ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

ナチス迎合を批判した日本人1

2007-12-14 10:58:49 | 日本精神
 昭和10年代のわが国の指導層は、昭和天皇の御心に応ええず、また大塚先生の「大日本精神」と題した建白書を深く理解し得なかった。その大きな原因は、国家指導層が本来の日本精神を見失い、欧米思想、とりわけ独伊のファシズムの影響を受けたことにあると私は考えている。この点は、国際情勢を論じているのではなく、日本人の精神を述べているものである。
 このように考える理由の一つに、当時の神道家の中に、政府・軍部のナチス迎合を批判した人物がいたことがある。日本の固有の宗教は、神道である。それゆえ、神道には、日本人の心性がよく表れている。神道は「清き明き直き心」を理想としている。また闘争的・対立的でなく、共存調和をよしとする。昭和戦前期のわが国では、神道は政府の国策の一部となり、文部省の教学局が作った思想が国民に教育された。その思想は、国民を陸軍が主導する戦争政策に動員することに貢献した。しかし、在野の神道家には、政府の思想教育に疑問を持ち、ファッショ的な政策を批判する者がいた。私は、こちらの方に、日本人の心性の表れを強く感じるのである。

 戦後、神道は大きな誤解を受けていたが、近年こうした神道の本質が正しく理解されるようになってきた。今では、海外でも神道が注目されつつある。戦後、神道の評価回復に貢献した人物の一人が、葦津珍彦(あしづ・うずひこ)である。私が政府・軍部のナチス迎合を批判した神道家というのは、葦津のことである。

 葦津は神道の理論家として知られる。彼は生涯、西郷隆盛と頭山満を尊敬した。西郷隆盛のことは、日本人なら誰でも知っている。内村鑑三が英文の著書『代表的日本人』の第一に書いたのも、西郷だった。西郷は「敬天愛人」の精神を持って、私利私欲を超え、誠をもって公に奉じる生き方を貫いた。
 頭山満は、こうした西郷の精神を受け継いだ人物だった。彼は戦前の日本において、国家社会のために生きる在野の巨人として、広く敬愛を受け、「昭和の西郷さん」と呼ばれるほど、国民的な人気があった。頭山は晩年、大塚寛一先生の見識に対し、深く敬意を表した。頭山は、大塚先生に「もう少し早くあなたと出会っていれば、この戦争は起こさせなかったのに」と悔いたという。
 葦津珍彦と頭山の縁は深く、葦津の父・耕次郎が大正時代、東京赤坂の霊南坂に住み、隣家の頭山と親交を結んでいたのが始まりである。その関係で、葦津は「少年時代から、頭山先生を絶世の英雄と信じ仰いできた者であって、ひそかに頭山門下をもって自任してきたものである」と書いている。そして、葦津は、頭山を通じて、西郷の「敬天愛人」の精神を、現代に受け継いだ人物だった。

 さて、戦前の日本は、ヒトラーのドイツ等と軍事同盟を結び、そのため国の進路を大きく誤りまった。当時、葦津は、神道家の立場から、親独路線に強く反対した。ゲルマン民族の優秀性を説き人種差別を行うナチスの思想は、我が国の精神とは相容れないと論じたのである。
 葦津は、戦前の我が国の歴史について、著書『明治維新と東洋の解放』にて次のように書いている。
 「大東亜戦争は、文字通りの総力戦であり、日本人のあらゆる力を総動員して戦われた。……日本国をして『東洋における欧州的一新帝国』たらしめたいとの明治以来の征服者的帝国主義の精神が、この大戦の中で猛威を逞しくしたのも事実である。それは同盟国ドイツのゲルマン的世界新秩序論に共感した。しかし日本人の中に、ゲルマン的権力主義に反発し、あくまでも、日本的道義の文化伝統を固執してやまない精神が、根づよく生きていたのも事実であった。
 日本人の中にあっても、概していえば政府や軍の意識を支配したものが主としてナチス型の精神であり、権力に遠い一般国民の意識の底にひそむものが、日本的道義思想であったということもできるであろう」

 次回に続く。