ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
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仏教195~「悟り体験」より大安楽往生への道を

2021-08-14 08:51:46 | 心と宗教
●仏教のヴァージョンに係る表現の問題点

 藤田と山下は、日本の仏教を1.0とし、テーラワーダ仏教を2.0、自分たちの仏教を3.0と呼ぶ。だが、仏教の歴史は、釈迦から始まっているのであり、日本の仏教を1.0とするのは、藤田と山下の個人的な経験を出発点にしているからである。
 仏教そのものの出発点を客観的に表現するなら、釈迦や初期教団の仏教を1.0とすべきだろう。それを1.0とすれば、インドの部派仏教が2.0、大乗仏教が3.0、密教が4.0となる。また、インドの部派仏教が2.0であれば、東南アジアのテーラワーダ仏教は2.1であり、インドの大乗仏教を3.0とすれば、シナの大乗仏教が3.1、日本の大乗仏教が3.2となる。また、インドの密教を4.0とすれば、チベット密教が4.1、シナの密教が4.2、日本の密教が4.3となるだろう。
 現代アメリカ仏教は日本の大乗仏教3.2が伝わって土台となり、そこに東南アジアのテーラワーダ仏教2.1が渡来し、3.2を実践していたアメリカの修行者が2.1の価値を再発見したということだろう。彼らの多くはまたチベット密教4.1からも啓発を受けている。藤田と山下は4.1に言及しないが、アメリカにおける4.1の影響力は大きく、その存在を無視してはならない。そして、現代アメリカ仏教は3.2と2.1と4.1が併存し、一部融合していると見ることが出来る。その点は、ケネス田中の研究が良く伝えるところである。
 私の理解するところでは、藤田と山下の説く「仏教3.0」とは、彼らが修行した曹洞宗の安泰寺という一宗派または一寺院から発達したものである。藤田と山下は、「仏教2.0」としてのテーラワーダ仏教との出会いを通じて、自らの仏教体験を深めて、道元の教えの理解を新たにし、その理解に基づく段階に共に立ち至ったのが、「仏教3.0」である。
 彼らは、日本の仏教を「仏教1.0」と呼ぶが、それは彼らが修行した曹洞宗の安泰寺で行われていた仏教以外の仏教を一括して、そのように呼ぶものである。そのため、「仏教1.0」には、安泰寺という一宗派または一寺院が含まれていない。だが、「仏教3.0」は安泰寺派の仏教から発達したものである。その点を考えると、第三者としては、別の表現の方がわかりやすい。
 例えば、次のような表現である。曹洞宗安泰寺派の仏教をA型とし、それ以外の日本の仏教をA´型とする。次にテーラワーダ仏教をB型とする。藤田と山下の仏教は、A型とB型の出会いによって生まれたものとして、AB型とするというものである。A´型は「仏教1.0」、B型は、「仏教2.0」、AB型は「仏教3.0」に対応する。
 藤田と山下の1.0、2.0、3.0という番号の使い方は、仏教史の全体とは別に、自分たちの立場の正当化や宣教を目的としたものだろう。だが、彼らが主唱する「仏教3.0」とは、道元の教えから出発し、テーラワーダ仏教の修行を通じて道元の教えの理解を深め、道元の教えが釈迦の奥義を伝えるととらえるものである。それゆえ、日本仏教においては、曹洞宗以外の宗派からは評価されないだろう。また、浄土系、法華系、真言系等の諸宗派の交流や融合には、あまり貢献し得ないだろう。その一方、坐禅の実践こそが仏教の修行だと考え、そこに「心の悩み」の解決を求める人々に対してのみ、一定の啓発力を発揮するというものではないか。

●「悟り体験」より大安楽往生への道を

 藤田と山下は、「仏教3.0」すなわちAB型の立場から、坐禅を指導し、普及する活動を行っている。その目指すものは、道元が説いた坐禅の極致である。藤田は曹洞宗の禅を相当のところまで修めているのだろう。山下も、テーラワーダ仏教の修行を相当のところまで修めているようである。
 だが、仏教における修行の道は、底なしと言ってよいほどに深い。インドの初期仏教や部派仏教では、修行の段階は三つに分けられ、第1段階を見道、第二段階を修道、第三段階を無学道といい、見道、修道、無学道を合わせて、三道という。また、聖人について、四向四果という8つの階位を立てる。大乗仏教では、部派仏教と異なり、聖人として、十地(じゅうじ)の菩薩と、仏地(ぶつじ)のブッダを置く。十地とは、①歓喜地、②離垢地、③発光地、④焔慧地、⑤難勝地、⑥現前地、⑦遠行地、⑧不動地、⑨善慧地、⑩法雲地をいう。第一地の歓喜地の途中までが見道、第二地から第十地までが修道、仏地が無学道に当たる。また、部派仏教では、見道において体験的に理解する内容は四諦だが、大乗仏教では、その内容が真如とされる。
 「悟り体験」を研究している大竹晋は、仏教における覚醒体験を「悟り体験」と呼ぶ。「悟り体験」には、(1)自他亡失体験、(2)真如顕現体験、(3)自我解消体験、(4)基層転換体験、(5)叡智獲得体験の5段階があるとする。藤田と山下は、こうした悟り体験をどの程度、体験しているのだろうか。大竹が収集した日本仏教の修行者たちの「悟り体験」の事例に照らすと、彼らの語る体験は、どのように位置づけられるものか、体験内容がはっきりしない。だが、仮に彼らが今後、叡智獲得体験にまで至り得たとしても、まだ三道の最初である見道の段階であり、その先に修道、無学道があると考えられる。それが、仏教なのである。
 曹洞宗の祖であり、「仏教3.0」の祖でもある道元は、自らの覚醒体験を積極的に語っていない。だが、覚醒体験を否定しておらず、それを当時一般的だった見性ではなく「悟り」等と呼んだ。わが国では、その呼び方が一般化した。それゆえ、藤田と山下にとっても「悟り体験」を重ねて、より高次元の段階に進むことは、大きな目標となるものだろう。
 だが、仏教には、限界がある。厳しい修行生活によって、何らかのレベルの悟り体験を得た者や、大乗仏教の六波羅蜜多を相当程度、完成させた者においても、人生の最後に大安楽往生できたという報告は、ごくまれである。これに比し、現代において大塚寛一先生のもとでは、多数の人々が大安楽往生をしている。そこには、仏教とは異なる道が開かれている。その道は、一部の出家修行者に対してではなく、家庭を持ち、職業を以って社会で生活する一般の多くの人々に開かれている。瞑想の方法は、高度な技術と修練を要する困難なものではなく、誰でも出来るものである。子供でも、高齢者でも、病者でも出来る。外国人にも容易である。今後、多くの人々が仏教を含む既成宗教を超えた宗教を求めるようになる時、その道の素晴らしさが広く知られるようになるだろう。

 次回に続く。

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