相変わらず散歩には行きたがるのだが、外はうだるような暑さ。外に出て、少し坂道を登ったいつもの草と土が露出しているところで、嗅ぎまわって忙しくしている。それくらいまでは、激しくリードを引っ張っているが、墓を通り越して、猫屋敷を抜けて、庭の荒れたお宅の前あたりに来ると、しばし立ち止まってハーハー言っている。口の周りはよだれで濡れそぼってしまい、いかにもつらそうである。まだ5分も歩いていない筈で、散歩という程度に達しているかも不明だが、彼女にとっては一つの限界点に来ているのである。
つれあいと一緒の散歩の折には、こうなってしまっては先にすすめないので、仕方なくしばらく抱っこして歩くらしい。僕も歩きたい気持ちはあるが、抱っこしても暑苦しいので、睦月が歩きたくなるまでしばし待っている。そうして3分くらいするとやっと歩き出し、すぐ先にある分岐点に差し掛かる。するともう自宅方面に向かって帰りたがる。ふつうはこれから外周りに下って行って、20分コースと35分コースとに分かれる道に行き、当然のように35分コースを選びたがるはずなのである。もちろんそれは、冬の日の事だったかもしれないのだが……。
睦月ちゃんは11月生まれだと聞いているが、その後ほとんどゲージ育ちだったはずである。詳しくは想像するよりないが、少なくとも生まれてからしばらくは、暑い日とは無縁だったのではなかろうか。ウチに来て暮らし始めて、ひと夏は経験しているわけなのだが、昨夏はやはり、朝晩に散歩時間はシフトしたようにも思う。当時はあまり散歩が得意では無くて、何処に行きたいのか意思が明確でない上に、そもそもあんまり散歩の意味を理解もしていなかった。外の世界はカラスなどの鳥もいるし、複雑な音が聞こえるし、風の当たり具合も気になるようだった。少しでも気になることがあると動けなくなって、家に帰りたがった。だんだんと散歩の面白さを理解して、今のように散歩を楽しめるまでにやっとなってきたのである。
しかしながら昨夏を思い起こしてみても、今年ほどにはひどくへばっていなかったのではなかったか。やっぱりちゃんと歩けないので抱っこしたりしたかもしれないが、そもそもあまり散歩慣れはしてなかった。本当に歩けるようになったのは、今年の冬あたりからやっとだったとも思われて、夏になってそれを暑さで守れなくなった、ということかもしれない。体が小さいので人間より道路の路面にも近い訳で、夕方になったからと言って、まだ熱さの残る道路の熱に、堪えられないのかもしれない。
しかしそれにしても、根性が無さすぎるのではないか。実はそういう疑問が付いて回るのである。あれほど外に出たがり散歩したがっていたのに、いざ外に出ると、息巻いて張り切っているけれど、すぐに息切れして動きたくなくなる。それって情けなさすぎないか。
しかし睦月ちゃんは、自分の情けなさを何とも思っていないのである。そういう不甲斐ない自分に、何の疑問も感じていないのである。だから人前でもうんちすることができるし、怒られても歯向かって吠えたりできる。嫌になれば噛みつくし、眠くなったら動かない。ひとにどう思われているかなんて、みじんも気にしていないのだ。
残念ながら僕らには、そんな生き方はできない。できるかもしれないが、それでいいとは言えない。要するに僕らは、犬にはなれないのである。それはやはり、残念なことなのだろうか。