ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

昭和天皇は同盟・開戦に反対3

2007-12-13 09:25:43 | 日本精神
 昭和16年11月31日、天皇は高松宮に、開戦すれば「敗けはせぬかと思う」と語った。高松宮が「それなら今止めてはどうか」とたずねるので、天皇は次のように語ったという。「私は立憲国の君主としては、政府と統帥部との一致した意見は認めなければならぬ。もし認めなければ、東条は辞職し、大きなクーデタが起こり、かえって滅茶苦茶な戦争論が支配的になるであろうと思い、戦争を止める事については、返事をしなかった」と。
 同じ趣旨のことを、天皇は繰り返し語っている。「陸海軍の兵力の極度に弱った終戦の時においてすら、降伏に対しクーデタ様のものが起こった位だから、もし開戦の閣議決定に対し私がベトー(拒否)を行ったとしたならば、一体どうなったであろうか。(略)私が若(も)し開戦の決定に対してベトーをしたとしよう。国内は必ず大内乱となり、私は信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証できない。それは良いとしても結局、強暴な戦争が展開され、今次の戦争に数倍する悲惨事が行われ、果ては終戦も出来かねる結末となり、日本は亡びる事になったであろうと思う」と。
 昭和16年12月1日、御前会議で遂に対米英戦争の開戦が決定された。天皇は「その時は反対しても無駄だと思ったから、一言も言わなかった」と、『独白録』で語っている。
なぜ天皇は開戦を止め得なかったか、その答えを天皇自身は上記のように語っているのである。5・15事件、2・26事件では、首相らの重臣が殺傷された。終戦時にも、玉音放送を阻止しようと一部の兵士が反乱を起こした。天皇の懸念は切実なものだったことがわかる。

 では、開戦後、早い時期に戦争を終結させることは出来なかったのか。ここで再び三国同盟が拘わってくるのである。日本は12月8日、米英と開戦するや3日後の11日に、三国単独不講和確約を結んだ。同盟関係にある日独伊は、自国が戦争でどのような状況にあっても、単独では連合国と講和を結ばないという約束である。ここでわが国は、ドイツ、イタリアとまさに一蓮托生(いちれんたくしょう)の道を選んだことになる。昭和天皇は、このことに関し、『独白録』で次のように述べている。
 「三国同盟は15年9月に成立したが、その後16年12月、日米開戦後できた三国単独不講和確約は、結果から見れば終始日本に害をなしたと思ふ」
「この確約なくば、日本が有利な地歩を占めた機会に、和平の機運を掴(つか)むことがきたかも知れぬ」と。
 なんとわが国は、戦局が有利なうちに外交で講和を図るという手段を、自ら禁じていたのである。ヒトラーの謀略にだまされ、利用されるばかりの愚かな選択だった。ここでも天皇に仕える政治家や軍人が、大きな失策を積み重ね、国の進路を誤ったことが、歴然と浮かび上がってくるのである。

 昭和10年代の日本の指導層は、欧米思想の影響を受け、とりわけ独伊のファシズムに幻惑されていた。その姿を見た大塚寛一先生は、彼らは本来の日本精神を失っていることを看破し、国の進路に関し、警告と建言を繰り返したのだった。昭和天皇の御心に真摯に応えようとする者が指導層に多くいたならば、大塚先生の建白書への対応も大きく変わっていただろう。
 なぜ当時の指導層は、天皇の御心に応ええず、また大塚先生の「大日本精神」と題した建白書を深く理解し得なかったのか。私は、国家指導層が本来の日本精神を見失い、欧米思想、とりわけ独伊のファシズムの影響を受けたことが、大きな原因だったと考えている。

参考資料
・『昭和天皇独白録』(文春文庫)
・山本七平著『昭和天皇の研究』(祥伝社)