ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
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西田と和辻6~哲学の可能性と限界

2019-12-07 12:00:14 | 心と宗教
●和辻哲郎の思想(続き)

③善悪と「良心の声」

 和辻は、倫理学の根本原理を、最も一般的に「絶対的否定性が否定を通じて自己に還る運動」と規定する。個人は全体の否定によって個人となり、全体は個人の否定によって個人となる。「個人とは、全体者が成り立つためにその個別性を否定せられるべきものにほかならず、全体者とは個人が成り立つためにそこから背き出るべき地盤である」という。ここから和辻は、倫理学の課題の一つである物事の善悪を説明する。
 和辻は、主体が全体の統一を促す行為を善、主体が全体から分離する行為を悪と規定する。実践において、善とは全体の信頼に応えること、悪とは信頼を裏切ることであるとする。ここで全体とは、家族、親族、地縁共同体等の集団である。和辻は個人も全体もその真相は「空」であるとし、それを絶対的全体性ととらえる立場から、主体が全体の統一へ向かう行為は「空」へ帰還する方向、逆に主体が全体からの分離へ向かう行為は「空」から離反する方向とする。こうした主体の統一と分離を、ともに「否定の運動」と呼ぶ。そして、人間は「空から背き出つつ空に帰来する運動」を繰り返しているととらえる。
 和辻は、「人間の存在の理法は、然し、絶対否定性の自己への還帰運動である。何らかの共同性から背き出ることに於て己れの根源から背き出た人は、更にその背反を否定して己れの根源に帰ろうとする。この還帰も亦何らかの共同性を実現するという仕方に於て行われる」「この運動も亦人間の行為として、個別性の止揚、人倫的合一の実現、自己の根源への復帰を意味するのである」と述べている。
 和辻は、個人は「己れの本源たる空(すなわち本来空)の否定」として個人となるという。悪に陥っている個人には、悪から善へ戻るように促す心が働く。その働きが、良心の声である。和辻は、良心の声とは「我々自身の奥底から我々を否定する声の聞こえること」であるとし、我々の本源は「空」であるので、そこから「分離する我々の本性が呼び声を引き起こす」のだと説明する。
 私見を述べると、良心の声は、「己れの本源たる空」へ帰ろうという呼び声である。和辻は「空」を無差別・自他一体の慈悲ととらえているので、この呼び声は、仏教的に言えば、衆生を救おうとする仏の呼び声と言うことができる。だが、和辻は、仏教の思想に基づきながら、慈悲の人格的な主体としての仏や菩薩を語らない。当然、この「空」を一般的に神と呼ぶこともしない。ただ絶対者という。絶対者は、対立するものを持たないがゆえに絶対者である。和辻は「絶対者は己れを否定することを通じてのみ己れを展開するのである」と説いている。絶対者が己れを否定したところに、個人が存在し、絶対者と個人が相対する。西田であれば、絶対者と個人の関係を「絶対矛盾的自己同一」ととらえ、「逆対応」と呼ぶだろう。和辻においては、絶対者は人間に「呼び声」をかけるものとされている。そのことは、絶対者が人格性を持つことを意味する。しかし、和辻は、絶対者の人格性を示唆しながら、宗教的な信仰を説くことなく、哲学的な倫理学を提示するのみである。

④「自己に還る運動」

 和辻は、倫理学の根本原理を「絶対的否定性が否定を通じて自己に還る運動」とする。運動の論理を一般に、弁証法という。それゆえ、「絶対的否定性が否定を通じて自己に還る運動」は、弁証法的な自己運動と呼ぶことができる。和辻は、人間存在の行為的連関を絶対的否定性の弁証法的な自己運動ととらえているといえる。これは、ヘーゲルの絶対的観念論の弁証法哲学の影響によるものである。ヘーゲルは、キリスト教に基づき、神を実体にして主体とし、神が自らを否定して疎外し、否定の否定によって回帰する弁証法的自己運動として世界史をとらえた。和辻は、仏教に基づき、実体ではなく関係性である空を根源とし、それを主体として、弁証法的な運動を説いている。和辻の空は絶対的否定性であるが、ヘーゲルの神は絶対的肯定性である。これらは、絶対的全体性である点では共通する。仏教の思想史において、空は絶対的否定性でありつつ絶対的全体性となった。インドにおいて、大乗仏教はヒンドゥー教の影響を受けて有神教化したからである。否定性が肯定性に転じたのである。和辻は、その展開をよく研究せずにヘーゲルの弁証法哲学を大乗仏教に基づく哲学に応用したのだろう。
 和辻は、「絶対的否定性が否定を通じて自己に還る運動」を「不断の創造」とも言っている。基本的には、個人性と社会性を持つ人間の行為についていうものである。だが、「不断の創造」は、人間の行為によるものだけではない。和辻の論理を援用すれば、人間だけでなく自然もまた絶対的否定性の創造的な弁証法的自己運動の過程にある。人間は間柄的存在であり、自然は風土的存在である。その人間と自然が時間的空間的に相互作用する過程を、歴史ととらえることができる。西田は、「絶対矛盾的自己同一」を歴史的世界の構造としたが、和辻の空の哲学を拡大すれば、西田の「絶対の無即有」を「空」に置き換えて、歴史的世界を人間と自然の相互作用という観点からとらえるものに発展し得たかもしれない。だが、和辻は、弁証法について論理学的な研究を十分行っておらず、独自の総合的な哲学を構築することは出来ていない。

結びに~哲学の可能性と限界

 西田哲学と和辻倫理学は、近代日本に現れた優れた哲学である。だが、哲学は、いかに優れた思想が築き上げられても、その継承・発展は困難である。それは、哲学の本質的な性格による。
 科学においては、ある科学者が見出した法則や発見は、その科学者の人格を離れて、客観的な知識として共有され、蓄積されていく。そこに科学の発達がある。哲学は、思索によって真理に到達し得る可能性がある。だが、哲学は、仮にある哲学者が真理に接近し得て、その後継者が先駆者の哲学を受けてさらに発展させようとしても、科学とは異なり、思索は蓄積的に発展しない。後継者は、先駆者の影響を受けながら、新たな哲学を生み出す。その繰り返しが哲学史である。
 西洋の哲学史では、プラトン、アリストテレス、トマス・アクィナス、デカルト、ロック、カント、ヘーゲル、マルクス、ニーチェ、ベルグソン、ハイデッガー、ヤスパースらが優れた哲学を築いた。だが、彼らの哲学は、彼らの後継者によって、継承されると同時に変容し、また次の流れへと移り変わった。
 哲学は、その哲学の人格者の人格と切り離せない。それぞれの人間と思索の記録であり、言葉による作品である。後継者が受け継いでそのまま発展させることは、ほとんど不可能である。その後継者の人格が作用するからである。
 大塚寛一先生は「結論の出ている哲学はひとつもない」と説かれている。私は、20歳代のはじめに、そのことを知って衝撃を受けた。確かに哲学は哲学者の数だけあり、諸説紛々である。その状態は、どの説も真理に達していない証拠である。真理とは単なる知識ではなく、真理に到達すれば即、力となって、現実に作用するものであることを大塚先生は、実証で示されている。病者が医薬に頼らずとも健康を回復し、脳細胞が活性化して、頭骨の形まで変わる。女性は自然分娩で、短時間の楽なお産ができる。人々は死の恐怖から解放され、遺体は長時間体温が冷めず、死後硬直や死臭・死斑が現れない。動物や植物まで生き生きと成長する。私は、こうした現代の科学では説明のできない現象を数多く見聞し、自ら体験もしている。
 西田幾多郎と和辻哲郎は、それぞれの道を歩んで、真理を探究した。だが、真理の究極にまで到達することは出来ずに、その生涯を終えた。彼らの哲学は、その生涯に咲いた大輪の花である。だが、それは言葉を細胞とする花であって、言葉を超え、即、力となって、現実に作用する真理の働きには到達していない。それは、過去の哲学者たちと同じである。また、そこに哲学の限界がある。(了)

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