ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

安重根は犯罪者であり、「英雄」ではない3

2013-12-20 06:29:21 | 歴史
●安重根の伊藤殺害の動機

 安重根は、伊藤博文をどのように見ていたのか。関東州都府督裁判所で、清渕孝雄検察官から「なぜ伊藤博文公を敵視するようになったか」と尋問され、射殺の動機を問われた。安重根は15項目の理由を主張した。
 名越二荒之助氏は、名著『日韓共鳴二千年史』(明成社)に、安の主張とそれへの評言を大意、次のように書いている。
 
1.10年ほど前に、伊藤が指揮して大韓帝国王妃を殺害した。
 14年前の明治28年の閔妃殺害事件のこと。当時、公使だった三浦悟楼以下多くの日本人が処罰された。もちろん朝鮮人もだった。李周會が全責任を負い、「自分が閔妃を殺害した」と供述し、他の二人(伊錫禹、朴鉄)とともに処刑された。しかし、伊藤博文及び我国政府が直接関与したという資料は無い。

2.5年前に伊藤は、大韓帝国に不利な三ヶ条を締結させた。
 4年前(1905年)の日韓保護条約(第2次日韓協約)のこと。日露戦争のロシアとの講和条約であるポーツマス条約の「日本は朝鮮を指導、保護、監督する権利を有する」という条項に基づいて結ばれたもの。
 朝鮮は1895年に日清戦争により結ばれた下関条約にて初めて「大韓帝国」として独立を果たすことができた。しかし、その後も事大主義を捨てきれず、ロシアに擦り寄り、高宗はロシア大使館に逃げ込み(俄館播遷 1895~1896年)、そこで政務を行った。
 日露戦争に勝利した日本は特命全権大使として伊藤博文を朝鮮に派遣し、日韓保護条約が結ばれた。当時としては東洋の治安と朝鮮の保全のために、この保護条約はやむを得ぬものだった。

3.3年前に伊藤は一二ヶ条条約の締結で我が国を不利にした。
 2年前に結ばれた七ヶ条の第3次日韓協約のことと思われる。高宗は保護条約を無視し、明治40年6月、オランダのハーグにて開かれた万国平和会議に3名の密使を送り、日韓保護条約の無効を訴えた。
 これに対して、伊藤統監は、高宗に謁見し電報の写しを見せながら「かくの如き陰険な手段を以て日本保護権を拒否せんとするよりは、むしろ日本に対し堂々と宣戦を布告せらるるには捷径なるにしかず」と迫った。
 高宗と安重根は、国家間で結んだ条約の意味も知らない。
 
4.伊藤は大韓帝国皇帝の廃立を計った。
 優柔不断、虚言多用、責任転嫁という高宗に対し、面罵してまで退陣を最も強く迫ったのは、朝鮮の農商工部大臣、宋秉だった。

5.伊藤は大韓帝国軍隊を解散した。
 解散の詔書を出したのは、高宗より譲位された純宗だった。そもそも、軍隊内に両班制度がそのまま生きているような志願制の朝鮮兵8000人は役に立たず、朝鮮の財政を圧迫するだけだった。そのため徴兵制を他日実施するためにいったん解散を決めたものだった。

6.決起した義兵たちを、伊藤が殺した。
 正規の条約に基づいた朝鮮駐留の日本軍を、「義兵」と自称して襲う者に対して、自衛権を発動するのは当然のこと。そもそも、「義兵」と称する輩には強盗としか言えない輩が多く、朝鮮民衆、日本人、シナ人を襲うために、それを討伐したにすぎない。

7.伊藤は大韓帝国の政治と権利を奪った。
 せっかく独立しても、宮廷内部は紊乱し機能しなくなったことを知っていれば、このような恥ずかしいことは言えないだろう。

8.良好なる教科書を焼却した。
 安重根にとり良好なる教科書とは「反日的排他的教科書」である。

9.朝鮮人民に新聞の購読の自由を禁じた。
 同じく反日煽動新聞を取り締まるのは当然である。

10.不良の大韓帝国朝鮮人官吏に食を与え、第一銀行券を発行している。
 李朝の官僚すべてを辞めさせることなどできるはずはない。ましてや、第一銀行券は伊藤統監の来朝以前に発行している。
安重根は国債の意味を理解していない。朝鮮官吏のために、日本でも緊急に国債を発行して支援していた。

11.国債2300万円を募り、官吏の間で分配したと聞いた。土地も奪ったと聞いた。
 どちらもいい加減な反日煽動新聞の受け売りでしかない。

12.東洋平和と称しながら、大韓帝国皇帝を廃立するなど当初の宣言と異なる。
 大韓帝国皇帝の高宗は、日露戦争中はロシアに通じ、外国人記者を買収し、日本軍の鉄道・電信の破壊を内密に命じた。明確な日本に対しての背信行為であり、当時のイギリス、フランスなど列強による支配国国王に対する処置を知っていればこのようなことは言えまい。

13.大韓帝国保護に名を借りて大韓帝国政府の一部と意見を通じ、大韓帝国にとって不利な施策を行っている。
 大韓帝国内閣に親日派といわれる者が入閣したことを指すものと思われる。

14.伊藤は現天皇(明治天皇)の御父君に当たられるお方(孝明天皇)を殺した。
 考明天皇の崩御は1866年12月25日で、その頃は、伊藤博文は長州の三田尻にいて、宮中に入れる身分ではなかった。

15.世界各国に対し、「大韓帝国は無事なり」と宣伝し、事実を欺いている。
 世界最貧国で、シナの属国だった朝鮮。李朝末期においては悪政による両班の横暴、賄賂、人身売り買い、盗賊の横行など国とは言えなかった。我が国が保護国とすることにより、治安が確立し、朝鮮人の生活は見違えるように改善された。

 以上である。全体に不正確な知識と思い込みが目立つ。安重根は、こうしたひどく歪んだ伊藤像をもって、伊藤を敵視し、殺害に及んだ。

 次回に続く。