カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

間違った歴史でももとには戻しにくい   原爆 私たちは何も知らなかった

2019-02-12 | 読書

原爆 私たちは何も知らなかった/有馬哲夫著(新潮新書)

 原爆がなぜ開発されたのかというのは、ドイツの脅威に対抗するためであったという。19億ドルという大金をかけたプロジェクトののちに完成に至るが、すでにドイツは降伏。日本も折衝の末ほぼ降伏が確実という段階になって、急いで落とされることになった経緯が記されている。さらにその後のソ連との関係で、この核兵器の拡散を防ぐためにどうすべきだったかという議論があったにもかかわらず、それは失敗に終わる。終戦間近のドタバタ劇は複数の国を交えて展開された。それらのことを資料をめぐって明らかにした本である。
 いまだに米国などでは、原爆投下を正当化するために、米軍兵士の犠牲を最小限にすることと、日本の多くの一般市民を救うために、日本の降伏を早める目的で原爆を投下したとされている。また多くの人々がその正当性を認めている。それは歴史的な事実ではないが、無差別大量虐殺を正当化しなければ、戦勝国としての優位性がぐらつくために信じなければならない問題となっている。そのために戦後であっても多くの日本人は傷つけられてきたわけだが、それは敗戦国として当然のごとく受け入れなければならない嘘だった。そもそも正義のための戦争などというものはないし、歴史というものは戦勝国の都合により書き換えられるものではあるけれど、現代社会においては、勝ったものの側の正義のためだけに歴史を語ることは、大変に危険である。事実というものはそういうこととは関係なく、本来語られるべきものであるし、知られるべきものである。そうであっても間違った事実をもとに戻すことは、そう簡単なことではない。
 さらに問題があるのは、このような事実を、主に政治的に、さらに思想的に再利用しようとする人々がいることである。またそのために、謀略史観というものと混同されて誤解を受けるということにもつながってしまう恐れがある。戦争の歴史は人間の愚かさの証であろうけれど、その愚かさを明らかにしないことには、将来的に人間性が失われてしまうことにもなろう。
 ほぼ米国の資料を基にこのような論考が行われたにもかかわらず、米国の人間のために翻訳する必要のある本というものはそう多くはないが、この本はまさしくそうであると断言できるものだろう。しかしそういうことはなされないだろうし、積極的に読む米国人もいないだろう。ねじ曲がった世界というものは、そういうことなのである。
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