でもそういう葛藤を含んでいる難しい問題である。ただ、難しいままでは駄目だと昨夜は言い、難しさを受け入れる姿勢の必要性を今言っているのである。
 こういうのは性分なんだろうが、自分でも煩わしいと思う。しかし、人間は一貫性がなければならないとは思っていない。僕は生きるためなら踏み絵を踏むだろう。実際はそれぐらいずるい人間でもある。けれど、そうではあっても、できるだけ正直でありたい。その程度のことを言いたいだけなのである。
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社会復帰と腹の調子

2006-08-08 | 雑記
 久しぶりに朝からミーティングに参加する。なんだか疲れた顔してますね、といわれて意外に感じる。もう完全復帰したつもりだったけど、そんな感じなんだろうか。
 電話電話電話。けっこう留守電多し。ちっとも片付かない。
 なんだか腹の調子が悪く、内容が伴わないながらトイレ数回。風邪の影響だろうか。鼻水はなんとなく止まったけれど、仕事と共になんとなく今ひとつだ。
 昼に天丼をかき込んで、職員と共に長崎の事務研修会へ。車中猛烈な睡魔。なんか話していたようだけれど、内容が頭に入らない。高速道路なのに時々六十キロになったりする。よく見ると運転している職員もウトウト。夏の移動は危険である。
 研修会も聞き飽きたことも多いながら、淡々と事務的な進展も少し見られる。いつの間にか既成事実化されたこととか、やたら詳しく聞かされるが自分とは関係ない話などもある。終わりの会場からの質問もつまらない。どっと脱力。
 選挙にまつわるサプライズ情報も聞いた。あんがいまじめな話らしく、結構驚いた。最近一緒に仕事したりしてたのに、そんなそぶりにまったく気づかなかった。
 若手職員の会(というものかは不明)で宴会打ち合わせもする。なんとなくこの世界の政治も感じるが、特に付き合わないわけではない。ただ、密着はしないようにしよう。
 終わっても電話電話。ふと気づくと会場には誰もいない。駐車場で待っている職員からも恐る恐る電話がある。早く帰らなきゃね、ごめんなさい。
 職場に帰ると駐車場が少し整備されている。今年の長雨で駐車場の砂利が流されてでこぼこになっていたのだ。スムーズに駐車場から車を出して、スムーズに帰宅。
 麻婆豆腐とカレーライスと太刀魚塩焼きをバクバクつまむ。うう、うまい。息子が残したご飯に麻婆豆腐をかけて〆る。家での晩飯は抜く予定だったが、ちと狂った。体重計で二キロ増を確認。うおっ、と小さく唸ってしまう。
 迎えに来てもらって鹿島踊りへ。なにやらどこを通っているかわからない。わからないうちに清川に到着。座敷に料理の用意がしてあるが、僕らは後発隊なので、はっぴを羽織って先発隊を探す。
 見つけたら休憩時間。猛烈におなかが痛くなり、トイレを探す。見つけたが順番待ち。物凄く不安になりながら待つ。かなりやばくなって、足踏みする。時々こういう子供を見かけるが、仕方なくやっていたのだろう。足踏みをしつこくしていたら、やっとでてきた。押しのけるように何とか座れて、ホッと一息。これも一種の幸せかもしれない。
 やっと本格的に踊りに参加。鹿島踊りは観客より圧倒的に踊る人のほうが多い。そうして、踊っている人たちが、本当に楽しんでいる感じがする。後ろの連のパーマ屋さん集団は、はじけて前の僕らのところまで侵食してくる。最初は圧力を感じたが、一緒になって飛び跳ねる。さー踊れ、さー踊れ。イエーイである。
 帰ってサンスパ。上がって食堂はオーダーストップ。外の居酒屋は暖簾。結局又移動してジーニアス。ビールぐびぐび、焼酎もクーッとのむ。食わないつもりがピザにパンにスパゲティ。もう二時だよ、お疲れさん。翌日も長い一日の予定。これが、日常ペースの復活なのだろうか。
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だらだらした開放感

2006-08-07 | 時事

 子供のころは高校野球オタクだったが、いつの間にか見なくなっていたはずだった。しかしながら休みだったので、ボーっとしてテレビを見ていると、昼のあいだずっと野球が放映されている。こういうスポーツ差別は日本の習慣なのでもう諦めたが、それにしても野球の国なんだろうなあと思う。瀬戸内に行くとわかるが、あのあたりは特に熱心な人が多い。まあ、あのあたり以外でも熱心な人がいるから、高校野球も盛んなのだろう。
 ワールドカップは国の代理戦争だが、高校野球は地域代理戦争なのだろう。確かに地元が強いと燃えるものがある。民放ではだから地方高校との報道の温度差が露骨で、かなり白ける。まあ、NHKもそんなに中立ではないけれど…。
 しかし、大分の鶴崎工業は緊張感で可哀相だった。自滅も高校野球の特徴で、年をとるとこの感じがつらくなるようだ。
 高校生なので当たり前だが、それなりに下手である。判定も明らかなエラーがヒットになったり、戦略的な守備が相手の失策だと報じられたりして、なんとなく納得がいかない。たぶん審判も、アマチュアレベルなのだろう。最近はとにかくメジャーリーグをだいぶ見ることができるようになったので、スローモーションの動きを見ている感じだ。当たり前だが、投球のスピードはぜんぜん違う世界で、日本のプロもそうだけれど、同じ野球といっても世界は別のものだと改めて認識させられる。しかしながら高校野球も、だらだらと試合が展開され、時間つぶしにはちょうどいいのかもしれない。
 そういう中だが、横浜と大阪桐蔭の選手の動きは少し違うのがわかる。打球の勢いも違うようだ。特に桐蔭の4番のバットの振りは、明らかに他の選手とスピードが違う。
 試合の結果は大嫌いな横浜が負けたので大満足だったが、高校野球というのは、まったく違うレベルの人たちが一同に集まっているのだと再確認できた。しかし、そうでないと、トーナメント戦なのに連覇ができたりできるわけがない。
 なんとなく脱力した夏に、高校野球の季節が来たらお盆なのだろうなあと切なくなる。終わると更に寂しくなるので、雨で延期になるといいんだが、などと思う。せっかく夏越が終わった開放感をもうしばらく享受したいものである。
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浦島状態ショック

2006-08-05 | 時事
 あまりにも長いあいだ世間から隔離されていると、浦島太郎状態になる。たとえそれが4日あまりのことであっても、なんだか世の中変わってしまったようだなあ、と感じる。
 その象徴が亀田某のボクシングの試合だったなんて、少し悲しい。いや、話題にはなっていて結果だけは知ってはいたんだけれど、こういう反響は知らなかった。それで、久しぶりにネットを見ていると、この話題が一番多いような気がする。見ていないものを評論するわけにはいかないので、特にそう感じるものらしい。つまり蚊帳の外。
 しかしながら、もともとあんまりボクシングの試合は見ない。亀田兄弟は雑誌で見たことがあるけれど、動いて話している姿は知らない。随分印象の悪い人なんだろうということは知っていたくらいだから、結果的にそういう反発もあるのではないだろうか。
 ボクシングの判定というものは、もともと改善の余地を残していると感じる。厳格なポイント制などといってオリンピックの試合などにも導入されている方法もあるけれど、あれだってかなり微妙な感じだ。格闘技でどちらが強いという判定は、そもそも難しいのかもしれない。相撲だって勝負に勝っているが判定(というか軍配というか)で負ける場合がある。はっきりダウンするまでということにすると、生命の危険もあるんじゃないか。
 まあしかし、この判定にいろんな人がショックを受けたことは事実らしい。公平性は透明性しか方法がないと思う。ボクシング界は誠実に透明性を確立していかなくちゃ、やばいんじゃないだろうか。蚊帳の外から、そう感じた。
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ことばで理解できないもの

2006-08-05 | 雑記
 夏越も終わった。今はかなり脱力を感じる。正直言って何もしたくない。眠れるものなら、ずっと寝ていたい心境だ。
 三日目の片づけが終わって勘作さんで打ち上げしている時にみんなの顔を見ていると、なんとなくジーンとこみ上げるものがあった。年をとると涙もろくなっていけない。別に泣けばいいってもんじゃないが、こんな経験は無理やりだから感慨深いのかもしれない、などと思ったりする。望んでやって、こんな気持ちになるものだろうか。いいことか悪いことか、そういう理屈では味わえない感慨がある。よくわかんないが、こみ上げるものを抑えられない。ことばにすると陳腐になるようだ。
 みなさんは、それぞれの夏越、如何だったでしょう。
 僕も来年もう一回だけなんだなあ、とつぶやいていると、つれあいから、そうなると寂しくなるんじゃないかと言われた。そうなのだろうか。長くやっていると嫌な思い出もたくさんある夏越なのだけれど、それでも寂しいとはどんな感じだろう。ま、止めよう。そのとき僕がどう感じるのかを予想したところで、たいして意味があるようにも思えない。そのとき感じたまま、考えてみるといいだけだ。
 設営物の撤去も終わって、打ち上げ前に家に帰って爆睡して、目が覚めても体が動かない。僕も年だね。シャワーを浴びて、やっと何とか体が動かせるという感じ。ここまで僕を支えていたものはなんなのだろうと思う。炎天下で作業して、睡眠もそこそこに朝から晩まで、仕事を放り出してまで何をやってるんだろうと思う。思うけれどわからない。
 S中君が、夏越が終わると、それこそ物凄く猛烈に仕事をしなくてはならないといっていた。職場には夏越など関係ない。そういう中、有給をとって夏越に打ち込み、戻って冷たい視線の中で、又自分を奮い起こして仕事をする。つくづくまったく不条理だ。しかしながら、そうまでしてやるから、自分にとって意味が出てくるのではないか。漠然とだが、そう思う。祭りは仕事ではない。不条理だから意味がある。いや、そういうものを自分が体現して掴むよりやりようがない。不合理で不条理で非効率で無慈悲だ。しかし、だからこそ、何かをしっかりと得るのかもしれない。整合性がないのだが、そうとしかいいようがない。問題はやったかやらなかったか、ということだけなのだ。不完全だったかもしれないが、とにかくやった。やりすぎることをやった。時間が来たから終わった。それが全体験で、生々しい人間の躍動なのだ。
 ということで、ひと区切りつけて社会復帰しなくてはならない。無理に職場に出ると、無慈悲な書類が机に積んである。パソコンに付箋でいろんなメモが貼り付けてある。どこそこから電話があったとか、これそれの仕事はどうなってるとか、いろんなことが書いてある。書いてあるけど来週どのようなことになるのか予想がつかない。さて、ちゃんと復帰できるのだろうか。
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魔が差して勘違い

2006-08-03 | 雑記
 久しぶりになんか書こうかと思ったが、夏越のことしかない。だって、仕事サボってずっと祭り場にいるんだもんね。しかしながら、僕のように話の長い人間に、夏越の全体像をお伝えすることは、まどろっこしいので断念する。本当にいろんなことがあるんですよ。めまぐるしく展開しているようで、その一瞬一瞬が濃いのだろう。
 長い間、いろいろあったにせよ、それこそ坦々と準備を重ねてきて、やっと当日を迎えると、さすがに感慨深いものがある。愚痴だってこぼしてきたが、大勢の人が押し寄せてきた祭り当日を目の当たりにすると、なんか気持ちがグワーッとたぎるような気分になる。同じアホなら踊らにゃ損、損。って、いい言葉じゃないか。けんかも含めて、楽しまなきゃ損なのだ。だから結果的に続いたりするんだろうな。できれば、もう少し馬鹿を増やしたいけどね。
 祭儀でみんなが神妙にしている中、裏方でO塚さんとこっそり握手する。実は俺たち仲がいいんじゃないだろうか。おっと、うっかり勘違いしそうだぜ。まだまだ続くので、残りも頑張っていこう。
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