ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

3・11中條高徳氏らとのパネル2

2006-03-24 08:56:02 | 教育
 前回の続き。話は憲法から教育基本法へと展開する。

【司会】 教育基本法については、どうか。

【細川】 教育基本法が戦後の教育の枠組みを決めてきた。教育基本法には、日本国憲法の精神を実現するものという前文が付けられている。もとにある憲法がゆがんでいれば、教育基本法の方もゆがむ。
 憲法の前文には、日本の国はどういう伝統や歴史を持っているのか、日本国民はどういう由来を持っている国民なのかということが、何も書いていない。戦争を起こして、他国に迷惑をかけた、二度といたしませんといった、わび証文のようなものになっている。
 だから、教育基本法にも、日本の伝統・文化・歴史を学ぶことが十分盛られていない。 まず欠けているのが愛国心である。国を愛する精神が育っていかないような内容になっている。公共心や伝統の尊重も盛られていない。
 現在の基本法のまま、教育を続けていけば、日本人の精神が低下していくのは火を見るより明らかだ。きちんと改正して、子弟を健やかに育てていけるものに作り直さないと、ますます日本は大変なことになる。

【勝岡】 教育勅語がなくなって、教育基本法になっていったのか、長らく分からなかった。占領終了後、二十五年か三十年くらいたって、占領文書をアメリカが公開した。それで、初めて当時の状況が明らかになった。
 私は戦後の生まれだが、戦後は素晴らしい、民主主義は素晴らしいというものの見方しか教わっていない。ところが疑問を持って調べてみると、占領軍がいろいろ工作し、占領軍の手のひらの上で操られていたことが分かってきた。担当は、CIE(民間情報教育局)だった。教育と情報がセットになっていた。
占領軍のやり方を見ると、大東亜戦争になぜ至らなければならなかったのかという情報を、検閲で徹底的に削除させた。電話盗聴、私信の開封、新聞、雑誌、ラジオ、映画等、当時のありとあらゆるところに検閲の目を張り巡らせて、都合の悪いことを一切除去させた後に、プロパガンダとして、民主主義は素晴らしいと思い込まされた。そこには、二度とアメリカに立ち向かわせないように、精神的な武装解除をするという、目的があった。

【司会】 これからの教育基本法はどうあるべきか。

【勝岡】 教育基本法は法律だ。法律には、法律としての限界がある。教育勅語が悪かったからそれを否定して教育基本法がある、といまだに教育学会で定説のようになっているが、これは間違いだ。
 教育勅語は、戦前世代には、倫理観・道徳観のバックボーンとして、ゆるぎないものだった。教育勅語は道徳を説いたもの、教育基本法は法律だから性質が違う。
 道徳は、人間の内面に働きかけて、自分の行動を正したり、他人の悪いところを見ればそれを正すもの。法律は、社会的なルールに対する外面的な権力作用。だから、道徳と法律では、働きが違う。
 教育基本法ができた当時は、教育勅語があった。その両方でやろうと思っていたら、教育基本法ができた後、占領軍が指令でもって教育勅語を強制的に排除させた。基本法ができた一年後の昭和二十三年のことだ。

【中條】 憲法は国家の基本法、不磨の大典だ。しかし、最高法規といえども国民のためにある。憲法のために国民が不利益を受けているときは、変える勇気の方が正しい。
 だから、昭和三十年に保守が合同して、自民党が誕生した。占領下でつくられた憲法のままでいるのは、日本人として恥ずかしい。自民党の綱領の第一は憲法改正だったのに、それを怠って、今日に及んでいる。
 教育基本法も最初は日本人がつくっていたが、占領軍が間に入ってきた。法律は、すべて憲法がもとだ。個の尊重も人権の尊厳も、隣の人を認めてはじめて成り立つ。この隣の人を公という。個と公とバランスが大切だ。一番の課題は、教育基本法はこの点を欠いていることだ。なぜ、昭和二十七年から直さなかったのか、この怠慢が問われる。
 生んだ親と生まれた子では、個の尊厳、人権の尊さでは全くイコールだ。しかし、産んだ親と産んでいただいた子は、永久に追いつけない価値の差がある。それを、同等だ、同等だと言うのは、間違いだ。学校では、教える先生と教わる生徒に差が大きければ大きいほど、先生の教えが染み込む。

 次回に続く。

参考資料
・拙文「教育基本法を改正しよう」
http://homepage2.nifty.com/khosokawa/opinion02b.htm
・拙文「教育勅語を復権しよう」
http://homepage2.nifty.com/khosokawa/opinion02c.htm

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