カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

迂闊に振り向いてはならない

2013-12-13 | 感涙記
 福岡で北島三郎の公演を見た時に思ったのだが、以前見たものと違った演目の演劇をやっていたにもかかわらず、驚くほど同じものを見たようなデジャブ感があった。基本的には水戸黄門みたいな勧善懲悪というだけで無くて、観終わって残る感慨というか余韻というか。劇中で近くの人が啜り泣いて感動している様子なども含めて何となく同じなのだ。これは子供の頃にも既に経験していたような既視感があって、そうだ「シェーン」だったな。と思った訳だ。つまり子役の「シェーン、カンバック」があるから、西部劇なのに日本人の心的な名画であるものと一緒なのだ。
 実際劇中に子役はしつこく慕ってくるのだ。最初は本当の父だと聞かされてないから「おじちゃん」と呼んでいる。文章では上手く言えないが、この「おじちゃん」のアクセントが独特で、語尾が必要以上にあがって、非常に甘ったるい。そうして最後は「おとうちゃん」となるのだが、基本的に同じだ。あれ程秘密をばらしてはいけないと言っていたのにあっさり母親は打ち明けているのだが、しかしそのことは簡単にうやむやになり、恍惚の「おとうちゃん」連呼があり、子役は北島から離れようとしない。
 しかしこの子役の単純な演技が、確かに涙を誘うのである。悲しいのである。そうして本当に素晴らしい演技に見えるのである。平日の公演なので学校はどうしているのだろうという疑問が無いではないが、もし就学前の子供だとしてもそれはそれでたいしたものだが、もし学校を早引けしたりしてこの演劇に出ているのなら、さすがにたいしたものだと言わざるを得ない。もちろん遠くて顔など良く分からなかったし、後にパンフレットなどで名前を確認したりもしなかったが、深い印象を残して人々の涙を誘ったことは間違いが無い。
 子犬やひよ子などがクンクン、ピヨピヨ鳴いていると、母親(だろう)が甲斐甲斐しく世話をしているように見える訳だが、あれは本能だということであるのだが、そのような動物にもあるような信号のスイッチを入れるものとして、やはり人間にもその様な感情と母性やら父性やらに火をつける発声というものがあるのではなかろうか。あのような話にまったく感化されそうもない自分自身であっても、うかつに感情に火が付きそうになるのを抑えきれない。つまりこれはある一定以上の年齢になると芽生える本能に訴えかけるものなのではあるまいか。
 そんなことは分かりきっているが、しかし、子役から目を離せない人もいるだろう。演技というものは、そういう本能に訴えかける方が本来の演技力以上のものを発揮できるということなのかもしれない。やはり子役は恐るべき力を持っているのであろう。
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