ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

現代の眺望と人類の課題21

2008-09-27 11:10:16 | 歴史
●大戦でソ連は躍進し、膨張した

 第2次大戦後、アメリカは圧倒的な軍事力、経済力で新たな覇権国家となった。これに対し、ソ連はナチス・ドイツと戦って勝利した実績、強大な軍事力、共産主義の宣伝・工作により、アメリカへの対抗国家として台頭した。
 国際連合は大戦後の国際秩序の維持を期待されたが、実際に新しい国際秩序を形成し、主導したのは、アメリカとソ連の二大超大国だった。
米ソは大戦の終結期から、戦後を見据えて対立を強めていた。もともと米ソは、基本的な思想・態勢が異なる。そうした両国が連合国として連携したのは、共通の敵を持つ者は、共通の利益を持つことによる。だから、戦争が終わるころには、矛盾が表面化した。アメリカは、日本とドイツを叩くためにソ連の手を借りたつもりだったが、ソ連は白熊のように躍り出た。

 第2次大戦を通じて最大の利益を得たのは、ソ連である。このことを明記していない歴史書が多い。ソ連は躍進し、膨張した。それを許したのは、ヤルタ会談である。
 ヤルタ会談で、ルーズベルトは、「解放ヨーロッパに関する宣言」を提案し、チャーチル、スターリンはこれに合意した。三首脳は、ナチス・ドイツが占領した欧州諸国で、暫定政権を作り、自由選挙を実施して国民を代表する政府を作ることに協力することを決めた。ところが、スターリンはその約束を守らなかった。
 ソ連軍がドイツ軍を追い出して占領した地域で、スターリンは自由選挙を実施せず、親ソ政権を次々に樹立していった。こうしてスターリンは、まんまと東欧・中欧地域に勢力を拡大した。
 東アジアでも、米英との密約に基づいて領土の拡張を図った。この時、わが国は、満州・朝鮮・樺太・千島に侵攻されたが、本土の分割占領は辛うじて免れた。

 ブルガリア、ルーマニアではソ連の支援の下で共産党政権が成立した。ユーゴスラビア、アルバニア、ハンガリーでは、社会主義革命が成功し、親ソ政権が実現した。どれも連立政権だが、共産党が主導的立場を占めていた。ソ連の強い後押しを受けた各国共産党は、徐々に他の政治勢力を排除し、独裁権を強化していく。
 かつてわが国の進歩的文化人や左翼のシンパは、こうしたソ連の勢力拡張を「解放」であり、民主的勢力の「前進」だなどと美化していた。現在出回っている歴史書もそういう視点を変えていないものが多い。しかし、実態は帝国主義的な膨張・支配に他ならないものだった。

●対するアメリカは「封じ込め」を図る

 アメリカは当初、ソ連とは相容れない部分はあるが協調は可能と見ていた。しかし、ソ連が東欧諸国を共産化・従属化していくのを目の当たりにしたアメリカは、対ソ政策を転換した。その過程で世界の変化を象徴的に表現したのが、イギリス首相チャーチルの「鉄のカーテン」演説だった。
 1946年(昭和21年)3月5日、アメリカ・ミズーリ州フルトン市のウエストミンスター大学で、チャーチルは、トルーマン大統領と聴衆を前に次のように訴えた。
 「ごく最近まで連合国軍の勝利という火に照らされていた情景に、一片の影が落とされた。(略)いまやバルト海のシュテッテンからアドリア海のトリエステまで、ヨーロッパ大陸を横切る鉄のカーテンが下ろされた」と。

 「鉄カーテン」というのは、ソ連の勢力圏となった東欧からは情報が閉ざされ、向こうで何が行われているのかさえ、わからなくなった事態をたとえたものである。チャーチルは、スターリンに、してやられた甘さを悔やんだ。
 チャーチルの訴えを聴き、共産主義の勢力拡大を恐れたトルーマンは、47年(22年)3月、議会で共産主義と対決し、自由主義を守る対外政策を打ち出した。この政策をトルーマン・ドクトリンという。当時、東地中海のトルコ、ギリシャを除く東欧・中欧はすでにソ連の勢力圏になっていた。ギリシャでも共産ゲリラが活発に活動していた。
 トルコ、ギリシャを共産化から守ることは、地政学的に重要な意味があった。ギリシャからトルコに共産化が及ぶと、ソ連に地中海と黒海を結ぶダーダネルス海峡、ボスボラス海峡を押さえられることになる。ソ連は黒海と地中海を自由に行動できるようになる一方、アメリカはカスピ海沿岸の油田への通路を絶たれる。これを防ぐためトルーマンは、トルコ、ギリシャへの経済的・軍事的援助を行うことを米議会に要請した。

 共産主義の浸透は西欧でも進んでいた。アメリカが乗り出さなければ、西欧諸国にまで共産化の波が及ぶことは確実だった。共産化を防ぐには、大戦で疲弊したヨーロッパの経済復興を図る必要がある。国務長官マーシャルの提案に基づいて、47年6月アメリカは大規模な経済復興計画(マーシャル・プラン)を発表した。西欧16カ国はこの提案を受け入れたが、ソ連・東欧諸国は拒否した。
 アメリカは、48年から52年(23年から27年)にかけて援助計画を実施した。食糧援助、農業の回復、工業の育成等が強力に進められた。計画の完了時には、西欧諸国は、戦前に比べ、工業生産で35パーセント、農業生産で10パーセントも越えるほどになった。経済の復興は西欧に安定をもたらし、共産革命の連鎖の危機を脱した。

 アメリカの一連の対外政策は、ソ連の周辺地域に経済的・軍事的援助を与え、ソ連の勢力膨張を長期的に封じ込めることを狙いとした。そのため、「封じ込め政策」と呼ばれる。
 アメリカが「封じ込め政策」を立案する過程で、重要な働きをしたのが、ジョージ・ケナンである。モスクワのアメリカ代理大使だったケナンは、チャーチルの「鉄のカーテン」演説の1ヶ月前、アメリカ国務省にソ連の危険性を指摘する電報を送った。ケナンは、ソ連は強力な抵抗を受ければ後退する国家なので、西側が強固な意思で反撃すべきと主張した。この政策提言が受け入れられて、ケナンは本国に呼び戻され、対ソ戦略の立案を担当した。そして、外交専門誌「フォーリン・アフェアーズ」の1947年7月号に、Xという匿名で論文を発表した。ケナンは、こちらがいくら善意を示してもソ連の姿勢は変わらない、協調路線ではなく、忍耐強く確固たる態度でソ連を封じ込め、ソ連が内部崩壊するのを待つしかない、と主張した。この論文が、アメリカの対ソ政策を方向付けた。

 アメリカ国内では、トルーマン・ドクトリンの発表と同じ月、47年(22年)3月に政府部内の共産主義者追放を主たる目的とする忠誠審査制度が制定された。「赤狩り(レッド・パージ)」の先頭に立ったのは、マッカーシー上院議員である。ハリー・デクスター・ホワイト、アルジャー・ヒス等、ルーズベルト政権の大統領側近や政府高官の反国家的行為が告発された。追及の手は、各種政府機関から芸能界にまで及んだ。
 また7月には国家安全保障法が成立し、これに基づいて国防総省(ペンタゴン)、CIA(中央情報局)、国家安全保障会議が創設された。アメリカ指導層は、遅まきながらソ連や共産主義への認識を改め、対決姿勢を取った。

 次回に続く。

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