ほそかわ・かずひこの BLOG

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西欧発の文明と人類の歴史44

2008-07-22 14:24:39 | 歴史
●科学革命と産業革命の合体

 比較文明学者で科学史家の伊東俊太郎氏は、「世界の近代化に決定的な役割を果たしたのは、近代科学とそれに基づく産業技術であり、結局それを生み出した『科学革命』である」「実に『科学革命』による近代科学の形成・確立こそ、世界史における西欧の優位の真の起源なのである」と述べている。
 科学史家の観点からはこういう見方が出るわけだが、私は、近代西欧科学は産業革命と結びつくことによってはじめて、巨大な威力を発揮するようになったことを主張したい。西欧は中世から16世紀までは、先進的なイスラム文明やシナ文明より、科学の分野でも遅れていた。その後進的なヨーロッパで、17世紀に「科学革命」が起こった。
 起こったといっても、西欧の近代科学は当初、イスラムやシナの科学と大差なかった。世界観や価値観の違いにより、自然の認識や研究の方法・態度が異なる程度だった。ガリレオの実験、デカルトの数理的方法論、ベーコンの帰納法、ニュートンの機械論等、後から見れば画期的な展開となったが、もし西欧に産業革命が起こっていなければ、どれほどの影響力を持つにいたったか、わからない。

 科学革命はイギリスを中心に展開された。1660年に王立協会(ロイヤル・ソサエティ)が設立され、国王が科学認識を深めるための活動を奨励した。しかし、産業革命前のイギリスは、インドからやってくる木綿に圧倒される程度の国家でしかなかった。西欧的な近代西欧科学のもつ潜在力が現実化されるには、18世紀後半からの産業革命を待たねばならなかった。
 西欧文明と他の文明の最大の違いは、西欧では、近代科学の知識を生産技術に応用し得る生産関係が生まれていたことにある。すなわち、資本主義的な経営、目的合理的な産業経営である。近代資本主義による物質的生産力の前に、非西欧諸国は屈服したのである。
 さらに産業資本の生産力と近代主権国家の権力とが結びついたことによって、西欧諸国は強大な力を持った。科学技術と資本の経営体と近代国家の官僚制、これらに共通するものは合理性である。思想や組織等の全般的な合理化が、ものと人に対するかつてない支配力を生み出した。生活全般の合理化としての近代化が、イギリスを初めとする西欧諸国に、他の文明を圧倒する力をもたらした。

 近代西洋文明は、産業革命を成し遂げた結果、資本主義的経営、近代国家、科学技術等が一つに結合して、人類史上かつてない圧倒的な力を生み出した。そして、西欧発の文明が西地球のほとんど全表面を支配下に置くまでになった。産業革命によって、近代世界システムによる中心―半周辺―周辺の三層構造は、地球規模に拡大していった。19世紀後半には、世界各地の文明が近代西洋文明の「周辺文明」と化すがごとき状態となった。

 インド文明は、1820年代後、産業革命を経たイギリス木綿が流入し、綿工業が壊滅に近い打撃を受け、白人の植民地と化した。シナ文明は、アヘン戦争・アロー戦争以後、欧米列強が進出し、利権をほしいままにした。イスラム文明は、18世紀末以後、オスマン=トルコの衰退に乗じて、中東・バルカン地域にイギリス・フランス・ロシア・オーストリア等のヨーロッパ列強が進出し、19世紀後半までには植民地化された。
 ラテン・アメリカは19世紀前半に独立したものの、資本主義の垂直的分業体制の不可欠の部分として、西洋文明の下層に組み込まれていた。ラテン・アメリカの「低開発の発展」は、三層構造における下層化であり、下層的分業体制の展開ととらえるとよいと思う。
 アフリカは、1880年代から急速に植民地化が進んだ。アジアの大部分が西欧諸国の植民地・半植民地となった。イスラム文明、インド文明、シナ文明が、近代西洋文明の周辺文明に転落した。残ったのは、日本文明とタイだけだった。
 これらの過程については、後にイギリス資本主義と帝国主義政策のところで具体的に触れる。

 次回に続く。

■追記

 本項を含む拙稿「西欧発の文明と人類の歴史」は、下記に掲示しています。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion09e.htm

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