ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
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人権395~人権発達のための実践で重要なこと

2016-12-29 08:49:14 | 人権
●人権発達のための実践で重要なこと(続)

(2)法的な義務と道徳的義務を区別する
 次に、義務について、法的な義務と道徳的な義務を区別することが必要である。正義の中に、国内的正義と国際的正義がある。各ネイションにおいて、国内的正義の一部は法として制度化されている。「正義=法」を履行しなければ、強制的に実行を求められ、実行しなければ罰則が科せられる。だが、現在の国際社会では、「正義=法」としての法は、確立していない。国際法はある。だが、国家の主権に当たる地球的統一的な政治権力はなく、法執行の強制力は存在しない。法に定められた罰則もない。履行しなくとも刑罰を受けることのない義務は、法的義務ではない。それゆえ、現在の国際社会における義務は、法的な義務ではなく、道徳的な義務である。
 センは、義務には完全義務と不完全義務があるとする。完全義務とは、「特定の人が行わなければならない特別な行為として、すっかり明確化された義務」である。これに対し、不完全義務は、「完全義務を超えた倫理的な要求」であり、「人権を脅かされている人に適切に支援をほどこせる立場にいる人すべてに、真剣な考慮を求める要求が含まれている」とする。
 完全義務とは、契約や約束、法律の規定等によって課される義務である。法的権利に対する法的義務である。これに対し、不完全義務とは法的義務ではなく、道徳的要求に対する道徳的義務である。センは、不完全義務の履行を促すことが、世界の貧困問題や不正義等の解決のために有効だと考えている。
 私見を述べると、世界的な貧困や不正義等の解決のために、富裕国の国民の良心に訴え、慈善行為を求めることは有効である。だが、個々人の慈善行為は、各国の政府及びその国民の自国・自国民に対する努力を前提とし、その努力を外から支援するという補助的なものにとどまる。国際間の過度の不平等の是正も、同じく道徳的義務である。履行しなければ、第三者が制裁を課しても差し支えないという強制力を持つ法的な義務ではない。

(3)人道主義的義務とは何かを明確にする
 次に、道徳的義務については、人道主義的義務(humanitarian duty)とは何かを明確にする必要がある。世界には、さまざまな宗教・哲学・思想・信条が存在し、個人や集団によって異なる様々な道徳観がある。道徳的義務は、それぞれの道徳観に基づいて考えられる義務である。
 センは、カント主義的な思想に基づいて、不完全義務の履行を促す。コスモポリタンは、グローバルな平等を説いて、普遍的な義務の実行を呼びかける。彼らに共通するのは、人道主義的な考え方であり、彼らの説く義務は、ミラーのいうところの人道主義的な義務に当たる。
 人道主義的な義務の実行を説くには、人道主義とは何かを明確化しなければならない。そのうえで、人類普遍的な道徳に基づく義務を説かねばならない。だが、人類はそのような人類普遍的な道徳を確立できていない。
 世界人権宣言や国際人権規約等は、その参加国の間では一定の国際的合意を形成したものではあるが、十分な合意には程遠い。ミレニアム宣言において、各国はGNIの0.7%を貧困の撲滅等のために拠出すると取り決めたが、取り決めを実行しない場合に、その国の政府に実行を強制したり、罰則を科すものではない。強制的に拠出金を取り立てたり、取り立てのために資産を差し押さえたりすることは行われない。合意の履行を義務としたとしても、それは、法的義務ではなく、約束したことは実行すべきという道徳的な義務である。だが、約束は必ずしも実行しなくともよいという価値観が国際社会には存在する。状況が変わり、利害関係が変われば、約束を反故にしてもよいという考え方は、国家間の外交において、しばしば見られるものであり、条約も時には一方的に破棄される。
 ロールズの言うところの特定の包括的な教説に依拠せずに「重なり合う合意」を作り上げる努力を重ねなければ、人類に普遍的な道徳は構築できない。人道主義的な義務という言葉がすべての人に共通した意味を持ち得るのは、そうした人類道徳が確立した時のこととなるだろう。現時点では、いわゆる人道主義的義務とは、様々な個人や集団がそれぞれの道徳観で普遍的なものと考える義務の実行を促す呼びかけと言わざるを得ない。
 人道主義的の意味は、人間とは何か、人間らしい生活とはどういう生活かという問いの答えと相関する。また、人類の道徳的な向上の度合いに応じて、人道主義的義務の内容も変化していくだろう。

(4)結果責任と救済責任を明らかにする
 次に、義務と関連する責任については、ミラーが説く結果責任と救済責任を区別することが必要である。結果責任とは、「自らの行為と決断に対して負う責任」であり、「私たちの行動によって帰結する損益についての責任」である。救済責任とは、「助けを必要としている人々の援助に向かわなければならない責任」であり、「それが可能であれば被害や苦痛を取り除く責任」である。ただし、その責任を問うには、行為者が行為の結果を引き受けること、また要求される行為を実行しない場合には制裁を受けることが、行為者、その行為の対象者及び第三者に認識されていなければならない。
 ミラーの言うように、ネイションにはネイションとしての集団的な責任があり、それは結果責任に応じた救済責任としなければならない。結果責任には具体的な分析が必要である。旧植民地であっても目覚ましい経済発展をしている国々もあれば、サハラ以南の国々のように貧困状態にとどまっている国々もある。これらの国々に対し、一律に結果責任を論じるのは、おかしい。また仮に何らかの結果責任があるとする場合、それがどこまで救済責任に結びつくのかが、検討されなければならない。そのうえで、誰にどの程度の救済責任があるかの配分の検討が必要である。救済責任は、法的な義務ではなく、道徳的な義務である。道徳的義務に関する判断は、結果責任と救済責任の質的・量的な検討の上で、なされるべきものである。
 戦後補償の問題については、国家間で講和条約・基本条約等で合意がされ、政府間で賠償金が支払われたり、補助金が支払われたりしている場合、これ以外に個人補償を請求することは不当である。政府はネイションの代表であり、政府間で条約を交わし、実行している事柄について、ネイションはそれ以上の責任を負う必要がない。それでもなお救済責任を感じ、実行するとすれば、道徳的な慈善行為としてすべきものである。その際の道徳観は、現状において、それぞれのネイションの道徳観に基づくものである。

 次回に続く。

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