相変わらず相撲の八百長問題では蜂の巣をつついたような騒ぎになっている。今頃になってこの問題が出てきたことも疑問だが、相撲は叩いていいという共通認識が出来上がったことが、このような社会的ないじめを容認できる空気になったということなのだろう。八百長問題は確かに褒められたものではないにせよ、いったい何が意外なのか、そのように騒いでいる人達の方がよっぽど意外である。
しかしながらこのような形で勢いづいている状況から見て、ある程度の粛清が行われることは間違いあるまい。それは仕方のないことにせよ、実際は逃げ切る人間が出てくるだけのことである。騒ぎが収まるまで素早くしっぽ切りをできるのかどうかということが、相撲協会の自浄能力が試されているというだけのことだろう。じつに不公平な日本社会の縮図である。メールで証拠を残すようなへまをやらかした者以外で、どこまで切れるかというのは結局は解決されないだろうが、処分された方はいったん外に出てしまうと開き直ってさらに内情を暴露するに違いない。そんなことはなにも驚くことでもなんでもなく、以前からあった慣習にすぎないだろうからだ。厳しく処罰を決めると延焼は広がり、厳しくなければ外野は騒ぎ立てるだろう(いじめを面白がっているだけなんだから)。
いっそのこと本場所は半年なり一年なり休止し、仕切り直す必要があるのかもしれない。財政的にもたないのならそれでおしまいだろうし、まだ余裕があるのならそこまで切りつめてからのスタートは決して悪いものにはならないだろう。相撲のシステム上、星の貸し借りや売買が完全に無くなることはないだろうが、今度は再発毎に発覚者を厳しく切ることができるようになるだろう。それは抑止力にもなるし大相撲にとっても悪いことではあるまい。国技かどうかどうでもいいが、興行を成り立たせるにはほとんどそれしかないのではあるまいか。
ただ、このような八百長問題は、村社会である日本の縮図ではある。相撲協会だけが内包している特殊性でもなんでもない。日本の社会のなれ合いが問題解決を先送りし続けているように、相撲協会が抜本的な解決に踏み切る可能性は極めて低いだろう。相撲のような特殊な興行が、国際化する必要も透明化する必要も何もないのは変わりはないが(だから日本人に人気があるとも言えるのかもしれない)、日本社会はそれではもたないところに来てしまっている。わが身とは関係なく騒げる能天気な人ほど、実はそのことに鈍感なように思えてならない。
ひょっとするとそのような恐怖に対するガス抜きのために、相撲がスケープゴードに選ばれたとでもいうのだろうか。もちろん時が来るとそれは一気に崩れさるだろう。相撲で騒いでいる方が、日本人らしい平和ボケということなのではあるまいか。