ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

天皇を補佐する者の役割と責任

2007-12-17 09:34:57 | 日本精神
 昭和天皇は戦前、日独防共協定・三国同盟には内心賛成せず、対米英戦争の回避を最後まで強く願った。そして、大東亜戦争の開戦後は、緒戦の勝利に惑うことなく早期講和の方策を考えた。国家指導層の多くは、こうした天皇の御心に反して、日本を誤った方向に導いてしまった。
 日本の指導層及び国民は、どのようにあるべきだったのだろうか。大塚寛一先生の行動に照らして様々な識者・人物の発言を精査するなかで、私は元亜細亜大学教授・小田村寅二郎氏の見方は、示唆に富むものだと思っている。「天皇に対する輔弼(ほひつ)とは」という氏の所論から紹介する。

 戦前の我が国では、大日本帝国憲法の下、天皇は軍を統帥する統帥大権、さらに立法、司法、行政の三権分立制度を統括する政治大権の双方を持っていた。小田村氏は、この点について次のように述べている。
 「大日本帝国憲法のそれらの諸規定が有効、適切に機能を発揮するためには、何よりも大切な必須条件がありました。具体的に申しますと、統帥大権を補佐申し上げる軍令部総長、参謀総長の輔弼の責任をはじめ、内閣その他様々な角度から天皇政治を補佐申し上げる側の人々に、臣下として天皇に忠誠を尽し、真心をもって天皇様をお助け申し上げなければならない重大な輔弼の責任があったのであります。
 ここのところが、大日本帝国憲法における最も重要な骨組みでありました。ところが、事実を調べてみますと、この点において、十分に輔弼の責任を果たし得ていないことが数多くあったことに気付いてきます。これは重大な歴史的事実でありまして、それがいっこうに是正されぬままに、あるいは、さらに一層深刻にマイナス面が深まっていくままに、天皇様は御年を重ねて遂に敗戦時に至られたのであります」
 このように小田村氏は、帝国憲法の下において天皇を補佐すべき者に責任があったと指摘する。

 さて、明治時代、日清・日露戦争で活躍した帝国陸海軍は、大正、昭和を経て非常に問題のある軍部になってしまっていた。作家の司馬遼太郎氏は、生涯この原因を問いつづけた。小田村氏は、軍部が変化した原因について次のように記している。
 「満州事変、上海事変、2・26事件、支那事変と推移していく間に、軍ことに陸軍部内ではいつしか、下克上と申しますか、下の者が勢力を得て、上の者たちを自分たちの思うとおりに動かすという傾向が一層深まってきます。中堅幹部将校があらゆることに口を出し、陛下を輔弼申し上げる高位高官が中堅将校の傀儡(かいらい)的存在となっていったのであります。
 かかることが万一にも起きてはならないというのが明治天皇様の深いご配慮であられたために、明治15年、『軍人勅諭』が下付されております。この『軍人勅諭』を日夜奉読することによって、一兵卒から将軍に至るまでの全軍人が拳拳服膺(けんけんふくよう)しながら軍務に精励していた時の軍と、この『軍人勅諭』をうつろに読むだけで、心に味わうことを怠りだした時の軍部とは、自(おの)ずからそこに内的変質が発生していたと思います」と。
 小田村氏は続いて次のように述べる。
 「しかも昭和16年、時の陸軍大臣東條英機大将の名で、全陸軍に『戦陣訓』というものが出されました。(略)『戦陣訓』の下付によって『軍人勅諭』への関心が自然に低下していったことは申すまでもありません。敗戦の責任は軍部にあるという言い方はその通りだと思いますけれども、時の軍部が『軍人勅諭』に従うことを好い加減にしていたところに、軍部の腐敗、堕落があったということを併せて指摘しなければ、軍部に責任があるということを言っているだけでは意味をなさないと思います」
 このように小田村氏は、軍部の責任とその原因を指摘している。

 小田村氏は、次に政治家・官僚・学者等の指導層全般について言及する。
 「大日本帝国憲法の規定する条章の精神の中には、内閣は毅然として政治に携わることを、定めております。即ち、天皇に対して、輔弼の責めを持つという表現用語によって、そのことが明示されているのであります。もしその通りに実行するとすれば、誤れる軍人に対して、これを正すのが政治家の責務だと思います。その任務を果たした人もいます。しかし、大勢はそれができなかった、あるいはする意志も持ち合わせていなかったのです」
 氏によると、「先の大戦の原因は、軍人、政治家、役人、そして、それらの誤りを正すべき最後の切り札である学者、総じて日本の指導者層の全てに、それぞれの分野における臣下としての責務に怠慢、さらに責任の回避、承詔必謹の精神の欠落等のあること」だった。「陛下の大御心を憶念し奉り、大御心を安んじ奉ることこそが、天皇を輔弼申し上げる臣下の重大な責務」でしたが「それを感じる者乏しく、またその志ある者も衆寡敵せず」という状態だったと、小田村氏は指摘している。
「大日本帝国憲法下に運営されていた日本の素晴らしいシステムが機能するには、忠誠心という重大な精神的ファクターを要求していた。それが摩滅し希薄化していく時には、素晴らしいシステムも機能を発揮しなくなるのはもとよりであります」
 小田村氏の所論は、大略、以上の通りである。

 昭和天皇は、終戦の御聖断、戦後のマッカーサー会見、全国御巡幸等において、こうした国家指導層すべての責任を一身に担って、国家と国民を救おうとした。しかし、戦後の我が国民は、そうした過去を忘れている。そして、戦前に比べるべくもないほど、日本人の道徳や責任感は低下してきている。小田村氏の言葉は、国民統合の中心を見失ったまま、国家溶解の危機にある今日の日本人に対しても、反省と覚醒を促す言葉として響くのではないか。

 現在の日本を憂え、過去を振り返り、日本の将来を思う人々には、大塚寛一先生の説く「真の日本精神」を学ぶことをお勧めしたい。
 大塚先生は戦前、戦争回避・不戦必勝を説く建白書を、昭和14年9月から昭和20年の終戦間際まで、時の指導層に対し、毎回千余通送付した。戦後、大塚先生は、「真の日本精神」を伝える運動を行ってきた。著書『真の日本精神は世界を救う』(イースト・プレス)を通じても、真の日本精神について学ぶことができる。

参考資料
・小田村寅二郎著『天皇に対する輔弼とは』(『聖帝〔ひじりのみかど〕 昭和天皇をあおぐ』明成社 所収)
関連掲示
・拙稿「日本弱体化政策の検証」
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion08b.htm
・拙稿「世界に誇れる国柄とその心」
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion04d.htm
 第2章以下
・以下のページの項目28、拙稿「日本文明は近代西洋文明にどう対応してきたか」
http://khosokawa.sakura.ne.jp/j-mind11.htm 

ナチス迎合を批判した日本人2

2007-12-15 09:45:48 | 日本精神
 葦津珍彦は、彼自身、戦前、政府や軍の親独路線を批判したため弾圧を受け、著書は細かく検閲を受け、発行できなくなった。この点は重要である。戦前国策として行われていた神道は戦後、「国家神道」と呼ばれ、「国家神道」が戦争の重要な原因の一つであったと見なされてきた。これは、神道を危険視したアメリカの占領政策の影響である。しかし、事実は大きく異なる。葦津のような在野の神道家は、官製の「国家神道」に異を唱え、日本人でありながらナチス思想を模倣するような当時の風潮を断固批判したのである。
 葦津は、次のように書いている。「政治家や軍人の中に、いかにナチス流の征服主義の思想が強大であっても、かれらは、ヒトラーのごとくに強者の権利を主張し、征服者の栄光を説いて、それで日本国民の戦意を煽り立てることができなかった。かれらが日本人を戦線に動員するためには、古き由緒ある文明と最高の道義との象徴たる『天皇』の名においてのみ訴えることができた。……天皇の名において訴えるためには、かれらは『征服』の教義ではなくして『解放』の教義を説く以外になかった。しかも日本国民は、その解放の教義を信じ得る限りにおいてのみ、忠勇義烈の戦闘意識を発揮し得た。国民の意識は、天皇の精神的伝統的権威と結びついて、目に見えざる大きな圧力となって、戦時指導者に、間接的ではあるが大きな制約を加えていたことを見失ってはならない」
 事実、葦津の言うように、「大東亜戦争で、日本軍の影響の及んだところでは、インド、ビルマ、マライ、インドネシア、ベトナム、フィリピン、どこででも人種平等の『独立と解放』が大義名分とされた」のだった。ナチス流の反ユダヤ主義、人種主義は、日本では到底通用し得なかったのである。
 
 神道家・葦津の大戦に対する反省は、真摯かつ率直である。
 「われわれは、日本軍が純粋に利他的に解放者としてのみ働いたなどというつもりは全くない。日本軍の意識の中には、征服者的なものも秘められてもいたであろうし、その行動には、専横で圧迫的な要素もあった。しかしそれと同時に、解放者としての使命感と解放者としての行動もあった。その二つの潮流が相合流していた。そこに歴史の真相がある。その征服者的な日本の側面については、東京裁判以来、あまりにも多くのことが誇張的にいわれており、しかも解放者的な側面については、ほとんど無視され否定されているのが現状である」と葦津は書いている。
 葦津は続ける。「日本帝国が掲げた『大東亜共栄圏』の精神は、いかなるものであったか。そこに日本人の侵略的植民地主義の影がなかったとはいいがたい。東洋における欧州的一新帝国を目標として成長して来た日本の政府や軍の体質の中には、それは当然に強力に存在するものであった。だがそれと同時に日本民族の中に営々として流れた日本的道義の意識、アジア解放の悲願の存在したことも無視してはならない。そこには清くして高きものと、濁りて低きものとが相錯綜し激突しながら流れて行った」と。
 
 昭和戦前期の我が国の指導層は、西洋思想の影響を受け、ナチス・ファッショを模倣して、日本人本来の在り方を見失っていた。しかし、国民の多くは、善良な日本人の心を保っていたのである。そこには、「清き明き直き心」を理想とし、共存調和をよしとする神道的な精神が脈打っていた。
 そうした日本人の精神を、戦後の日本人は失ってきた。大戦での敗北で、日本人は自信を喪失し、さらにアメリカによるウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムによって、罪悪意識を植え付けられた。自国の歴史を否定され、戦勝国の立場による歴史観を教育され、国家の基本法たる憲法までも押し付けられた。そこに共産主義や反日思想まで入り込んで、国民の中に思想的な対立構造がつくられた。失われた国富は、国民のひたむきな努力で取り返し、世界有数の繁栄を誇るほどまでになったものの、豊かさはかえって利己的・物質的・打算的な考え方を助長した。家族の関係は希薄になり、家庭にまで個人主義が入り込み、フェミニズムが男女の間に闘争をたきつけている。これらの結果、日本人はますます自己本来の精神を失いつつある。
 私は、日本と日本人の過去を振り返り、明治期まで保ち続けていた日本のよき精神的伝統を取り戻し、日本人が精神的に再生することが、今日の日本を再建し、日本の将来を切り開くための最大課題だと考える。そして、こうした取り組みにおいて、大東亜戦争期における日本人、特に国家指導層の精神面の批判は、重要なポイントの一つだと私は思う。

 次回に続く。

ナチス迎合を批判した日本人1

2007-12-14 10:58:49 | 日本精神
 昭和10年代のわが国の指導層は、昭和天皇の御心に応ええず、また大塚先生の「大日本精神」と題した建白書を深く理解し得なかった。その大きな原因は、国家指導層が本来の日本精神を見失い、欧米思想、とりわけ独伊のファシズムの影響を受けたことにあると私は考えている。この点は、国際情勢を論じているのではなく、日本人の精神を述べているものである。
 このように考える理由の一つに、当時の神道家の中に、政府・軍部のナチス迎合を批判した人物がいたことがある。日本の固有の宗教は、神道である。それゆえ、神道には、日本人の心性がよく表れている。神道は「清き明き直き心」を理想としている。また闘争的・対立的でなく、共存調和をよしとする。昭和戦前期のわが国では、神道は政府の国策の一部となり、文部省の教学局が作った思想が国民に教育された。その思想は、国民を陸軍が主導する戦争政策に動員することに貢献した。しかし、在野の神道家には、政府の思想教育に疑問を持ち、ファッショ的な政策を批判する者がいた。私は、こちらの方に、日本人の心性の表れを強く感じるのである。

 戦後、神道は大きな誤解を受けていたが、近年こうした神道の本質が正しく理解されるようになってきた。今では、海外でも神道が注目されつつある。戦後、神道の評価回復に貢献した人物の一人が、葦津珍彦(あしづ・うずひこ)である。私が政府・軍部のナチス迎合を批判した神道家というのは、葦津のことである。

 葦津は神道の理論家として知られる。彼は生涯、西郷隆盛と頭山満を尊敬した。西郷隆盛のことは、日本人なら誰でも知っている。内村鑑三が英文の著書『代表的日本人』の第一に書いたのも、西郷だった。西郷は「敬天愛人」の精神を持って、私利私欲を超え、誠をもって公に奉じる生き方を貫いた。
 頭山満は、こうした西郷の精神を受け継いだ人物だった。彼は戦前の日本において、国家社会のために生きる在野の巨人として、広く敬愛を受け、「昭和の西郷さん」と呼ばれるほど、国民的な人気があった。頭山は晩年、大塚寛一先生の見識に対し、深く敬意を表した。頭山は、大塚先生に「もう少し早くあなたと出会っていれば、この戦争は起こさせなかったのに」と悔いたという。
 葦津珍彦と頭山の縁は深く、葦津の父・耕次郎が大正時代、東京赤坂の霊南坂に住み、隣家の頭山と親交を結んでいたのが始まりである。その関係で、葦津は「少年時代から、頭山先生を絶世の英雄と信じ仰いできた者であって、ひそかに頭山門下をもって自任してきたものである」と書いている。そして、葦津は、頭山を通じて、西郷の「敬天愛人」の精神を、現代に受け継いだ人物だった。

 さて、戦前の日本は、ヒトラーのドイツ等と軍事同盟を結び、そのため国の進路を大きく誤りまった。当時、葦津は、神道家の立場から、親独路線に強く反対した。ゲルマン民族の優秀性を説き人種差別を行うナチスの思想は、我が国の精神とは相容れないと論じたのである。
 葦津は、戦前の我が国の歴史について、著書『明治維新と東洋の解放』にて次のように書いている。
 「大東亜戦争は、文字通りの総力戦であり、日本人のあらゆる力を総動員して戦われた。……日本国をして『東洋における欧州的一新帝国』たらしめたいとの明治以来の征服者的帝国主義の精神が、この大戦の中で猛威を逞しくしたのも事実である。それは同盟国ドイツのゲルマン的世界新秩序論に共感した。しかし日本人の中に、ゲルマン的権力主義に反発し、あくまでも、日本的道義の文化伝統を固執してやまない精神が、根づよく生きていたのも事実であった。
 日本人の中にあっても、概していえば政府や軍の意識を支配したものが主としてナチス型の精神であり、権力に遠い一般国民の意識の底にひそむものが、日本的道義思想であったということもできるであろう」

 次回に続く。

昭和天皇は同盟・開戦に反対3

2007-12-13 09:25:43 | 日本精神
 昭和16年11月31日、天皇は高松宮に、開戦すれば「敗けはせぬかと思う」と語った。高松宮が「それなら今止めてはどうか」とたずねるので、天皇は次のように語ったという。「私は立憲国の君主としては、政府と統帥部との一致した意見は認めなければならぬ。もし認めなければ、東条は辞職し、大きなクーデタが起こり、かえって滅茶苦茶な戦争論が支配的になるであろうと思い、戦争を止める事については、返事をしなかった」と。
 同じ趣旨のことを、天皇は繰り返し語っている。「陸海軍の兵力の極度に弱った終戦の時においてすら、降伏に対しクーデタ様のものが起こった位だから、もし開戦の閣議決定に対し私がベトー(拒否)を行ったとしたならば、一体どうなったであろうか。(略)私が若(も)し開戦の決定に対してベトーをしたとしよう。国内は必ず大内乱となり、私は信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証できない。それは良いとしても結局、強暴な戦争が展開され、今次の戦争に数倍する悲惨事が行われ、果ては終戦も出来かねる結末となり、日本は亡びる事になったであろうと思う」と。
 昭和16年12月1日、御前会議で遂に対米英戦争の開戦が決定された。天皇は「その時は反対しても無駄だと思ったから、一言も言わなかった」と、『独白録』で語っている。
なぜ天皇は開戦を止め得なかったか、その答えを天皇自身は上記のように語っているのである。5・15事件、2・26事件では、首相らの重臣が殺傷された。終戦時にも、玉音放送を阻止しようと一部の兵士が反乱を起こした。天皇の懸念は切実なものだったことがわかる。

 では、開戦後、早い時期に戦争を終結させることは出来なかったのか。ここで再び三国同盟が拘わってくるのである。日本は12月8日、米英と開戦するや3日後の11日に、三国単独不講和確約を結んだ。同盟関係にある日独伊は、自国が戦争でどのような状況にあっても、単独では連合国と講和を結ばないという約束である。ここでわが国は、ドイツ、イタリアとまさに一蓮托生(いちれんたくしょう)の道を選んだことになる。昭和天皇は、このことに関し、『独白録』で次のように述べている。
 「三国同盟は15年9月に成立したが、その後16年12月、日米開戦後できた三国単独不講和確約は、結果から見れば終始日本に害をなしたと思ふ」
「この確約なくば、日本が有利な地歩を占めた機会に、和平の機運を掴(つか)むことがきたかも知れぬ」と。
 なんとわが国は、戦局が有利なうちに外交で講和を図るという手段を、自ら禁じていたのである。ヒトラーの謀略にだまされ、利用されるばかりの愚かな選択だった。ここでも天皇に仕える政治家や軍人が、大きな失策を積み重ね、国の進路を誤ったことが、歴然と浮かび上がってくるのである。

 昭和10年代の日本の指導層は、欧米思想の影響を受け、とりわけ独伊のファシズムに幻惑されていた。その姿を見た大塚寛一先生は、彼らは本来の日本精神を失っていることを看破し、国の進路に関し、警告と建言を繰り返したのだった。昭和天皇の御心に真摯に応えようとする者が指導層に多くいたならば、大塚先生の建白書への対応も大きく変わっていただろう。
 なぜ当時の指導層は、天皇の御心に応ええず、また大塚先生の「大日本精神」と題した建白書を深く理解し得なかったのか。私は、国家指導層が本来の日本精神を見失い、欧米思想、とりわけ独伊のファシズムの影響を受けたことが、大きな原因だったと考えている。

参考資料
・『昭和天皇独白録』(文春文庫)
・山本七平著『昭和天皇の研究』(祥伝社)

昭和天皇は同盟・開戦に反対2

2007-12-12 11:38:45 | 日本精神
 昭和天皇と大東亜戦争との関わりを振り返ってみると、まず日独伊三国軍事同盟をめぐる問題がある。昭和15年9月に、この同盟を締結したことは、わが国が決定的に進路を誤った出来事だった。当時、昭和天皇はヒトラーやムッソリーニと同盟を結ぶことを憂慮し、何度も同盟反対の意向を示していた。
 しかし、三国同盟は強硬に推し進められた。推進の中心には、外務大臣の松岡洋右がいた。松岡は、独ソ不可侵条約と三国同盟を結合することで、日独伊ソの四国協商が可能となり、それによって中国を支援する米英と対決する日本の立場を飛躍的に強めることができるだろう、という構想を持っていた。しかし、松岡の狙いは見事に外れた。これに対し、天皇は『昭和天皇独白録』で当時を振り返り、次のように語っている。
 「同盟論者の趣旨は、ソ連を抱きこんで、日独伊ソの同盟を以て英米に対抗し以て日本の対米発言権を有力ならしめんとするにあるが、一方独乙の方から云はすれば、以て米国の対独参戦を牽制防止せんとするにあったのである」と。
 天皇の方が、外交の専門家である松岡よりも、相手国の意図をよほど深く洞察していたことがわかる。

 三国同盟が締結された当時、天皇は、時の首相近衛文麿に対して、次のように問い掛けていた。
 「ドイツやイタリアのごとき国家と、このような緊密な同盟を結ばねばならぬことで、この国の前途はやはり心配である。私の代はよろしいが、私の子孫の代が思いやられる。本当に大丈夫なのか」
天皇は、独伊のようなファシスト国家と結ぶことは、米英両国を敵に回すことになり、わが国にとって甚だ危険なものだと見抜いていたのである。また、近衛首相に対して、次のようにも言っていた。
 「この条約のために、アメリカは日本に対して、すぐにも石油やくず鉄の輸出を停止してくるかもしれない。そうなったら日本はどうなるか。この後、長年月にわたって、大変な苦境と暗黒のうちに置かれるかもしれない」と。
 実際、日独伊三国同盟の締結で、アメリカの対日姿勢は強硬となり、石油等の輸出が止められ、窮地に立った日本は戦争へ追い込まれていった。同盟が引き起こす結果について、昭和天皇は実に明晰に予測していたことがわかる。この天皇の予見は不幸にして的中してしまった。当時の指導層が、もっと天皇の意向に沿う努力をしていたなら、日本の進路は変わっていただろう。

 昭和天皇は、三国同盟に反対し、米英との戦争を憂慮するなど、的確な洞察を示していた。それにもかかわらず、どうして天皇は開戦を止められなかったのだろうか。

 昭和16年9月6日の御前会議で、「戦争第一、交渉第ニ」の方針が決まったが、天皇は戦争に反対の意思を暗示した。天皇は会議の結果を白紙に還元し、交渉を第一として極力努力することを期待したのである。ところが近衛は政権を投げ出し、後任の東条は開戦の道を進んだため、天皇の願いは実現されなかった。
 「問題の重点は石油だった」と『独白録』で、天皇は語っている。独伊と同盟を結んだことにより、米国は日本への石油等の輸出を禁止した。石油を止められては、「日本は戦わず亡びる」と天皇は認識していた。天皇は次のように語っている。
 「日米戦争は油で始まり油で終わったようなものであるが、開戦前の日米交渉にもし日独同盟がなかったら、米国は安心して日本に石油をくれたかも知れぬが、同盟のあるために日本に送った油が、ドイツに回送されはせぬかという懸念のために、交渉がまとまらなかったともいえるのではないかと思う」
 「実に石油輸出禁止は日本を窮地に追い込んだものである。かくなった以上は、万一の僥倖に期しても、戦ったほうが良いという考えが決定的になったのは自然の勢いといわねばならぬ。もしあの時、私が主戦論を抑えたならば、陸海に多年練磨の精鋭なる軍を持ちながら、むざむざ米国に屈服するというので、国内の与論は必ず沸騰し、クーデタが起こったであろう」と。

 次回に続く。

昭和天皇は同盟・開戦に反対1

2007-12-11 10:20:57 | 日本精神
 「大東亜戦争は戦う必要が無かった」「大東亜戦争は回避できた」と書いてきた。戦って大敗するのでなく、戦わずに滅ぶのでもなく、日本が進むべきは「不戦必勝・厳正中立」の道であるというのが、大塚寛一先生の独創的な建策だった。
 アサヒビール名誉顧問・中條高徳氏は、平成18年3月11日埼玉県川口市で行なった「明けゆく世界フォーラム」の基調講演で、次のように語った。「私は職業軍人の道を歩み、敗戦時、19歳でしたが、わが国は、私の友人が3人気が狂ったほどの価値の転換を経験しました。大塚先生はそうした国の行く末を見通していました。大塚先生という方について知れば知るほどびっくりしています」と。

 昭和10年代、先生の憂国の建言に耳を傾けたのは、少数だった。しかし、その中には、政界を動かす巨頭・頭山満、憲政の大家・田川大吉郎、陸軍大将・宇垣一成、陸軍中将・林弥三吉、海軍大将・山本英輔、高級官僚・迫水久常の各氏などがいた。
 当時、大塚先生が示された炯眼は、昭和天皇の御心に深く通じるものでもあった、と私は思っている。中條高徳氏は「懼れ多い事ですが、大塚師の平和への思いは天皇の思し召しと全く同一だったのです」と大塚先生の著書への推薦文に書いている。激動の時代の生き証人の言葉に、私は改めてわが意を強くした次第である。

 昭和天皇は、独伊との三国同盟の締結に反対し、米英との戦争を回避することを強く願っていた。日本国民はこのことを思い出し、またこのことについて熟考すべきである。
 昭和天皇が自ら歩んだ時代を語った書が、『昭和天皇独白録』である。これは戦後、昭和21年3~4月に、昭和天皇が側近に語った言葉の記録である。それを読むと、昭和天皇が歴史の節目の多くの場合に、的確な判断をしていたことに、驚かされる。

 最も重要な事実は、天皇は米英に対する戦争に反対だったことである。しかし、本心は反対であっても、立憲君主である以上、政府の決定を拒否することができない。拒否することは、憲法を無視することになり、専制君主と変わらなくなってしまうからである。そこで、天皇は昭和16年9月6日の御前会議において、自分の意見を述べるのではなく、明治天皇の御製を読み上げたのだった。

 よもの海 みなはらからと 思ふ世に
  など波風の たちさわぐらむ
 
 これは対米英戦争の開始には反対である、戦争を回避するように、という昭和天皇の間接的な意思表示である。しかし、時の指導層は、この天皇の意思を黙殺して、無謀な戦争に突入した。結果は、大塚寛一先生が建白書で警告したとおり、新型爆弾が投下され、大都市は焦土と化して、わが国は未曾有の大敗を喫した。

 戦後、天皇は、『昭和天皇独白録』でこの戦争について、次のように述べている。戦争の原因は「第一次世界大戦後の平和条約の内容に伏在している」と。「日本の主張した人種平等案は列国の容認する処とならず、黄白の差別感は依然残存し加州移民拒否の如きは日本国民を憤慨させるに充分なものである。又青島還附を強いられたこと亦(また)然(しか)りである」と天皇は、長期的な背景があったことを指摘する。
昭和天皇はまた、わが国が大東亜戦争に敗れた原因について、自身の見解を明らかにしている。
 「敗戦の原因は四つあると思う。
第一、兵法の研究が不充分であったこと、即ち孫子の『敵を知り己を知れば、百戦危からず』という根本原理を体得していなかったこと。
 第ニ、余りに精神に重きを置き過ぎて科学の力を軽視したこと。
 第三、陸海軍の不一致。
 第四、常識ある首脳者の存在しなかった事。往年の山県(有朋)、大山(巌)、山本権兵衛という様な大人物に欠け、政戦両略の不充分の点が多く、且(かつ)軍の首脳者の多くは専門家であって部下統率の力量に欠け、所謂(いわゆる)下克上の状態を招いたこと」
 このように、天皇は敗因を分析している。的を射ていることばかりである。

 次回に続く。

参考資料
・『昭和天皇独白録』(文春文庫)
・中條高徳著『おじいちゃん、戦争のことを教えて』(致知出版社)


大東亜戦争は回避できた2

2007-12-10 09:39:45 | 日本精神
◆三国同盟と日本の進路

 話が後先になるが、20世紀の日本の運命を大きく左右したものに、日独伊三国軍事同盟がある。三国同盟は、昭和15年9月に締結された。これが米英に敵愾心を抱かせ、経済制裁を招き、遂にわが国は米ソの策略に引っかかって、無謀な戦争に突入してしまった。

 大塚寛一先生によると、実は世界的に見て、その前に重要な時期があった。昭和11年のスペイン動乱である。この内戦は、第2次大戦の前哨戦といわれ、英仏独伊ソの思惑が交錯した国際紛争でもあった。この時が、ヒトラーの行動をよく観察できる好機だった。大塚先生は、ここで彼の野望を見抜いてドイツと防共協定を結ばず、ソ連とは中立を厳守していれば、やがて欧州で英・ソ対ドイツの間で大戦が勃発し、これにアメリカも参戦する展開になっただろうと説いている。大戦になれば、米英は援蒋政策を行う余裕はないから、日本はシナ問題の早期解決に努めることができ、日中は共存共栄の道を進むことが可能となっただろう。

 次は、小室直樹氏が言っていることだが、シナ問題が解決すれば、日米摩擦の種はなくなったと考えられる。当時、重化学工業中心に転換する段階に入った日本は、大不況の後遺症で苦しむアメリカから、技術・機械・施設などを輸入すればよかった。経済的要請という点では、日米の利害は一致していたのである。

 かえすがえすも残念なのは、ヒトラーの術中にはまったわが国の指導者の無明である。もともと三国同盟を提唱したのはドイツだった。昭和14年9月にポーランドに侵攻したドイツは、大戦を有利に進めるために、イギリスを敵国とする日独伊ソ四ヶ国同盟を構想した。まずイタリアが賛同した。ソ連のスターリンも賛同の回答をしたが、領土問題で折り合わず、逆に独ソ戦に発展した。
 反対を押し切って三国同盟を強引に進めた松岡外相は、三国同盟を改編し、ソ連を加えた四国同盟とし、その圧力を背景にアメリカとの国交を正常化し、シナ問題も解決するという案を持っていた。しかし、彼の考えがアメリカに通用するはずはなかった。
 昭和天皇は三国同盟には反対しておられた。天皇は次のように語ったと伝えられる。「同盟論者の趣旨は、ソ連を抱きこんで、日独伊ソの同盟を以て英米に対抗し以て日本の対米発言権を有力ならしめんとするにあるが、一方独乙の方から云はすれば、以て米国の対独参戦を牽制防止せんとするにあったのである」と。

 ドイツが最も警戒していたのは、欧州戦線にアメリカが参入することである。そこで、アメリカを太平洋に釘付けにしておくために、日本の海軍力をけん制に利用しようとしたのだろう。さらに、戦況が不利になったときにも、日本を利用できると考えていたのではないではないか。
 昭和16年1月、広田弘毅は野村駐米大使の送別会で、次のように言ったという。「もし欧州戦争で、ドイツ側が不利となり、絶望的となった場合、ドイツは、自国の危機を脱するため、あらゆる手段を尽くして、日米を戦わしめるように動くだろう。この時こそ、日米戦争の起こる可能性があり、もっとも危険な時だ」と。6月22日、独ソ戦の火蓋が切られた。近衛文麿は、しばらくして「あのとき三国同盟を解消しておけばよかった」と後悔したという。広田も近衛も、それなりの見識を持っていながら、あいまいな行動をしたわけである。身体を張って軍部を抑えられる政治家が、いなくなっていた。

 この年、ロシアの冬は早かった。押し寄せる寒波に、ドイツ軍は苦戦した。12月に入ると間もなく、スターリンが反攻を開始した。この時、わが国の指導層は、的確な情報分析と冷静な外交判断ができず、米英との戦争に突入してしまった。ハル・ノート突きつけられた時の対応については、先に書いた。日本の参戦は、結果として、イギリスを叩き、アメリカを引き付けたことによって、ドイツに助力するものとなった。
 ヒトラーは翌年春、再びロシアに進撃した。しかし、欧州戦争の「関が原」となったスターリングラードの攻防は、ドイツの敗退となった。それが、ドイツの命運を分けた。わが国は、緒戦の電撃戦におけるドイツの勢いに幻惑され、ナポレオンも敗退した史実に深く学ばなかったわけである。

 私は、三国同盟は絶対締結すべきでなかったという考えである。しかし、締結してしまった以上は、米英とも同盟を結んで害悪を相殺して中立関係を築き、とりわけドイツへの加担というアメリカの懸念を晴らすのが、善後策だったと考える。これは、大塚先生の「不戦必勝・厳正中立」の大策の一部をなす独創的な建言による。こうすれば、アメリカは日本に石油を輸出してもドイツに回る恐れはないとして、輸出禁止は回避できただろうと思う。
 この善後策も採用されなかった場合は、次善の策として、独ソ戦の開戦時または遅くとも昭和16年11月26日のハル・ノート以後に、独ソ戦の展開を見極めて三国同盟を破棄すべきだったと思う。
 実際にわが国の政府がやったことは、正反対だった。日米開戦後、その同じ月に、三国単独不講和確約を結んだ。大戦の展開にかかわらず、日独伊は単独では講和を結ばないという約束である。昭和天皇は、次のように語ったと伝えられる。「三国単独不講和確約は、結果から見れば終始日本に害をなしたと思ふ」「この確約なくば日本が有利な地歩を占めた機会に和平の機運を掴むことがきたかも知れぬ」と。
 米英との開戦はまことに悔やむべきことだったが、戦争を始めた以上、今度はこれを有利に終結するのが、政治の役割である。しかし、わが国の指導層は、日露戦争の時の先人の貴重な功績に学ばず、善戦している間に講和の機会をつくるという努力をしなかった。まことに残念なことである。

 「覆水盆に帰らず」という。だが、歴史を振り返り、いろいろな道筋を考えてみることは、今日のわが国の進路を考える上で、思考を柔軟にする効果があると思う。

参考資料
・小室直樹+日下公人著『太平洋戦争、こうすれば勝てた』(講談社)
・『昭和天皇独白録』(文春文庫)

大東亜戦争は回避できた1

2007-12-09 09:58:32 | 日本精神
 私は、大塚寛一先生の「大東亜戦争は戦う必要がなかった」「日本には厳正中立・不戦必勝の道があった」という希有な歴史観を学んできた。そうはいっても、日米開戦は避けられなかったのではないか、どうすれば避け得たのか、という質問があろうことと思う。浅学非才ではあるが、現時点での私なりの考えを記しておきたいと思う。

◆ハル・ノートにどう対処すべきだったか

 昭和16年11月26日、ハル・ノートを突き付けられた時、日本の指導層はこれを最後通牒と解し、対米決戦へと歩を進めた。ポイントは、中国から撤退すべしという要求の範囲に満州を含むと受け留めたことである。しかし、ハル・ノートは満州を含むか否か明示していなかった。この点を問いただして、外交交渉を続ける余地があった。確認もしなかった日本の外交はずさんだった。
 昭和天皇は、最後まで対米開戦を望まず、外交による打開を求めておられた。指導層はその御心にどこまでも沿おうと考えるべきだったと思う。御心に背いて開戦を決定した東条の責任は大きい。
 近年、ハル・ノートの対応について傾聴すべき意見が出されている。まず小室直樹氏、日下公人氏の共著『太平洋戦争、こうすれば勝てた』(講談社、平成7年刊)から要点を引用する。

 小室: 戦争をしない方法の「一番簡単なのは、ハル・ノートを突き付けられた時に『はい、承知しました』って言ってしまえばよかった。そうすれば戦争をする必要は無かった」
 日下: 「実行はズルズル将来へ伸ばせばいいんだから」
 小室: 「ハル・ノートには日程はついていなかったんだから」。「国際法の無理解」のため「ハル・ノートを理解できなかったから日本は対米戦争に突入した」
 日下: 「ハル・ノートの内容を世界に公開すべきでした」

 両氏の意見をさらに推し進めているのが、片岡鉄哉氏である。片岡氏は、戦後日本外交史の国際的な権威として名高い。氏は概略、次のように述べている。(『アメリカに真珠湾を非難する資格はない!』 月刊誌『正論』平成11年10月号)
 「日本にとって勝つとは、戦争を回避することだった。そのために政府は手段を選んではならなかった。名誉ある不戦を求めて手段を選んではならなかった。‥‥日本政府は、その最後通牒の内容を暴露すべきだった。ルーズベルトが、ハワイの司令官にも、誰にも知らせないで、最後通牒を出した事実を暴露すべきであった。‥‥ルーズベルトは真珠湾攻撃を両院議員総会で発表して、メディア・イヴェントにしたが、あれくらいの派手なことをやって、誰が戦争を求めているのかを、全世界に印象付けるべきだった。…」

 実はハル・ノートを突き付けられた後、挑発に乗らず、あくまで戦争を避けるべきだという意見が、日本の指導層の一部にはあったのである。この時、ポイントは独ソ戦の情勢判断だった。ここで正確な情勢判断をしていれば、「不戦必勝」の道を進むことは可能だったと私は考える。再び小室氏・日下氏の共著から要点を引用する。

 日下: 「ハル・ノートが出た頃、ソ連に攻め込んでいたドイツ軍の進撃が、モスクワの前面50キロというところで停止したんです。そのことは、大本営もわかっている。ただ、大本営は『この冬が明けて来年春になれば、また攻撃再開でモスクワは落ちる』と考えていた。『本当に大本営はそう思っていたんですか』って瀬島さん(=龍三、元大本営参謀)に聞いたら、『思っていた』と。
 その頃、『これでドイツはもうダメだ』という駐在記者レポートが各地から来ていた。イギリスにいた吉田茂(大使、のちの首相)も、ダメだと見ていた。それなのに、ベルリンからのだけ信用した。そりゃあ、ベルリンの大島浩(大使)はヒットラーに懐柔されちゃっているから、いいことしかいわない。それを信じたのです。…
 瀬島さんに聞いたんです。『もしもドイツがこれでストップだと判断したら、それでも日本は12月8日の開戦をやりましたか』って。そうしたら『日下さん、絶対そんなことありません。私はあの時、大本営の参謀本部の作戦課にいたけれど、ドイツの勝利が前提でみんな浮き足立ったのであって、ドイツ・ストップと聞いたなら全員『やめ』です。それでも日本だけやると言う人なんかいません。その空気は、私はよく知っています』と」

 以下は私の推測である。わが国は、独ソ戦の戦況を冷静に見極めて、百害あって一利なき三国軍事同盟を破棄すべきだった。そして、泥沼に陥った中国本土や、欧米を刺激する仏印からは撤退するが、満州国は堅持するという方針で対米交渉を続けていけば、そのうち国際関係のバランスが崩れ、欧米列強が相打つ戦況が展開しただろうと思う。そして、わが国は、ルーズベルトの挑発やスターリンの思惑に乗らずに、無謀な対米開戦を避け得る道筋が開けたと思う。
 米内光政大将の言葉を借りれば、一時的に「ジリ貧」にはなっただろうが「ドカ貧」にならずに済み、やがてわが国は英米の信用を回復し、大塚先生の言われるように、満州や朝鮮・台湾を失うことなく、無傷のまま発展を続ける道を進むことが出来たと思う。今後、小室氏・日下氏・片岡氏に続く碩学が現われ、こうした推測を裏付け、また是正してくれるだろうと期待している。

 次回に続く。


大東亜戦争は戦う必要が無かった

2007-12-08 13:42:42 | 日本精神
 本日は66年前、大東亜戦争(アメリカのつけた名称は太平洋戦争)が開始された日である。この戦争の影響は今日なお大きい。日本の国を思う人は、誰しも大東亜戦争をどうとらえるべきかを考えるだろう。

 昭和前期、世界に戦雲がたれこめ、日本は軍部が台頭し戦争への道を進もうとしていた。私が生涯の師とし、また神とも仰ぐ大塚寛一先生は、当時、事態を深く憂慮し、戦争に反対する建白書を送付して、指導層の誤りを指摘した。
 しかし、時の指導者の多くは戦争の道を選び、昭和20年8月15日、未曾有の敗戦を喫した。当時のことについて大塚先生は、次のように語っている。

 「明治以後、日本は西洋の物質文化を模倣して、日本古来の精神文化を見失ってしまったのだ。ちょうど牛肉を食べたからといって牛になったり、豚肉を食べたからといって豚になったりするような愚かな真似をしてしまい、自己の本質を忘れてしまった。そしてヒトラーやムッソリー二等の覇道をまねた東条英機が、第二次大戦を起こしたために、建国以来はじめての敗戦を喫してしまったのである。
 その開戦に先立つ昭和14年9月以降のことだが、わしは上層指導者たちに警告を発しつづけた。それはこういうことである。いま日本の指導者は、ヒトラーやムッソリー二の尻馬に乗ってアジアで旗を上げようとしている。だが、それをやれば、大都会は焼きはらわれ、三千年来ないところの大敗を招くことになる。だから絶対にやってはならぬーーそういう意味のことを印刷物にして三千部ほどつくり、当時の閣僚から大政翼賛会の主だった人々、参謀本部の人々と陸海軍の少将以上に度々送付した。
 ところが、それらの人々はみんな熱に浮かされて、道を忘れてしまっているから、ほとんどの人は耳を貸そうとしない。そして、とうとう真珠湾攻撃を始めてしまった。その反動が戻って来て、最後には広島、長崎のあの悲惨な状態を招いたわけだが、それもつまりは国政をあずかる指導者が、神の道から外れてしまっていたからである」

 大塚先生は、指導者について次のように語っている。

 「物ごとをするには、今日にして百年の計を立て、戦いをするにも、居ながらにして千里の外に勝敗を決すべきものである。だが、それは心眼が開けて、はじめてなし得られることであって、肉眼や五感をもってしては、今日にして今日を看破することが不可能である。そのよい例が、先の大東亜戦争であった」
 「大東亜戦争は戦う必要がなかったし、戦えば負けることは最初から決まっていた。それはちょうど弓を放つのでも、矢が弦を離れるときすでに、当るか当らないかは決定している」

 大塚先生の心眼には、次のように、時の流れが映っていた。

 「すでに裏半球の欧米は、四季でたとえれば木枯が吹きはじめる季節であり、表半球のアジアの方は、春がおとずれ、発展期に遭遇する時である」と。

 そして、先生は、次のように語っている。

 「あの時、わしの言う通りに厳正中立を守っていれば、日本は一兵を失うこともなく、領土も縮めず、第三国からは敬われ、いまは米ソをしのぐほどの立派な国になっていたにちがいない」と。

 大塚先生の建白書は、「不戦必勝・厳正中立の大策」を説くものだった。わずかながら、先生の建言に耳を傾けた人々もいた。政界を動かす巨頭・頭山満、憲政の大家・田川大吉郎、陸軍大将・宇垣一成、陸軍中将・林弥三吉、海軍大将・山本英輔、高級官僚・迫水久常の各氏などである。
 しかし、東条英機ら指導層の多くは建言を受け入れず、日本は神の道から外れてしまった。誠に残念なことである。日本はこの失敗を教訓として二度と道を誤ってはならない。

 戦後、大塚寛一先生は、国民大衆に神の道を広め、真の世界平和の実現をめざす運動を行った。それが、「真の日本精神」を伝える運動である。私は、縁あって大塚先生の活動を知り、日本精神の重要性を学ぶことができた。
大東亜戦争開戦66年の日に、改めて同胞同憂の方々に、日本精神の復興を呼びかけたい。

●大塚寛一先生の著書『真の日本精神が世界を救う~百ガン撲滅の理論と実証』(イースト・プレス)への推薦文

『憂国の士の指針』

社団法人日本国際青年文化協会会長 中條高氏

 今を遡る四十年程前、大塚一師が「全世界人類存亡の岐路に立つ重大時期に遭遇する」と預言され「日本精神復興促進会」を創立されたことを知り驚いています。
 人類の営む地球上は全く大塚師の預言通りの実相を呈しています。
 地球上の人類破滅という危険をはらむ原子核の課題についても、持てる国と、持たざる国との調整能力すら喪われている恐るべき現状にあります。広島・長崎で全人類の中では唯一被爆体験を持つ民族として、地球上の全人類に、とりわけ持てる国々にその責任を問う義務があります。この日本国の、日本民族の発信をまともに受け取ってもらうためには、我々自身が輝いていなければなりません。
 凛として生きていて、尊敬される民族であってこそ、その発言は注目され、その主張がしみ込んでいく事は自明の理であります。
 その様な全人類に対する重要な役割を担うわが国の現状をみますと情けないの一語に尽きます。
 四十年程前の大塚師の「日本精神復興促進会」を創立されたご慧眼とご熱情に今更の如く深い尊敬と驚きを抱かざるをえません。
 それどころではありません、大塚師の驚くべきご慧眼は、わが民族の大偉業であった日露戦争に事寄せて、はびこってきた軍隊の跳梁に対して、昭和十四年頃、積極的に厳正中立、戦争回避、不戦必勝を叫ばれ「大日本精神」と名づけた建白書を国家中枢に送り続けられた事実であります。
 不戦を唱えただけで憲兵に注目される程の時代です。
 それから間もなく、わが国は対米英戦争の決意をしました。その国家最高作戦会議の席上、天皇が、「四方の海みな同胞と思う世になど波風のたちさわぐらむ」と明治天皇の平和を望まれる御製を二度もお詠みになったのです。立憲君主制において、天皇に許された最大の平和へのご意志と受け取らねばなりません。大塚師はこの事実を果たしてご存知だったのでしょうか。
 懼れ多い事ですが、大塚師の平和への思いは天皇の思し召しと全く同一だったのです。
 しかし、日本の辿った歴史は、この大塚師のような冷静な判断は全く機能せず、大戦争に突入しました。連合軍は昭和二十年、ヤルタ会談でソ連をも加担させて参りました。
 そしてわが国は力尽き破局を迎えたのです。大塚師がまさに予測されたような破滅的な敗北でありました。
 日本はどん底から勝組に追いつき、追い越せと汗を流しました。着るに衣なく、食するに米なき状態でありました。その最中、冷戦構造つまり米ソ対立の緊張が生まれてきました。
 わが国はその対立のはざまに横たわったのです。
 これを「地政学的優勢」と呼びます。
 誰の努力にもよるものではないのに、このような優勢な地歩を占める日本国に筆者は強く「神の国」を感じました。
 その背景と国民の汗によって、わが国は世界で最も豊かな国になりえました。それなのに、大塚師が戦前預言されたように、日本人は稼いだ富を代償に「日本精神」をどんどん喪ってしまいました。
 親が子を、先生が生徒を、教室で女生徒が友達を殺し、関わりのない子供を屋上から投げ落として殺すなど考えられないような事件が頻発しています。
 言葉乱れ、礼儀すたれ、道義全く地に堕ちたのです。大塚師はこのような事態の到来を夙に予測され「日本精神復興促進運動」を叫ばれておられました。
 日本のこの憂うべき現状を救うものは教育を措いて他にないと信じている筆者にとって、この度の大塚師の著作の三十数年振りの改訂版の出版ほど力強いものはありません。憂国の士、特に若い人達の必読の書と云うべきでしょう。

関連掲示
・大東亜戦争と近代日本のあゆみに関する拙稿
http://khosokawa.sakura.ne.jp/j-mind06.htm

学力回復は、理数より国語から

2007-12-06 12:46:04 | 教育
 昨日書いた経済協力開発機構(OECD)の国際学力調査で、日本の学力低下が顕著に示された。理数系の学力低下に危機感を表す報道が目に付いたが、本当に深刻なのは、読解力の低下である。この点を、本日の産経新聞の「主張」(社説)に当たる。実際、科学が6位、数学が10位であるのに対し、読解力は15位と最も低い。
 私は試験問題を見ていないので、詳細は分からないが、その読解力の問題は、文章だけでなく、グラフや図表など資料から情報を読み取り、自分の考えや意見を述べる力を問うものだという。ということは、理解力・思考力・表現力を測るものだろう。こうした能力は、意味を読み取り、意味を構成し、意味を伝える能力である。単なる機械的な処理の訓練や、知識の集積では、意味の理解・思考・表現は養成されない。

 私は、現代の日本の教育は、この点も著しく弱体化していると思う。その根本には、国語教育の軽視があると思う。私は学力の基礎は、国語力だと思う。人の話を聴き、それを理解し、自分の考えをまとめ、それを語って人に伝える。また人の書いたものを読み、それを理解し、自分の考えをまとめ、それを書いて人に伝える。こういう行為を通じて国語力が養われないと、ものごとを理解し、考え、表現し、伝達することはうまくできない。それとともに、自分について考え、自分というものを理解し、自分を他者に伝えることもうまくできない。すなわち、コミュニケーションと人格形成の基礎となるのが、国語力である。
 数学や理科の教科書にしても、国語で書かれた説明を理解できなければ、数理やもの仕組みを理解し、知識を得ることはできない。数学や理科の試験問題にしても、国語で書かれた問題文を理解できなければ、問題を解くことはできない。教師が数学や理科の説明をするのも、国語で行う。ほかの教科も同じである。国語力が養成されないと、学力は全般的に向上しないのである。
 外国語にしても同じである。外国語の学習において、簡単な日常会話、旅行会話を練習するレベルは外国語だけでやったほうが身につく。しかし、外国語でものを考え、外国語で得た知識をもとに表現しようとすると、自国語の国語力がないと、あるレベルから以上には、力がつかない。母国語でさえ、論理的な思考・表現ができない人が、外国語で同等のことをするのは、難しい。小学校から学校の授業で英語教育をすることになったが、私はその必要はないと思う。まず国語力をしっかり身につけることが先である。国語力を養成しておけば、外国語は後からやっても、力がつく。国語力が身についていないと、外国語だけ習得しようとしても、限界がある。
 OECDの試験結果が明らかにした読解力の弱さを回復・向上するには、国語教育の充実をと強調したい。
 以下は、産経の当該記事。

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●産経新聞

http://sankei.jp.msn.com/life/education/071206/edc0712060249000-n1.htm
【主張】国際学力調査 読解力向上が喫緊の課題
2007.12.6 02:49

 57カ国・地域の15歳を対象にした経済協力開発機構(OECD)の国際学力調査(PISA)で、日本の学力低下がまた裏付けられた。特に読解力不足は深刻な課題だ。
 3年ごとに行われるこの調査は、解答理由を記述式で答えさせる問題が多く、「ゆとり教育」で育てようとした考える力や知識を活用する力が試されている。
 科学、数学、読解力のうち、前回は、数学が世界トップから陥落するなど、ゆとり教育の弊害が目に見える形で表れ、ゆとり見直しにかじを切るきっかけになった。
 日本は高校1年生が対象で、今回は学校現場で学力向上の取り組みが始まるなかで行われた。しかし、前々回、前回からの日本の成績の推移は、科学(2→2→6位)、数学(1→6→10位)、読解力(8→14→15位)と、今回もまた順位を下げた。
 なかでも読解力は韓国、フィンランドなど上位と大きな開きがある。
 PISAの読解力の試験問題は、文章だけでなく、グラフや図表など資料から情報を読み取り、自分の考えや意見を述べる力を問うものだ。こうした力は、数学など他の教科にも欠かせず、低下傾向が憂慮される。
 これまで日本の学校の国語の授業は、小説など文学作品の主人公の気持ちを読み取ることなどに時間が割かれがちで、教師の独り善がりの授業の弊害が指摘されてきた。
 別の学力調査でも、感想を自由に書くことはできているものの、説明文を読んで要旨を相手に伝えるなど、条件に沿って書くことは苦手とする傾向がでている。結果を受け止め、国語力や読解力の向上を目指して指導の改善に取り組んでほしい。
 韓国や台湾が上位に顔を出す一方、学力の高さを誇っていた日本は胸を張れなくなっている。にもかかわらず文科省は、数学、科学は上位グループだとし、危機感が薄い。OECDがこうした調査を実施するのも、学力が経済力や国力に反映されるからだ。
 調査では、科学への興味・関心や楽しさを感じる生徒の割合が他国に比べて低いことも明らかになった。ゲームなどに囲まれ、子供たちの読書量や体験不足が懸念される。考える力を養う教育が真剣に検討されるべきだ。
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