桶川ストーカー殺人事件・遺言/清水潔著(新潮文庫)
前評判の良いのは知っていたが、読み出すと止まらなくなって困ってしまった。移動中はいいのだが、出張中で他に人もいる。どこかに抜け出して続きを読みたい衝動をやっと抑えて読み進んだという感じだった。
実はこの事件に関しては、そうだったのか、という程度しか知らなかった。そういえばそういう事件はあったようだという記憶が無いではなかったが、僕はワイドショーは見ないし、社会面もほとんど読まない。しかしながらこれほど大それた事件をこのような週刊誌の一記者が解決したのだという事実は、本当に重いという気がする。もしくはこの記者にこそ選ばれた事件だったような錯覚さえ起こす。もしも著者が関わらなかったら、事件が今のように解決の糸口を見つけられたかはかなり疑わしい。また、日本で同じような凄惨な事件が繰り返された後に、やっと重い腰が上がるようなことになってしまったのではなかったか。そういうことを考えると、実に暗澹たる気分にならざるを得ないのである。
ストーカー殺人を起こしたこの犯人とその周辺の人たちというのも大変に憎悪をおぼえるのだが、それにもまして、埼玉県上尾署という警察組織に対して、激しい怒りを覚えずにいられない。他の警察署の事は知らないから簡単には言えることではなかろうが、おそらく他の警察署であっても、似たようなところというのは存在していそうな気さえする。まったくひどい組織であることはもちろんだが、実に日本的に役場の仕事を全うしている姿がそこにあるからだ。警察が役場であって個人の姿が尊重されえない場所であるならば、当然のようにこのような事件に対してずさんな捜査をしていることは、ほぼ間違いなかろう。日本人であることがこれほど悲しく嫌悪の伴うものだということを、そういう組織のあり方から学ぶことになる。そうしてそれとつるんで個人を辱めることで商売をしているマスコミの体質を喜ぶ大衆がいる。これは実にアジア的に日本の社会の縮図なのだと思う。だからこそ背筋が凍るほど恐ろしく、激しい嫌悪と怒りを覚えるのであろう。
結果的には一時的な解決まで導かれていく道筋が描かれているのだが、これはだからまだまだ道半ばのことなのではあるまいか。もちろん、今となっては、ストーカー事件は遥かに取り締まりやすくなっているようになっているはずだという期待はある。しかし近年でも長崎のストーカー殺人など記憶に新しい事件も起きている。桶川のような犯人像というのはさすがに稀ではないかという思いもあるが、そのような異常性格ともいえる人間があちこちに居るかもしれないことは、誰も否定できない。思いの強い恋愛をする人間がすべてストーカーであるとはいえないのだが、事件に準じる行為が巷間にあふれていることは想像に難くない。そうであるならばさらに捜査に対する姿勢というものは難しいものになり、より巧妙な連中ほど、さらに精鋭化して事件を繰り返すことになるのではないか。そうして事件になってしまえば、警察としては責任問題として隠蔽体質を発揮してしまうことを繰り返すのではないか。事件が繰り返し起こることを期待するわけではないが、このような事件を地道に解決に導くような報道が繰り返されない限り、本当に組織改革がなされるとは期待できない。そのためにもこの本はあらゆる人々に広く読まれ、そうして記者以外の人にも社会的な認識を強く持ってもらう必要があるような気がする。記者のバイブルというだけの位置でなく、広く日本の読者を獲得すべき、貴重なドキュメンタリーなのである。