ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

昭和天皇は同盟・開戦に反対1

2007-12-11 10:20:57 | 日本精神
 「大東亜戦争は戦う必要が無かった」「大東亜戦争は回避できた」と書いてきた。戦って大敗するのでなく、戦わずに滅ぶのでもなく、日本が進むべきは「不戦必勝・厳正中立」の道であるというのが、大塚寛一先生の独創的な建策だった。
 アサヒビール名誉顧問・中條高徳氏は、平成18年3月11日埼玉県川口市で行なった「明けゆく世界フォーラム」の基調講演で、次のように語った。「私は職業軍人の道を歩み、敗戦時、19歳でしたが、わが国は、私の友人が3人気が狂ったほどの価値の転換を経験しました。大塚先生はそうした国の行く末を見通していました。大塚先生という方について知れば知るほどびっくりしています」と。

 昭和10年代、先生の憂国の建言に耳を傾けたのは、少数だった。しかし、その中には、政界を動かす巨頭・頭山満、憲政の大家・田川大吉郎、陸軍大将・宇垣一成、陸軍中将・林弥三吉、海軍大将・山本英輔、高級官僚・迫水久常の各氏などがいた。
 当時、大塚先生が示された炯眼は、昭和天皇の御心に深く通じるものでもあった、と私は思っている。中條高徳氏は「懼れ多い事ですが、大塚師の平和への思いは天皇の思し召しと全く同一だったのです」と大塚先生の著書への推薦文に書いている。激動の時代の生き証人の言葉に、私は改めてわが意を強くした次第である。

 昭和天皇は、独伊との三国同盟の締結に反対し、米英との戦争を回避することを強く願っていた。日本国民はこのことを思い出し、またこのことについて熟考すべきである。
 昭和天皇が自ら歩んだ時代を語った書が、『昭和天皇独白録』である。これは戦後、昭和21年3~4月に、昭和天皇が側近に語った言葉の記録である。それを読むと、昭和天皇が歴史の節目の多くの場合に、的確な判断をしていたことに、驚かされる。

 最も重要な事実は、天皇は米英に対する戦争に反対だったことである。しかし、本心は反対であっても、立憲君主である以上、政府の決定を拒否することができない。拒否することは、憲法を無視することになり、専制君主と変わらなくなってしまうからである。そこで、天皇は昭和16年9月6日の御前会議において、自分の意見を述べるのではなく、明治天皇の御製を読み上げたのだった。

 よもの海 みなはらからと 思ふ世に
  など波風の たちさわぐらむ
 
 これは対米英戦争の開始には反対である、戦争を回避するように、という昭和天皇の間接的な意思表示である。しかし、時の指導層は、この天皇の意思を黙殺して、無謀な戦争に突入した。結果は、大塚寛一先生が建白書で警告したとおり、新型爆弾が投下され、大都市は焦土と化して、わが国は未曾有の大敗を喫した。

 戦後、天皇は、『昭和天皇独白録』でこの戦争について、次のように述べている。戦争の原因は「第一次世界大戦後の平和条約の内容に伏在している」と。「日本の主張した人種平等案は列国の容認する処とならず、黄白の差別感は依然残存し加州移民拒否の如きは日本国民を憤慨させるに充分なものである。又青島還附を強いられたこと亦(また)然(しか)りである」と天皇は、長期的な背景があったことを指摘する。
昭和天皇はまた、わが国が大東亜戦争に敗れた原因について、自身の見解を明らかにしている。
 「敗戦の原因は四つあると思う。
第一、兵法の研究が不充分であったこと、即ち孫子の『敵を知り己を知れば、百戦危からず』という根本原理を体得していなかったこと。
 第ニ、余りに精神に重きを置き過ぎて科学の力を軽視したこと。
 第三、陸海軍の不一致。
 第四、常識ある首脳者の存在しなかった事。往年の山県(有朋)、大山(巌)、山本権兵衛という様な大人物に欠け、政戦両略の不充分の点が多く、且(かつ)軍の首脳者の多くは専門家であって部下統率の力量に欠け、所謂(いわゆる)下克上の状態を招いたこと」
 このように、天皇は敗因を分析している。的を射ていることばかりである。

 次回に続く。

参考資料
・『昭和天皇独白録』(文春文庫)
・中條高徳著『おじいちゃん、戦争のことを教えて』(致知出版社)