味に敏感かどうか、または微妙な味覚まで察知できるかは、人が持って生まれた才能のようなものかもしれない。味覚に敏感な人でなければ務まらない、味を判断する職業があるらしいが、そういう人はその後の経験も必要だろうけれど、もともとそういう特殊な舌を持っていることは間違いないらしい。味に敏感かどうかは舌についている味蕾という器官の数によって決まるという。個人差があって、もともと多い人少ない人がいるということだ。数が多いと微妙な違いも感知することができるという仕組みだ。
では味蕾の数が多ければ、食通になれるのだろうか?
これがなかなかそう単純ではないらしい。微妙な味の違いが分かる人は、好き嫌いが激しくなる傾向があるらしい。特に野菜の苦味などに反応し、その経験を怖がり偏食に進む人も多いという。偏った食事を好む傾向のある人は、実際には味に敏感すぎた弊害である可能性がある。何しろちょっとの辛さで普通の人の数倍の刺激を感じ取るのである。危なっかしくて何でも食べていられない、ということらしい。
実はだから食通のような人というのは、結局は食の経験がものを言う。当然だが、多彩な味に鈍感だからこそ、多様な味にチャレンジできるということかもしれない。微妙な違いが分からないからこそ、さまざまな味に対して寛容になれる。結果として好き嫌いが少なく、強弱に対しても(たとえば酷く辛いとか甘いとかの幅)対応可能だからこそ、さまざまな体験を可能に出来るのだろう。もって生まれた才能が無かったからこそ、幅広い能力(経験)を獲得することが出来たわけだ。
人より最初から劣っていることは、必ずしも不利なこととはいえない。食の世界では、皮肉なことにこれは事実なようだ。汎用性のあることなのかは多少のケースの違いにもよるだろうけれど、あんがい、才能と技能の関係は似たようなことがあるのではないか。器用な人は大工に向かないといわれる。何でも簡単に出来てしまう人は、工夫する面白さの前に飽きてしまうのだという。何度も失敗しようとも繰り返しやるような不器用さが、本当の職人を育てるのだという。才能を恨む前にそのような自分に感謝できるなら、人の可能性はさらに広がっていくのかもしれないのだ。