カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

事実でもこだわれば害になる

2014-04-13 | 掲示板

 僕は自覚してないが、議論好きな訳ではない。しかし人様からはそういう指摘は時々受けることがある。要は自分の意見を曲げないところがあるためで、さらにこのブログを読んでいる人も気付いているだろうけれど、屁理屈をこねるところがある。そうしてやはり男の血が騒ぐらしく、何とか言い負かすというか、つまり、勝ちたくなるというのがあるようだ。僕は精神的にはレトリックが大嫌いで、細部や事実というものを信奉しているわけだが、これが伝わらないと思うときに、ついつい頑張ってしまうというのがある。そんなものは実際には、本当に大切なことだとは理屈の上では思っていないくせに、でも頑張ってしまう。それで日々反省の酒を飲んでいるという訳だ。
 以前村上春樹のエッセイを読んでいて、事実というのは便宜的に理解していても、生活上何の問題も無いのだから、正確である必要なんて必ずしも無いのではないか、というようなことが書いてあった。具体的にはガリレオさんたちには申し訳ないのだが、地球が太陽の周りを回っているのは事実だけれど、しかし太陽が地球の周りを回っていると信じて生きていても、特に生活に支障をきたすことも無い。決定的に間違っている人なのに、大局的生き方の上では、具体的に誰の迷惑にもならないのではないかということらしい。世界というのは古代の人々が信じていたように、巨大な象が地面を支えているのだと思っていたとしても、その当時も問題は無かったのだし、今もそれは変わらず問題がない。もちろん科学者や天文学者のような人々がそれではかなり困るわけだが、市井の人間がそのような影響力があるわけではないので、実害は生まれ得ないわけだ。
 考えてみるとその事実は、非常に悲しいことを無視するならば、それでいい訳だ。他人からは馬鹿にされるだろうけど、それすらたいした問題じゃない。実際に居酒屋でがやがや議論されていることの多くは、あんがいほとんど間違ったことだらけのようなんだけど、それで社会が崩壊するということは無い。もちろん少しは害があるような気もしないではないが、そういうことにこだわりすぎて人間関係を壊してしまうほうが、実害としては大きいといえるかもしれない。
 しかしそうであっても、やはり間違いは嫌だなとは思うわけだ。実害が無いからといっても嫌だ。しかし僕も間違う。そのことは肝に銘じなくてはと思う。そうして、違った意見であっても、それはある意味で自分の正しさを時には補填してくれる。そうして正しいことであっても、いわゆる時代的に通じない場合も多々ある。機が熟すまでどうにもならないことも多いし、事実で世の中の政治が決定されるわけではない。結局はその正しさというものは、何のしあわせの担保にはなりえないということだ。議論に勝つことは重要ではなく、ぶつかりをそのまま楽しんでしまえばそれでいいということなんだろう。
 ということで、結局は自分を改めない理由が出来てしまった。どうしてこうなっちゃうんだろうね、まったく。
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