苦役列車/山下敦弘監督
原作は西村賢太。読んだことある人なら、ああ、とだいたいの内容は分かると思う。私小説なので基本的に実話だと思われるが、こうして映画で見ると、実に映画的なので、改めて面白いものだな、と思う。
しかしながらこんな生活では、普通だとやはり駄目だろうと思うわけだ。そういう駄目なことを物語にすると、自分も面白いし他人も面白がるということは言えているが、やはりそれでも、駄目だから駄目だよな、と思うわけだ。自分の中にもそういうものは無いではないけど、やはりそんな生き方だけはしたくないと思いながら生活しているようにも思う。主人公にしてもそれは分かっていながら、一番嫌な自分を出さざるを得ない状況に陥ってしまうということなのかもしれない。
学歴社会というのも嘘じゃないし、中卒で日雇い労働者として暮らしていかざるを得ない状況も、必ずしも自分だけの所為ではなかったのも確かなことだろう。しかし、それでもそれを受け入れながら、本当には鬱積するものがたまる一方であるとか、普通に性的に女性を欲する毎日であるというのも、理解はできるし、そのとおりだろうと思うわけだ。そうでありながら共感ができないのは、そういう嫌な部分を内包している自分に肯定するわけにはいかないという思いがある所為ではないだろうか。実際に見ていて、そういう人であることは仕方が無いことかもしれないにせよ、やっぱり物語としてはどこかで区切りをつけて変わってほしいということを願う所為ではないだろうか。何とか立ち直って欲しいとか、実際いい具合になりかけているのに、何をやっているんだというような、小さな怒りを覚えるというのもある。それが映画としてのリアリティだし、作品としての素晴らしさであることは重々承知していながら、本当にやりきれない気分のようなものが残るように感じる。それが繰り返しになるが、駄目なものは駄目だというリアリティということになるんだろうか。仕方がないで、なんだか片付けられないような、非常に残念な気分になってしまうのかもしれない。
そういう気分になるにせよ、やはりそういう生き方をしている人たちというのは、大勢いるのかもしれない。なんだくだらねえじゃないか、と仲間である本人が仲間を罵倒してさげずんでいるうちは、破滅的であるにせよ、それでよかったのかもしれない。しかし本当に這いつくばってでも抜け出そうとしている仲間が実際にいて、そうして置いていかれて、さらに自堕落になってしまうとか、惨めになってしまうというのが、人間の本性といわれると、さらに悲しいだけの気分になってしまう。それが狙いだと、何度も自分に言い聞かせながら、精神状態を保たなくてはとても体が持たない感じだ。
実際の原作者は賞を取り、テレビに出るようになり、生活は変わった可能性がある。そのための肥やしの人生だったのかどうかは、直接はこの作品とは関係が無いのだが、気になるところではある。やはり願望としての未来的な救いを求めてしまう所為なのであろうか。