ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
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人権90~絶対王政と国王の主権

2014-04-05 08:35:46 | 人権
●絶対王政と国王の主権

 近代主権国家は、国王に権力が集中し、官僚制と常備軍を備えた絶対王政国家として姿を現した。王権の強大化によって形成された政治体制を、絶対王政(absolute monarchism)という。絶対は、英語 absolute 等の訳語として作られた漢字単語である。absolute は「~から完全に自由な」を意味する。そこから「無制限の、無条件の」を意味する。政治的には「専制の、圧政の、独断的な」を意味する語で、必ずしも哲学における絶対―相対の対概念における絶対を意味しない。王政について、絶対と形容されるのは、王が絶対者(the Absolute)すなわち神の代理人を任じ、絶対的すなわち専制的な政治を行って、無制約に権力を振るう様を表すものと言えよう。
 絶対王政は、16~18世紀の西方ヨーロッパに現れた。その政治形態を、絶対主義(absolutism)という。絶対主義は、君主に至上の権利と権力を付与する専制的な政治形態である。絶対主義は、一人の支配者に権力と権威が集中し、独占された状態である。アリストテレスの国家の区分によれば、君主政治に当たる。アリストテレスは、君主政治は堕落すると暴君政治になるとしたが、近代西欧の多くの国では、それが起こった。
 絶対王政では、国王は中央集権的統治のための官僚と直属の常備軍を所有した。国王は、封建制の崩壊で弱体化する貴族階級と資本の本源的蓄積の過程で成長途上の市民階級を押さえ、無制約の権力を振るった。宗教宗派を弾圧したり、信教を押し付けたり、重税を課したりした。王権の強化のため、多くの場合、王権神授説を援用した。経済政策は金銀の取得を目的とする重商主義を採り、富の増大を進めた。
 絶対王政の王権の確立によって、近代的な主権が登場した。同時に、近代的な主権を持つ国家が形成された。近代国家は、国境によって区画された領域、国家に所属する人民、国家を統治する主権という3要素を備えた政治団体である。
 絶対王政は、封建制国家から資本主義的な近代国家への過渡期に位置付けられる政治体制である。封建制国家は、アリストテレスの国家の区分と比較すると、君主政治と貴族政治の中間に位置すると考えられよう。統治権は君主と貴族が分有する。ただし、その上に教皇・皇帝が併存するという複雑で多元的な関係にある。西欧の中世から近代への政治的変化は、まずこの多元的な封建政治から専制的な君主政治へ移行した。そして、教皇の主権、皇帝の主権に替わって、国王の主権が確立したのである。正確に言えば、それらが新たな近代主権国家体制に組み直されたのである。

●イギリスの支配構造と「古来の自由と権利」

 神聖ローマ帝国の領域外にあって、15~16世紀から王権が強大化し、中央集権化が進んでいた英仏では、ますます国王に権力が集中し、絶対主義が確立していた。ウェストファリア条約で生まれた国際社会では、主権国家として勢力を伸長し、また二大植民地帝国として発展した。次にこれら二国における展開を記す。
 イギリスは、大陸から離れた島国だったので、神聖ローマ帝国との関係は深くなかった。その一方、ドーバー海峡の対岸にあるフランスとは歴史的に関わりが深い。フランスとの関係も絡みながら、イギリスでは封建制の崩壊と王権の伸長が進んだ。
 ブリトン島では、15世紀末にイングランドがウェールズを併合し、アイルランドの植民地化を進めた。18世紀初めにスコットランドとの合同が成り、連合王国が完成した。本稿では、便宜上イギリスと呼んでいる。
 さて、近代的な権利発生の起源は、一般に中世のイギリスに求められる。ここで注目すべきは、イギリスにおける民族間の支配構造である。その支配構造が、権利関係に重要な影響を与えてきたからである。
 ブリテン島の初期の住民はイベリア半島から来たようであるが、その後、印欧語族のケルト人が住み着いた。ローマ帝国の支配を受けた後、5世紀半ば、現在の北ドイツからゲルマン民族でバイキング系のアングロ人・サクソン人が侵入した。アーサー王物語は、この時の先住民による抵抗と敗退の物語である。その後、一時、北欧のデーン人が侵入したこともあるが、ブリテン島ではアングロ=サクソン人の支配が続いた。
 1037年コンラッド2世は、封建法によって、封建諸公との間に「古き良き法」「古き良き権利」を確認した。「古き良き法」とは、古来の慣行である。ところが、そこへフランスのノルマンジー地方から、別のバイキング系のノルマン人が侵入した。ノルマン・コンクェスト(1066年)である。その結果、イギリスは、フランス語を話すノルマン人が国王・貴族となり、アングロ=サクソン人・ケルト人を支配する社会となった。征服国家の典型である。英語は約300年間、公式の場では使われなかった。支配階級と被支配階級では、言語も文化も習慣も違っていたのである。ちなみに、コモンウェルスとは、ノルマン人の征服によって、コモン・ピープル(庶民)となったアングロ=サクソン人の側の社会観をいう。
 ノルマン王朝(1066~1154)、プランタジネット朝(1154~1399)と、フランス人の王朝が続いた。イギリスは、外来の王によって統治された。外来の統治者と土着の人民の間に対立があった。その間で、王権と土着の慣習法との均衡が図られた。
 国王と封臣(国王から直接に封土を受けている封建領主)との間で、封建的な権利・義務をめぐって争いがおこると、封臣は「古来の自由と権利」を確認するという形式をとって、国王に封臣の権利・自由を文書で認めさせていた。この制度を決定的なものとしたのは、1215年マグナ・カルタ(大憲章)である。

 次回に続く。

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