わが国は、国難の時に、天皇を中心として国民が団結したという歴史を持っています。
建国以来、最大の国難の一つは、元寇でした。この時、諸国の武士たちは、蒙古軍の猛攻から懸命に国を守りました。国難のなか、亀山上皇は、京都の石清水八幡宮に参拝し、国家の安泰を祈念しました。八幡宮とは、応神天皇を祭神とし、皇室では国防の際に非常に重んじられている社です。上皇は、また伊勢神宮にも直筆の願文をささげました。『増鏡』によるとその願文には、次のように書かれていました。
「我御代にしもかかるみだれ出できて、まことに此日本のそこなはるべくば、御命をめすべき」と。すなわち「私の代にこのような乱れが出てきて、もしも日本が損なわれることになるのならば、自分の命を召してほしい」と、上皇は神に願い出たのです。その上皇は、次の歌を詠んでいます。
世のために 身をばをしまぬ 心とも
あらぶる神は てらしみるらむ
上皇は、こうした心境で、命をかけて、国家の安泰を祈ったのでした。
元寇以来最大の国難は、幕末の黒船の来航でした。この時の天皇は、孝明天皇でした。孝明天皇は、明治天皇の父君です。孝明天皇は黒船の来航を知り、約600年前の元寇の時、亀山上皇が行ったことを思い起こしました。そして、自ら文久3年(1863)4月、天皇在位中の参拝としては、約511年ぶりとなる岩清水八幡宮への行啓をしました。
そのころ日本は、国全体が攘夷か開国か、勤皇か佐幕かと揺れ動いていました。そうした中で孝明天皇は、次のような御製を詠みました。
あさゆふに 民やすかれと おもふ身の
こゝろにかゝる 異国(とつくに)の船
天皇が常に国民の安寧を願い、黒船の来航に脅威を感じておられたことがわかります。そして、天皇は、ペリー来航の翌年から、伊勢神宮、石清水八幡宮などに、御法楽の歌すなわち神に祈りを捧げる歌を奉納していました。
一方、国民の側には、天皇を中心として団結し、国難に立ち向かおうという気運が高まっていきました。当時、幕政参与の重職にあった徳川斉昭は、次のような歌を残しています。
身は辺地に 在りと雖も 心は 皇室を奉ず
大君に つかへささぐる 我がこころ
都のそらに 行かぬ日ぞなき
斉昭は、徳川光圀の遺志を継ぐ、尊王思想を抱いた水戸の藩主でした。斉昭の歌に詠んだ「都」(京都)の「大君」とは、孝明天皇に他なりません。
孝明天皇の国家国民を思う御製は、諸国の志士たちの間に広まっていきました。特に有名なのは、安政5年(1858)7月に詠まれた神宮法楽の歌です。
すましえぬ 我身は 水にしづむとも
猶にござじな 萬国民(よろずくにたみ)
自分の身は、たとえ汚濁の水に沈もうとも、国民が外国人に隷従するような目にあうような事があってはならない、という祈りでしょう。
この歌は、諸国の志士たちの間に広まり、感動を与えていきました。筑前福岡藩士・平野国臣は、この御製を書き写して、その奥に次のように記しています。
孝明天皇御製
すみのえの 水に我身は 沈むとも
濁しはせじな 四方の国民
かくばかり なやめる君の 御心を
やすめ奉(まつ)れや 四方の国民
元の歌と少し違いますが、それは天皇の歌が巷間伝わっていくうちに、少しづつ変わって伝わったのでしょう。平野は、西国の尊王攘夷派の結集をめざして諸国を奔走し、禁門の変にたおれた勇士でした。
また、孝明天皇の御製に、次の歌があります。
戈とりて まもれ宮人 ここのへの
みはしのさくら 風そよぐなり
この歌に対して、肥後勤王党の代表的人物・宮部鼎蔵は、
いざこども 馬に鞍置け 九重の
御階(みはし)の桜 散らぬそのまに
と応じています。宮部は、吉田松陰らとともに尊王攘夷運動に活躍しましたが、池田屋事件で襲われ、自刃しました。
安政6年(1859)6月、孝明天皇は石清水八幡宮に、次の歌をささげました。
わが命 あらむ限は いのらめや
遂には神の しるしをもみん
命の限り、国家国民のことを祈る天皇の姿が、そこにあります。こうした天皇のもとに、幕末の志士たちが結集されていきました。そして、天皇を中心とする君民一体の力が、新しい明治の時代を切り開いていったのです。
参考資料
・田中和子著『八幡行幸と写経の歴史を紐解いて』(『祖国と青年』平成9年11月号)
次回に続く。
************* 著書のご案内 ****************
『人類を導く日本精神~新しい文明への飛躍』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/cc682724c63c58d608c99ea4ddca44e0
『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/d4dac1aadbac9b22a290a449a4adb3a1
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建国以来、最大の国難の一つは、元寇でした。この時、諸国の武士たちは、蒙古軍の猛攻から懸命に国を守りました。国難のなか、亀山上皇は、京都の石清水八幡宮に参拝し、国家の安泰を祈念しました。八幡宮とは、応神天皇を祭神とし、皇室では国防の際に非常に重んじられている社です。上皇は、また伊勢神宮にも直筆の願文をささげました。『増鏡』によるとその願文には、次のように書かれていました。
「我御代にしもかかるみだれ出できて、まことに此日本のそこなはるべくば、御命をめすべき」と。すなわち「私の代にこのような乱れが出てきて、もしも日本が損なわれることになるのならば、自分の命を召してほしい」と、上皇は神に願い出たのです。その上皇は、次の歌を詠んでいます。
世のために 身をばをしまぬ 心とも
あらぶる神は てらしみるらむ
上皇は、こうした心境で、命をかけて、国家の安泰を祈ったのでした。
元寇以来最大の国難は、幕末の黒船の来航でした。この時の天皇は、孝明天皇でした。孝明天皇は、明治天皇の父君です。孝明天皇は黒船の来航を知り、約600年前の元寇の時、亀山上皇が行ったことを思い起こしました。そして、自ら文久3年(1863)4月、天皇在位中の参拝としては、約511年ぶりとなる岩清水八幡宮への行啓をしました。
そのころ日本は、国全体が攘夷か開国か、勤皇か佐幕かと揺れ動いていました。そうした中で孝明天皇は、次のような御製を詠みました。
あさゆふに 民やすかれと おもふ身の
こゝろにかゝる 異国(とつくに)の船
天皇が常に国民の安寧を願い、黒船の来航に脅威を感じておられたことがわかります。そして、天皇は、ペリー来航の翌年から、伊勢神宮、石清水八幡宮などに、御法楽の歌すなわち神に祈りを捧げる歌を奉納していました。
一方、国民の側には、天皇を中心として団結し、国難に立ち向かおうという気運が高まっていきました。当時、幕政参与の重職にあった徳川斉昭は、次のような歌を残しています。
身は辺地に 在りと雖も 心は 皇室を奉ず
大君に つかへささぐる 我がこころ
都のそらに 行かぬ日ぞなき
斉昭は、徳川光圀の遺志を継ぐ、尊王思想を抱いた水戸の藩主でした。斉昭の歌に詠んだ「都」(京都)の「大君」とは、孝明天皇に他なりません。
孝明天皇の国家国民を思う御製は、諸国の志士たちの間に広まっていきました。特に有名なのは、安政5年(1858)7月に詠まれた神宮法楽の歌です。
すましえぬ 我身は 水にしづむとも
猶にござじな 萬国民(よろずくにたみ)
自分の身は、たとえ汚濁の水に沈もうとも、国民が外国人に隷従するような目にあうような事があってはならない、という祈りでしょう。
この歌は、諸国の志士たちの間に広まり、感動を与えていきました。筑前福岡藩士・平野国臣は、この御製を書き写して、その奥に次のように記しています。
孝明天皇御製
すみのえの 水に我身は 沈むとも
濁しはせじな 四方の国民
かくばかり なやめる君の 御心を
やすめ奉(まつ)れや 四方の国民
元の歌と少し違いますが、それは天皇の歌が巷間伝わっていくうちに、少しづつ変わって伝わったのでしょう。平野は、西国の尊王攘夷派の結集をめざして諸国を奔走し、禁門の変にたおれた勇士でした。
また、孝明天皇の御製に、次の歌があります。
戈とりて まもれ宮人 ここのへの
みはしのさくら 風そよぐなり
この歌に対して、肥後勤王党の代表的人物・宮部鼎蔵は、
いざこども 馬に鞍置け 九重の
御階(みはし)の桜 散らぬそのまに
と応じています。宮部は、吉田松陰らとともに尊王攘夷運動に活躍しましたが、池田屋事件で襲われ、自刃しました。
安政6年(1859)6月、孝明天皇は石清水八幡宮に、次の歌をささげました。
わが命 あらむ限は いのらめや
遂には神の しるしをもみん
命の限り、国家国民のことを祈る天皇の姿が、そこにあります。こうした天皇のもとに、幕末の志士たちが結集されていきました。そして、天皇を中心とする君民一体の力が、新しい明治の時代を切り開いていったのです。
参考資料
・田中和子著『八幡行幸と写経の歴史を紐解いて』(『祖国と青年』平成9年11月号)
次回に続く。
************* 著書のご案内 ****************
『人類を導く日本精神~新しい文明への飛躍』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/cc682724c63c58d608c99ea4ddca44e0
『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
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