ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
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仏教194~「仏教3.0」は道元を通じたとらえ方

2021-08-12 09:05:40 | 心と宗教
●日本の大乗仏教を再評価

 山下は、日本の大乗仏教について、次のように言う。「実は『仏教1.0』でも『無為法としての自分』のことは『本来成仏』とか『煩悩即菩提』『即身成仏』とかあらゆる言葉で語っているんですよ。『仏教1.0』もその源は大乗仏教なんだから。でも、いろいろな事情で、無為法として自分に目覚めるということが具体的にどういうことなのかという道理があいまいになり、それをめぐる実践的プロセスも失われてしまったのでしょう。だから、掛け声だけになってしまって、内実がどんどん空疎になってしまって形骸だけが残った。これが『仏教1.0』だったのではないかな」
 こうした彼の主張に基づくならば、日本の仏教には、もともと「無為法として自分」に目覚めることを具体的に示す「道理」と、それをめぐる「実践的プロセス」がある。山下は、それが大乗仏教の精髄であり、また、テーラワーダ仏教の「本質的な限界」を克服する鍵だと見ている。具体的には、次のように説いている。
 「大乗仏教には『仏教2.0』の限界を乗り越えるための鍵があるんです。形骸化ということは確かに徹底的に批判しなくてはならないですが、それと一緒に大乗仏教の精髄までも捨ててしまうというのは正しくないと思っています」と。
 藤田もこの山下の主張に同意している。彼らは、テーラワーダ仏教との出会いを通じて、日本の大乗仏教を評価し直している。ただし、その再評価は、彼らがともに修行した曹洞宗の教えに基づくものであり、曹洞宗の開祖である道元の教えを宣揚するものである。

●「仏教3.0」は道元を通じたとらえ方

 自分たちは「仏教1.0」と「仏教2.0」をともに乗り越えた「仏教3.0」の立場に立っているという藤田と山下は、道元の教えを高く評価する。二人とも若い時に曹洞宗で修行し、アメリカやミャンマーでの経験を経て、道元をより深く理解できるようになったようである。
 道元は、坐禅について、強為(ごうい)と云為(うんい)を区別する。藤田は、強為とは「俺が無理して、強制的に何かをやろうとするような行為」、云為とは「頭を通さない、もっと自発的で思慮分別をはさまない行為」であると説明する。
 藤田は、次のように述べている。「通常、坐禅は調身(姿勢)・調息(呼吸)・調心(精神状態)という仕方で指導が行われている。その場合の『調』は『わたしが、自分の身体・呼吸・心を対象として、ある一定の方法に従って操作し、コンロールし、管理すること』という意味に理解されている。そして、それに習熟することが坐禅の修行の狙いだと考えられている。しかし、道元禅師によれば、それは強為(自意識的意思による強引な行為)の営みである習禅に他ならない。坐禅は強為ではなく云為(任運自然の動作)で行われるべきであり、その態度は『ただわが身をも心をも、はなちわすれて、仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがいもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをついやさずして』(『正法眼蔵 生死』)でなければならない」と。
 また、次のように述べている。「道元禅師いわく、『坐禅は三界の法にあらず。仏祖の法なり』(『正法眼蔵 道心』)『坐禅は習禅にあらず。安楽の法門なり』(『普勧坐禅儀』)。もし坐禅がそのようなものだとすれば、それを実践するわれわれは坐禅が『三界の法(自我意識に基づく人間的な営み)』や『習禅(瞑想時術の実行)』になってしまわないように細心の注意を払わなければならない」と。
 私見を述べると、こうした藤田の理解に立つならば、「有為法としての自分」という観念に基づくテーラワーダ仏教の瞑想は強為の営みということになるだろう。その瞑想が云為の営みに転じるには、修行だけではだめで、大乗仏教の思想に基づく観念の転換を必要とするということになるだろう。ただし、大乗仏教の修行者であっても、多くの修行者は強為の営みになっており、ただ思想を抱くだけでは、云為の営みに進むことはできない。やはり修業の積み重ねが必要なのだろう。
 さて、上記のように道元の説くところを理解する藤田は、自分の掲げる「仏教3.0」を道元に結び付けて、次のように語っている。「道元禅師が坐禅は三界の法じゃないとか、習禅じゃないとか坐禅は『不染汚(ふぜんな)』の行なんだということを繰り返し言っているのも、要するに『仏教3.0』のことを指摘していたんだと思う。僕もそういう問題意識で改めて中国の禅の語録や『正法眼蔵』を読み直して初めてそれが見えてきたからね。道元さんの著作の中にある強為や云為といった言葉に眼が向いたのもそういう読み直しの中でだった。なんだ、もうちゃんと『仏教3.0』のことを言われてたんだ、という感じ。ブッダの教えもちゃんと読んでみればもちろん『仏教3.0』なんだし」。
 これを受けて、山下は、次のように言う。「わたしもテーラワーダを通って出発点だった道元禅師に再び出会ったという気がしてます。なるほど、あれはそういうことだったのか、でも昔はそこまで全然読み取れてなかったなという思いですね。曹洞宗のお坊さんだったときに散々読んだけど正直まったく理解できなかった『正法眼蔵』をこれから『仏教3.0』というまったく新しい視点で読んでいきたいと思っています」と。
 こうした藤田と山下の発言は、私の見るところ、自分たちの個人的な仏教体験の過程をたどって、その過程の第1段階で出会った仏教を「仏教1.0」、第2段階で出会った仏教を「仏教2.0」とし、それらを経て到達した第3段階を「仏教3.0」と呼ぶものである。そして、現在自分たちが立っている段階を、道元が説いていたものと理解し、さらに道元の教えを拠り所にして釈迦の教えを理解していることを述べているものだろう。ところが、彼らの「仏教1.0」「仏教2.0」「仏教3.0」という表現は、コンピュータのOSやアプリケーションのヴァージョンの更新・最新化を連想させるから、1.0、2.0、3.0という番号が仏教の客観的な評価の段階を表すものと理解されやすい。このレトリックに注意する必要がある。

 次回に続く。

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