ほそかわ・かずひこの BLOG

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キリスト教148~ブルトマン:聖書の非神話化と実存論的解釈を提唱

2019-01-17 09:32:29 | 心と宗教
●ブルトマン~聖書の非神話化と実存論的解釈を提唱

 ルドルフ・ブルトマンは、1884年にドイツに生まれたルター派の神学者、聖書学者である。ブルトマンは、1976年に死去した。同年、ハイデッガーも死去した。
 ブルトマンは、新約聖書の研究に様式史的方法を導入し、1921年に刊行した『共観福音書伝承史』において、その研究成果を著した。
 ブルトマンは、共観福音書を文体によって分類し、一つ一つの材料を歴史的・批判的に調べて、個々の語録が伝えられ方に一定の法則を設定した。そうした作業の上に福音書の成立過程を追求した。彼によると、福音書の最古の層は歴史的人物としてのイエスの言葉を伝えてはいるが、福音書家の関心はイエスを救い主と信じる集団の信仰告白にあった。原始キリスト教団は、宣教すべきこと(ケリュグマ)を、一定の型に当てはめた。そのため、福音書におけるイエスの言動・事績と彼らの信仰を区別することはできない。原始キリスト教団は、イエスを「神の子」「メシア」などと呼び、事績に復活と昇天を加えた。これらのことが実際に起ったかどうかは、知りえない。またそれを知ろうとすることも重要ではない。重要なのは、原始キリスト教団の宣教の内容なのだ、とブルトマンは説いた。
 第2次世界大戦中の1941年、ブルトマンは『新約聖書的宣教の非神話化の問題』と題する講演を行った。ここで、彼は、新約聖書の内容の正しい解釈と伝達のために非神話化が必要だと説いた。以後、非神話化はキリスト教神学における議論の焦点となった。
 ブルトマンによると、新約聖書は、世界を天界・大地・地獄の三層に分ける神話的な世界観を示し、人々は天界には神と天使がおり、地獄は苦悩の場所であり、その中間の大地に神・天使・サタン等が介入してくると考えている。このような神話的な世界観は、科学が発達する前の過去の時代のものであり、現代の人間がそのまま信じることはできない。イエス=キリストの処女降誕は、彼を崇拝する者がつくった神話的な物語であり、奇跡も復活も終末も同様である。これらをそのまま受容するように求めることは「知性の犠牲」を強いることである。
 そこで、新約聖書は神話的な世界観に依拠しない真理を持っているのかどうかが問題になる。もしそのような真理があるとすれば、キリスト教の宣教を非神話化することが神学の課題となる。現代人に宣教するためには、新約聖書の神話的な表現の奥にある真理を発見しなければならない。それはどのようにすれば可能になるか。「実存論的解釈」によって可能になる、とブルトマンは主張する。
 ブルトマンは言う。「われわれは電燈やラジオを使用すること、現代的方法や治療で養生することと同時に、新約聖書の精神と奇蹟の世界を信じることはもはやできない」「神話の本来の意味はこの世における客観的形象を表すことではなく、むしろそこに言い表されるものは、人間がこの世の中でみずからを理解する方法である。神話は宇宙論的方法ではなく、人間学的方法あるいはむしろ実存的に解釈されることを欲する」と。
 ブルトマンは、自由主義神学者が新約聖書の内容を分解して神話として捨て去ったテキストを再解釈する。それによって、聖書の根本的な使信を回復させようとする。新約聖書は人間の実存の意味を提示している。新約聖書から聞き取らねばならないのは、人間の実存の正しい理解である。ここで聖書の実存論的解釈のために、ブルトマンが依拠するのが、ハイデッガーの哲学である。ブルトマンは、『存在と時間』における現存在の実存論的解釈を以て、新約聖書に真理を見出そうとした。
 だが、ハイデッガーは『存在と時間』以後、大きく立場を転回した。転回後のハイデッガーは、「存在の家」である言葉の中に存在を探究した。ブルトマンは、ハイデッガー自身が乗り越えた前期思想に立ち止まり、その思想を借りて聖書を理解しようとするのである。
 このようなブルトマンの姿勢に共感する人が今日、どれくらいいるだろうか。ハイデッガーの前期思想は、1920~40年代のドイツでは一定の影響力を持ったが、今日それを自分の思想・信条としている人は、ごく少ない。また、ハイデッガーの哲学を深く理解する人は、彼の後期思想の問題意識を共有し、独自の思索を行うだろう。
 それゆえ、ブルトマンは、新約聖書の非神話化を行ったことによって、人々を実存的な自覚を持って新約聖書の真理の探究に向かわせたというより、むしろ人々のキリスト教離れを促すことになったという結果の方が大きいといえよう。
 ブルトマンは、新約聖書が記したようにすぐキリストの再臨は起らず、世界史がこれまで継続してきたことによって、再臨の待望は幻想にすぎないことが明らかになっており、神話的な終末論は終結している、と言う。新約聖書の将来についての表現は、非神話化されてこそ、今日の人間にとって実存的な意味を持つ、と説く。それゆえ、ブルトマンの神学には、終末論な将来はない。ただ、今ここにおける決断の時のみが存続している。死後や将来に救いは、想定されていない。
キリスト教を護教する弁証法神学者バルトは、ブルトマンの新約聖書の理解は実存的な自己理解の行為だという考えを批判した。バルトにとって、ブルトマンの態度は人間中心主義的であり、神学を人間学に変えるものである。また聖書の理解において、ハイデッガーの前期思想、その実存哲学に依拠する彼の姿勢を批判した。
 一方、次の項目に述べるティリッヒは、ブルトマンより遥かに広い哲学的知識を用いて、独自の神学を展開した。ティリッヒは、ブルトマンは神話の意味を知らない、神話は技術理性に基づく自律的学問が成立する以前の根源的世界を直接表現するものであり、自律的理性によって非神話化をすべきではない、と批判した。

 次回に続く。

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