刑事コロンボ・愛情の計算/アルフ・ケリン監督
刑事事件の捜査であるとか、裁判における証言などは、身内のものは有力視されないという話は聞いたことはある。本当に有力なものだってあるのが当然だと思うけれど、やはり信憑性において、疑いをもたれるということはあるのだろう。身内はたとえ身内の犯罪を知っていたとしても、嘘をついてでもかばうものだ、ということなのだろう。それはいかにも本当らしい気もするし、しかしやはりどうなのかな、とは思うわけだ。
身近な人間をかばうというのは、それは確かにあるだろう。それも程度問題とは思うが、僕が自分の身内の殺人事件を知ってしまったら、いったいどうするだろう。はっきりしているのは、さすがに警察より前に本人に確認するだろうとは思うわけだが、その後の行動は、やはりどうにもはっきりしない。ケースによっては、隠蔽を頼まれても断ることを選ぶ場合もあるかもしれない。僕が冷たい人間だという告白のつもりではなくて、誰だってそのことの重要性と、さらに逃げおおせるとしてもそれでよいか問題に悩むだろうからである。人が死んでしまうという事実というのは、絶対に変わらないものだ。そういうことの前に、本当に人間が耐えられるのかということに自信がもてそうに無いのである。
研究をしている人間にとっては、最初に成果を出すということが重要で、さらにそのことを世に知らしめすための論文が重要になる。それはその世界でない人間でも薄々分かっているが、その成果を横取りして名誉を得るということだって、理屈上は可能のようだ。ジャーナリストのスクープのような性格のようだが、競争というのは多かれ少なかれ早いか遅いかが重要なことに変わりは無い。なんだか最近もそんな話を聞いたことがあるような気がする。このお話は昔のものだからタイムリーではない。しかし、今の時代にも繰り返しそのような事件は起こってしまう。つまり、このようなやり取りは実に人間くさい習慣のようなのだ。基本的な欲求といってもいいかもしれない。そうしてさらにその欲求の延長に殺人事件が起こったわけだ。
子供のために犯した罪は、人のためになることなのだろうか。答えは極めて利己的な問題のようだ。倫理というのは人間の都合だが、しかしそれは欲求に反することなのだろうか。身内をかばったり名誉を得たり殺人を犯したり、結局は究極に自分のためのエゴである。自分がそうしたいと望む欲望というものから、なかなか個人は逃れられない運命にあるらしい。