ほそかわ・かずひこの BLOG

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戦略論25~日本文明の軍事思想

2022-07-10 08:16:14 | 戦略論
(2)日本文明の軍事思想

 日本文明では、古代からシナ文明の軍事思想の影響を受けてきた。そのもとで日本独自の軍事思想が発達した。次にその点を述べる。

●日本文明には独自の伝統が

 日本文明は、シナ文明から多くのものを摂取し、それに独創性を加えて、独自の文明を発達させた。19世紀半ば、日本文明が近代西洋文明と遭遇した時、軍事力や科学技術力では圧倒されたが、政治と道徳、政治と戦争のあり方において劣っていたわけではない。シナ文明では、孔子が為政者のあるべき姿として、仁による徳治を説いたが、それは理想に終わった。だが、日本文明では、民族の中心である皇室が仁による徳治を古代から現代にいたるまで実践している。その統治の伝統は、ヨーロッパ文明には見られないものである。また、こうした国柄において、ヨーロッパ文明には見られない政治と軍事の伝統が継承されて来ている。
 わが国最古の兵法書は、平安時代末期、11世紀末から12世紀初めに成立したとみられる『闘戦経』である。作者と考えられている大江匡房は、『孫子』を研究し、「孫子は詫譎(きけつ:いつわり、あざむく)の書」として、これを批判した。どんな手を使ってでも勝つことをよしとするのではなく、正々堂々と戦うことが大切だとした。
 その後、12世紀末に、源頼朝が鎌倉に幕府を開き、以後、約700年間、わが国では武士が政権を担う時代が続いた。戦士の階級が国を治めるという歴史は、ヨーロッパにも、またシナや朝鮮には見られない、わが国独特のものである。
 鎌倉幕府では、大江家家伝の『闘戦経』は、御家人・文官御家人の愛読書だったとされる。だが、その後、『孫子』『呉子』等が武士の間に普及したのに比べ、『闘戦経』を学ぶ者は一部の武家に限られた。
 やがて武士の間では、義を貫くより利を求める者が増え、下剋上が横行し、戦乱の世となった。そうした戦国時代に終止符を打ったのは、徳川家康だった。
 徳川家康は源頼朝の治世を手本とし、その事跡を研究した。源氏をはじめ由緒ある家柄の武士は、皇室を祖先とし、皇室の政治を模範として仁政に努めた。源頼朝や尼将軍・北条政子は、仁政に努めつつ統治の体制を維持するために、シナ文明の唐代の書である『貞観政要』を学んだ。家康もまた『貞観政要』を読み、徳川260年の基礎づくりの参考にした。「武家の棟梁」にして政治を担う指導者にとって、政治は軍事より上位にあり、軍事は政治の目的に沿って行われるべきものだった。
 家康は、また武田信玄を畏敬し、その軍学を摂取した。武田家では、『孫子』をはじめとするシナ文明の軍事思想を自らのものとし、さらに発展させて、武田流軍学を築き上げた。徳川幕府は武田流軍学を、官許の学として公認した。武田流軍学を集大成した『甲陽軍鑑』は「本邦第一の兵書」といわれるが、単なる軍学の書ではない。自国の領土を治め、他国を従えるために必要な、政治・経済・外交・軍事等の心得に満ちている。
 続いて、日本独自の軍事思想の独自性を示すものとして、『闘戦経』と『甲陽軍鑑』の二つについて述べたい。その後、アヘン戦争から今日までの軍事思想を概観する。

 次回に続く。

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