ほそかわ・かずひこの BLOG

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西田と和辻5~和辻の「否定性」と「全体性」

2019-12-06 09:54:39 | 心と宗教
●和辻哲郎の思想(続き)

②「否定性」と「全体性」

 和辻において、人間は個人も全体も、真相は空である。そのようなものとしての人間を、和辻は、行為において分離と結合、生成と消滅を繰り返しつつ変化する主体ととらえる。
 和辻は、主体の行為的連関を「否定の運動」と呼び、次のように言う。「人間存在が根源的に否定の運動であるということは、人間存在の根源が否定そのもの、すなわち絶対的否定性であることにほかならない。個人も全体もその真相においては『空』なのであり、そうしてその空が絶対的全体性なのである」と。
 和辻は、空とは絶対的否定性であり、かつ絶対的全体性であるという。この点について、私見を述べると、和辻は形式論理学及び弁証法の徹底的な検討をすることなく、大乗仏教の思想に基づいて、人間の真相は空であるという見方を前提としている。空が「自己同一性を保つ主体がそれ自身においては存在しないこと」を意味するとすれば、それは、物事はそれ自体では存在せず、他との関係において存在することを意味する。この性質を関係性と呼ぶことができる。関係性を運動の相でとらえる時、関係性は自己と他者、個人と全体等が相互に否定を繰り返す運動である。この性質を否定性と呼ぶことができる。それゆえ、空は関係性であり、かつ否定性である。
 否定性とは、判断における肯定に対する否定に基づく概念である。「AはBである」は肯定の文、「AはBでない」は否定の文である。ここでAを「空」とすれば、「空」とは、「AはBでない。Cでない。Dでない。・・・」という否定の無限の連続であり、あらゆる相対的なものの否定である。ここでAを「AはAでない」と否定するならば、これは絶対的否定性としてのAの否定である。すなわち、否定の否定である。ここでAとしての「空」を主体ととらえれば、この否定の否定は、絶対的否定性の自己否定である。
 和辻は、次のように書いている。「人格共同態としての一つの全体は、個別的なる多数人格がその個別性を超えて無差別を実現したものでなくてはならぬ。かかる全体に於ける全体性は、差別の止揚、無差別の実現に他ならぬのである」「全体性が以上の如く差別の否定に他ならぬとすれば、有限相対の全体性を超えた『絶対的全体性』は絶対的なる差別の否定である。それは絶対的であるが故に、差別と無差別との差別をも否定する無差別でなければならぬ。従って絶対的全体性は絶対的否定性であり、絶対空である。すべての有限なる全体性の根柢に存する無限なるものはかかる絶対空でなければならぬ」
 このように、和辻は、有限相対の全体性を超えた「絶対的全体性」は絶対的なる差別の否定であり、差別と無差別との差別をも否定する無差別であるから、絶対的全体性は絶対的否定性であると説いている。ここにおいて、絶対的否定性と絶対的全体性は、相補的な関係にある。『般若心経』は、大乗仏教の空の思想を端的に表したものとされるが、有名な「色即是空、空即是色」の一句は、この論理を簡潔に表したものということになるだろう。
 和辻は、釈迦の無我説と竜樹の空論は同一として、空を自身の倫理学の前提とした。だが、大乗仏教では、竜樹が空の思想を説いたのち、それを受けて様々な説が現れた。空を具体的に解き明かす縁起説では、唯識派の頼耶縁起、如来蔵思想の如来蔵縁起、華厳思想の法界縁起説、密教における六大縁起説等が現れた。その間、大乗仏教は法身仏という一種の神格を立てるようになり、無神教から有神教へと変化した。一切皆空でありながら、諸法を法身仏の現われととらえるならば、空は関係性であり、否定性であり、かつ全体性でもあることになる。和辻は、こうした大乗仏教の思想の展開を十分考察することなく、空が真相という前提に立ったものだろう。

 次回に続く。

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