カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

結局は転がり続けろ、だ

2007-04-18 | 雑記

 選挙がらみ来客など。タカトシ君が気になるが、僕の事業所は選挙区が違う。それぞれに関係者は切実なので、ないがしろにもできない。また、微妙に僕も無関係ではない。世話になっているといえば確かにそういう人がお願いに来るわけであり、会うまで何とかしたいという心情があるので、結局会うほうが早いのである。せめてお願いされた分はこちらもお願いするのみ。
 後半戦に向けてしらみつぶしという感じだろうか。電話できるところはしておく。できることは、やはりやるよりあるまい。いろいろなところの話で、票を読むということがどれぐらいむつかしいことなのか改めて思う。既成の概念で戦っているわけではない。従来なら読めるものが簡単に読めるものではないという仕組みがよく分かる。状況は混沌で、後半がどうだ、という判断は僕にははっきり言ってよく分からない。それでよいのかと怒る人は怒るけれど、そういうものだという戦いなのではないのだから申しわけありません。

 仕事以外のトラブルもあり、精神的にイライラしているのだろう。はかどらないというか、大きく時間をとられてしまう。詳細は書けないが、世の中には困った人達がいる。この人たちは人を困らせることで生活を営んでいる。困らせたいのだから、こちらが困らないことがなによりの防御法である。付け込まれない用心は必要だし、根気強く対応していくが、基本的に最小限の反応しかしない。すっとんきょうに驚いて判断をしないことだ。
 長崎のテロも同じことだ。仮に証言のみが動機だと仮定すると、まったく意味のない逆恨みである。人間はベランダから落ちた植木鉢にあたっても死ぬことがある。人が死ぬというのはそういう一見意味のない無常ということでもあると思う。生きている人はそれですまない感情があるけれど、その感情を動かそうと不条理をはたらいているのである。反応すればするほどテロは目的を達成したといえるのである。連鎖を防ぐ最大の方法は、テロの無意味化である。残念ながら日本に限らず、政治ではテロは大変に有効である。人の死はやはり感情を動かしてしまう。そうであるからテロリストはできるだけ非情であるという手法をとるのである。せめてこういう行為も人間が内包している性質であると理解したほうがいいと思う。粛々と行動するよりないだろうと思う。

 さてしかし、理事会の方はいい感じではあると思う。議論の筋もいい意見が出ていると思う。言いっぱなしや、不条理な一方的な批判も少ない。内容の先を読んで、つぶすところをつぶし、広げるところと期待するところがあるという考え方もよく分かった。答弁の空回りもないではなかったけれど、本当に意味が分かっていないということではなさそうだ。技術論であれば身につければいいだけの事である。スキルは必ず身につく。その前の考え方こそ大切なのである。理事の自覚が高いということであると思う。そういう精神がなにより尊いことなのだ。こういうサイクルがどんどん広がると、まちだって変わっていくだろう。悪いことも連鎖するが、いいことだって連鎖するのである。転がり続けるよりないではないか。
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