goo

再びの巨木巡礼 49 常願寺のカヤ


鴫谷家の茅葺の長屋門

10月8日、七本目の巨木は、藤枝市岡部町子持坂の「常願寺のカヤ」である。岡部の町から県道81号焼津森線を1キロほど進んだ、子持坂バス停あたりから、右手に入った山懐に常願寺がある。途中、左手に鴫谷家の茅葺の長屋門が見える。手前にコスモスが咲いていて、一枚写真を撮った。




常願寺のカヤ
枝上部で葉を落としているように見える


平成11年4月25日「巨木巡礼」時の常願寺のカヤ

「巨木巡礼」時には、以下のように記している。

 「常願寺のカヤ」は常願寺の上り口の緩斜面にあった。周りを雑草に覆われ、根元に植木の剪定くずを積まれ、蔓性植物に幹を覆われて、町指定天然記念物に指定はされているものの、放置され顧みられていないと思われた。


今回は、上部の枝辺りがやけに閑散として、常緑のはずの葉を落としているようで、少し心配になる。昭和47年7月1日指定、岡部町(現、藤枝市)天然記念物である。幹周囲は、指定時4.5メートル、昭和63年調査の「静岡県の巨木」では4.64メートル、現在はさらに30年余経つから、5メートルに近いと思う。樹高16メートル。

******************** 

昨日、今日と、一泊で女房と故郷へ墓参りに帰って来た。

読書:「うろこ雲 研ぎ師人情始末3」 稲葉稔 著
読書:「うらぶれ侍 研ぎ師人情始末4」 稲葉稔 著
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

再びの巨木巡礼 48 浅間神社のスダジイ

子持坂のかし(静岡県の巨木153/№93)の根株


ありし日のイチイガシ
平成9年4月12日「巨木巡礼」時の子持坂のかし

10月8日、六本目の巨木は「子持坂のかし」である。ただこのイチイガシは枯れてしまったことは承知していた。岡部の町から県道81号焼津森線を1.3キロほど北西へ進み、朝比奈川を渡る手前、右側の山麓に子持坂の浅間神社がある。「巨木巡礼」時にはこのイチイガシについて以下のように記している。

岡部町から朝比奈川沿いに1キロメートルほど遡った子持坂の浅間神社がある。境内には巨木が幾本かあるが、やはり『子持坂のかし』がもっとも存在感があった。

「巨木巡礼」から15年後、「駿河百地蔵巡り」で平成24年10月11日に「子持坂のかし」を再訪した。その記録はこのブログにあるが、再掲する。

同じ子持坂に「子持坂のかし」という巨木がある。浅間神社に立寄ると、「子持坂のかし」は立っていたけれども、緑の部分が一切なかった。命が尽きたかと思い、脇で草刈をするおばあさんに枯れてしまったねぇと話しかけた。一年ほど前だったか、台風で緑で残っていた幹の上部がぽっきり折れてしまった。寿命だろうけれども、幸いに神社の方へは落ちないで、広場に落ちたので被害が無くて良かったと話す。 

緑の枝が無くなってしまえば、この木も終わりだろうと、その時思ったことを思い出す。それから9年、「子持坂のかし」な根株になっていた。
 
往時の 「子持坂のかし」は樹種イチイガシ、幹周囲4.5メートル、根回り7.4メートル、樹高28メートルで、旧岡部町指定の天然記念物であった。



子持坂浅間神社のスダジイ

イチイガシは失われたけれども、「静岡県の巨木」のデーターによると、浅間神社には、他に、幹周囲3.8m(樹高12m)、3.7m(13m)、3.68m(22m)と、三本のスダジイの巨木がある。社殿左の境内に、御神木とされているスダジイがあった。斜めになっているが、巨木としての威容を十分備えている。高さも十分に高い。「子持坂浅間神社のスダジイ」として、イチイガシに代わって、浅間神社の代表木としよう。



計測から30年以上経っているから、幹周囲4メートル、樹高22メートルとしよう。樹種はスダジイ、樹齢は300~400年(?)位か。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

再びの巨木巡礼 47 万年寺のカヤ


万年寺とカヤノキ



10月8日、五本目の巨木は「万年寺のカヤ」である。青羽根の大井神社の帰り、「玉露の里」を過ぎてすぐの左手、岡の上にカヤの巨木が見える。細い参道を登って境内に駐車した。


万年寺のカヤ(静岡県の巨木153/№79)


平成9年4月12日「巨木巡礼」時の万年寺のカヤ

「巨木巡礼」の時、以下のように記している。

フィルムを替えている間に、茶畑に行く農家のおじさんが、根元に無神経に軽トラックを駐車して行った。農家のおじさんが登って行った道をたどると、朝比奈城址に至るようだ。目の高さで二又に分かれたカヤで、金谷の二軒屋の大カヤより一回り大きい。

往時の写真は、軽トラが写らないようにカメラを構えたためか、カヤの形がよく分からない絵になっている。また、往時はフィルムカメラだったことに改めて驚いた。


藤枝市岡部町新舟「万年寺のカヤ」は、幹周囲5.8メートル、根回り8メートル、枝張り東西30メートル、 南北25メートル 、樹高30メートル。昭和53年10月20日、静岡県指定の天然記念物である。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

再びの巨木巡礼 46 大井神社の大スギ


青羽根大井神社の大スギ



10月8日、須賀神社のクスの後、藤枝市の旧岡部町に向かう。旧岡部町にはターゲットの巨木が四本ある。まずはその最奥の「青羽根大井神社の大スギ」に車を進めた。本日、四本目の巨木である。「巨木巡礼」では青羽根大井神社への経路を以下のように記している。

岡部町の中心から、北へ朝比奈川沿いに車で15分ほど遡り、玉取方面と青羽根方面の分岐を、左方向の青羽根方面に進む。最奥の集落で、「青羽根パノラマコース」と名付けられたハイキングコースを、標識に従って右手へ進む。谷を越し山道を少し登ったコースの途中に大井神社がある。

青羽根大井神社の赤い鳥居が見える所に駐車して、目的の大井神社は、それより細かいジグザグの山道を10分足らず登った尾根上にあった。

境内の案内板には、青羽根地区の歴史が記されていた。それによると、青羽根地区は、「今から八百余年前、寿永四年(1185)、平家が滅亡して、氏族の存続を願って、この地に隠れ住んだ人たちの集落」だという。いわゆる平家の落武者伝説の一つかと、先を読むと、「仲本、村上、京、羽山、永井2家、清水の七家が集落の起源で、青羽根七人衆と言われ、現在でもその子孫が家系を継承」していると書かれていたから、よくある伝説と片付けるわけにはいかないようだ。

青羽根大井神社の大スギ

平成11年4月25日「巨木巡礼」時の大井神社の大スギ

「大井神社の大スギ」について、「巨木巡礼」では以下のように記す。

大木に囲まれた狭い境内の、神社前には杉の大木が一本切り倒されて塞いでいた。御神木の「大井神社の大スギ」は倒された杉を乗り越えて進んだ、社殿左手後ろの狭い空間にあった。「千代の大杉」とも呼ばれて、性良く伸びている。


人と比べれば、幹回り6mはありそうに見える

大スギは大井神社社殿の左手奥に立っていた。予想以上に、太くまっすぐに天に向かって聳えている。根回り8メートル、目通り5.4メートル、樹高28メートル、枝張り東西25メートル、南北25メートル、昭和47年7月1日指定の、藤枝市の天然記念物である。問題は樹齢だが、青羽根地区の歴史からすれば、800年と考えたいところだが、もう200年位は若く見える。

「静岡県の巨木」のデーターによれば、他に、幹回り3.4メーターのスギと、同3.47メートルのヒノキがあるはずなのだが、尾根と両の斜面に、巨木と呼べそうなものが、何本も見られたが、特定は出来なかった。「巨木巡礼」時に、神社前に切り倒されていたという杉の大木が、その一本だったのかもしれない。

青羽根パノラマハイキングコースは、案内標識も多く見られたが、コロナの影響か、集落の過疎化故か、参道など、山道が少し荒れているのが気になった。今はここまでハイキングに訪れる人もいないのだろう。

********************

朝、この秋一番の冷え込みの中、小学生集団登校の見守り立ち番に出る。区長の仕事の一つである。

読書:「道連れ彦輔」 逢坂剛 著
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

再びの巨木巡礼 45 須賀神社のクス


須賀神社のクス(静岡県の巨木153/№121)




平成9年4月12日「巨木巡礼」時の須賀神社のクス

10月8日、三本目の巨木、藤枝市水守の「須賀神社のクス」はお馴染みの巨木で、「巨木巡礼」で出合い、「旧東海道夫婦旅」でも立ち寄り、このブログでも2012年10月1日「駿河百地蔵巡り」の時、訪れている。「巨木巡礼」では次のように記す。

旧東海道を東へ、藤枝の商店街を抜けて、国道1号線を南へ渡って少し行くと、旧東海道沿いに「須賀神社のクス」がある。根元に向けて幹が末広がりで、子供がたやすく攀じ登れるようなスロープをなしていて、幹がそれらしくはげていた。しかし、いまは登って遊ぶ子供もいない。子供が減り、しかも忙しすぎるのであろう。裏へ回ると大きな洞が口を開けていた。(平9.4.12)

さらに、「旧東海道夫婦旅」では、「巨木巡礼」の記録を載せた後、以下のように記す。

この木とも出会ってから数年の付き合いである。この短い間にこの楠も確実に年を取り、以前には無傷であった幹に無粋な治療痕が目立つようになった。大きな洞には蓋がされて写真に入らないようにするのに苦労する。またかっては自由に遊べたのに今は周りがロープの柵でガードされていた。(平13.12.24)

さらに、このブログで以下のように記しているので再掲する。

クスノキに変わりは無かったが、周囲の様子がすっかり変わっていた。道路改修によって、周辺が広々としたため、枝を気兼ねなく広げているように見えた。

案内板も新しいものになっている。といっても、平成13年設置とあるから、10年以上御無沙汰していたことになる。樹齢500年、樹高23.7メートル、根廻15.2メートル、目通10.9メートル、枝張 東西21.2メートル、南北27.9メートルと記されている。昭和33年9月、靜岡県指定天然記念物で、数値は指定時のものと言う。それから50余年も経つから、幹の太さも目通で1メートル以上も太くなっているに違いない。

以前に見たときは、狭いところに窮屈そうに枝を張り、道路側だけが少し開けているイメージであった。旧東海道筋にあるということは、江戸時代以前から街道を行き来する旅人たち、参勤交代、飛脚や早馬など、ずうっと見下ろしてきたわけで、そんな事を考えると、このクスノキはいよいよ大切にされなければならないと思う。 (平24.10.1)


ひこばえが疵を隠してよいが、太さがよく見えない

角度を変えて寄れば、疵の補修が痛々しい

上部も中々太い

以前の記録を並べてみると、意外と面白い。町は再開発で、旧東海道の狭かった道が広々とし、迫っていた人家も幾棟か無くなり、自由に枝を広げているように見えるが、今では子供の声も無く、あちこち疵の手当ては手厚くされているけれども、見に来る人も絶えて、クスノキも一抹の寂しさを感じているのではないか、と思った。

******************** 

本来なら、今日は地区の神社のお祭りだが、コロナ禍で早々と中止になっており、神主さんの神事だけが拝殿で行われ、区長として参列した。直会(なおらい)もなく、散会となった。久し振りにネクタイを締めた。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

再びの巨木巡礼 44 藤井神社のクスノキ


藤枝市平島 藤井神社


藤井神社のクスノキ



10月8日、2本目の巨木は、藤枝市平島の「藤井神社のクスノキ」である。無指定で「静岡県の巨木153」にも入っていないが、巨木巡礼で訪れている。今回はカーナビ頼りで行ったが、藤井神社までの経路を巨木巡礼では次のように書いている。

国道一号線の藤枝市大手の交差点を東へ折れて、県道30号焼津藤枝線を600mほど進み、信号を左折しさらに500mほど進んだ藤枝市平島の角地に藤井神社がある。


平成11年5月10日「巨木巡礼」時の藤井神社のクスノキ

藤井神社のクスノキは神社左手奥にあった。巨木巡礼で印象を記している。

 太い主幹の上部が失われ、ダルマさんのようになった幹の芯から新しい幹が伸びて、巨木が再生されつつあるといった不思議な樹様を持ったクスノキである。根元が空洞になり、残った根が踏ん張った四肢に見えて、幹に宿った蔓草が胴体を被った獣毛のようで、草食の首長恐竜そっくりの異相であった。


往時と比べて、蔓草などはとれて、幹や枝も一回り太くなったように見える。樹勢も増して、注連縄も張られ、御神木として良くケアされているのであろうと思った。


裏へ廻ると白龍が居た

裏へ廻ると根元は洞になって、中に小さな祠が幾つか鎮座していた。そして上部から白龍が半身を現わしていた。

「静岡県の巨木」のデーターによれば、幹周囲9.5メートル、樹高18メートル、無指定の巨木である。

********************

金谷宿古文書講座、2講座実施。

読書:「突きの鬼一 7 饗宴」 鈴木英治 著
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

再びの巨木巡礼余話 4 臥竜の松

見る影もない臥竜の松



10月8日、「旭伝院の松」の次に「臥竜の松」を巡礼した。巨木ではないが、「旭伝院の松」と同じ町内で、距離もに近かったし、そのネーミングと焼津市の天然記念物という言葉に魅かれて、訪れて見た。場所は、焼津市保福島633の個人のお宅である。場所は旭伝院の北東600メートルほどの住宅地である。住所をカーナビにセットして進んだ。カーナビではすでにそばへ到着しているのだが、焼津市のHPで見た写真の場所が見当たらない。

一角を一廻りして見つからず、二回り目に小路の奥に、市で建てた 天然記念物表示の白柱が見えた。車を止めて入って行くと、それらしきブロック塀と、松が見えた。前が田んぼだったが、ブロック塀ぎりぎりまで、資材置き場になっていて、見えなかったのである。屋敷内に入って、玄関に声を掛けるも返事がない。玄関戸を引いて見たが明かなかった。留守かと、振り返って写真を一枚撮ってみたが、どれが臥竜の松なのか、荒れてしまって見る影もなかった。

庭から出る際に覗いてみた/何とか松の幹が見える

近所で庭木の剪定をしていた男性に、聞いてみたところ、「臥竜の松」と呼ばれて、焼津市の天然記念物になっていることすら知らず、息子さんが一人いたのだが、今は浜松の方へ住んでいて、休みに時々来ているようだがという。


帰りに資材置き場の透き間から覗いてみた

「臥竜の松」はネットでみると、同じような名前の松が10本ほどあった。何れも有名な庭園だったり、お寺だったりで、無名の個人宅はここだけだった。臥竜の松は天然記念物とはいっても、人間の手で松を矯正して形を作ったものである。維持していくには、継続的に剪定、矯正していかねばならない。お金もかかることで、親が亡くなれば、後代が維持するのは困難だと思う。

しかし、市の天然記念物となれば、市民を始め見に行きたくなるわけで、指定した以上は、年に一回ぐらい状況を確認して、天然記念物のままでよいのかどうか、検討する責任があると思う。見学者にがっかりさせるようでは、逆効果だと思う。

******************** 

午後、駿河古文書会に出席した。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

再びの巨木巡礼 43 旭伝院の松


旭伝院の松/墓地の真中に立つ



10月8日、第9回目の「再びの巨木巡礼」に出掛けた。天気は晴れで、半袖でもけっこう暑い。気温は30度近いと思う。国1バイパスを薮田西インターで降りて、県道215号伊久美藤枝線から、同224号大富藤枝線で、旧田中城内のカーブした道を、西益津小学校を右にみて横切り、瀬戸川を渡る少し手前の小道を左折すると、前方に旭伝院の松の雄姿が見えてくる。

旭伝院の松

旭伝院の松は「静岡県の巨木153」には入っていないので、「巨木巡礼」時では訪れていないが、その後、2012年10月1日「駿河百地蔵巡り」の時訪れて、このブログに書いている。その一部を再掲する。

旭伝院というお寺の墓地に、その松は墓地を守るように枝を広げている。昭和47年5月、焼津市指定天然記念物「旭伝院のマツ」との標柱が立っていた。樹種クロマツ、樹齢600年、樹高25メートル、根廻5.5メートル、目通4.3メートル、枝張20メートルという。目通4.7メートルという情報もあるが、指定時と現在の差であろうか。

マツクイムシの被害蔓延以降、県内でも松の巨木は次々に枯れて、大変少なくなってしまった。その中で「旭伝院のマツ」はまれな松の巨木で、県内でも有数の松ではないかと思う。

「駿河百地蔵巡り」の時よりも、樹形が整って見えるのは、少し枝打ちされて整えられたと聞いた。すぐそばまでお墓が迫っていて、やや窮屈そうに見える。

旭伝院は、大正末期に曹洞宗の僧で、仏教学者でもあった岸沢惟安により開創されたという。お寺としての歴史は100年ほどしかない。「旭伝院のマツ」は、お寺の歴史よりはるかに古く、よもや回りにこんなにお墓が立ち並ぶとは、松も想像していなかったのではなかろうか。


目の高さの樹皮に沢山の穴が

目の高さ辺りに、樹皮にたくさんの穴が明けられ、多分そこから栄養分とか、マツクイムシ対策の薬が注入されているのだと思う。松枯れが巨木にも及んで、多くの有名な松が枯れる憂き目を見る今、支えもほとんど無しに、樹勢を保っている巨松を見られるのは大変嬉しいことである。

読書:「彼岸花 秋山久蔵御用控 6」 藤井邦夫 著
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

再びの巨木巡礼 42 焼津神社のクロマツ


焼津神社左側面より
手前にクロマツ、左奥にクスノキ




10月2日、7本目の巨木は焼津神社のクロマツである。クスノキのすぐそばに、真新しい柵に囲まれていた。「静岡県の巨木」のデーターによれば、幹回り6.9メートル、樹高20メートルである。このように、二又に分かれた木の幹回りは、胸高、つまり、地上1.2~1.3メートルの所を、二本束ねてメジャーを回して測る。だから見た目よりも、幹回りが随分太く表示されてしまう。このマツもその通りで、一本の幹で7メートル近い松には、なかなかお目にかかれない筈である。



焼津神社に入った時から、境内にちらほら、上下白い服の幼い子供と、それを取り巻く大人たちの姿を目にしていた。あちこちに場所を移しては、盛んに写真を取っていた。七五三にしては少し早いし、衣装が違う。そういえば、皆んな「奉納焼津神社」と黒く染められた、白い小さめの幟を持っている。


断って、一枚写真を撮らせて頂いた

巨木を見た後、新たにやって来た、祖父、父、兄、白の衣装の幼子の4人、その祖父に「七五三ですか」と声を掛けた。「七五三とは別で、これは『のぼりかつぎ』と言って、焼津神社の夏祭りの行事の一つで、いつもは8月13日の本祭りに、幟を担がせてお参りする。今年は本祭が中止だったので、ちょっと遅くなったが、今日お参りに来た」という。そういえば、コロナの緊急事態宣言は、昨日全面解除された。今日、お参りの人達は、いままで自粛していたのであろう。

「生まれてから、1歳、2歳、3歳と、3年連続でお参りし、三年目にお祭りの行事で、幼子を抱いてぐるぐる回し、泣く声が大きいほど丈夫に育つと言われている。今年の分は来年まとめて行ってくれるようだ」と話す。調べてみると、これは「神ころがし」と呼ばれる神事で、8月12日に行われる。

「とにかく、焼津神社の夏祭りは神輿が二つ出て、町内を担いでまわる。朝10時から夜11時まで、神輿は小振りだが2基あって、掛け声はわっしょい/\などとは言わない。勇壮なお祭りだから、ぜひ見に来て下さい。」わっしょいでなければ何というのか、聞きそびれた。これも調べてみると、「アンエットン」という掛け声だそうだ。何か気が抜けるような掛け声だが、数千人の白装束の若者の大集団が、次々に神輿の担ぎ手を変えながら、激しく練りなだら出す掛け声だとすれば、すごい迫力ではないかと思う。「東海一の荒祭り」とも称されているらしい。

8回目の「再びの巨木巡礼」は、ここまでとし、帰路に付いた。

********************

午後、はりはら塾「古文書解読を楽しむ」講座を開催する。出席8人、1人欠席。9月中止の分は10月27日(水)に実施と決め、会場予約をする。

伊勢長兄より電話、コロナが治まったチャンスに、故郷へ墓参りと次兄の見舞に行くことに決める。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

再びの巨木巡礼 41 焼津神社のクスノキ


境内の広い焼津神社
目的のクスノキとクロマツは拝殿左手に見えている



10月2日の最後は、焼津神社のクスノキとクロマツである。焼津神社は説明の用もないと思うが、JR焼津駅の南西1キロの、街中にある。

焼津(やいづ)の地名の由来には、次のような伝説がある。東国平定に向う日本武尊(やまとたけるのみこと)は、敵に欺されて草むらの中で四方から火を点けられて窮地に陥った。とっさの機転で、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ) で草をなぎ払い、無事窮地を脱することができた。この伝説から、この地は「ヤキツ」と呼ばれるようになり、現在の焼津という地名の由来となった。焼津神社は主祭神として、この日本武尊を祀る。

焼津神社のクスノキ


「焼津神社のクスノキ」は、焼津神社拝殿左側に接するようにある。自然の造形ではあるのだが、何とも珍妙な形のクスノキである。「静岡県の巨木」のデーターによれば、幹回り6.9メートル、樹高20メートル、とある。


このクスノキの写真をじぃーっと見ていると、両手をあげて空を見上げる女性に見えてこないか。何やら艶めかしくもある。正面に廻れば、胸の谷間もあるから、好事家は焼津神社まで確認に行かれるとよい。

前述の伝説には続きがある。日本武尊の妃、弟橘姫(おとたちばなひめ)が、相模の海が荒れて船が進めない時に、海に身を投げ、海は静めて、日本武尊は無事対岸に渡ることができた、という伝説である。

このクスノキは、身を投げた弟橘姫の入水の瞬間が顕われたものと言えば、新たなパワースポットになるかもしれない。

焼津神社御朱印

読書:「糸切れ凧 研ぎ師人情始末2」 藤井邦夫 著
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ 次ページ »