ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
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安重根は犯罪者であり、「英雄」ではない1

2013-12-18 08:49:11 | 歴史
●はじめに

 韓国人の歴史観には、こうありたいという願望や史実を無視した思い込みが多い。伊藤博文を暗殺したとされる安重根を「抗日闘争の英雄」とするのは、その典型の一つである。本稿は、安重根は犯罪者であり、「英雄」ではないことを記すものである。全9回の予定である。

●韓国による安重根の石碑建立の動き

 韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領は、安重根(アン・ジュングン)をたたえる石碑を、中国のハルビンに建て、中韓連携による反日の象徴としようとしている。安重根は、初代韓国統監を務めた伊藤博文を暗殺した犯罪者である。韓国では「抗日闘争の英雄」とされるが、わが国にとっては「維新の元勲」にして初代・総理大臣を務めた国家指導者を殺害したテロリストである。安重根は、1909年(明治42年)10月26日伊藤暗殺事件を起こし、殺人罪で、事件直後に処刑されている。
 だが、第2次大戦後、韓国では、安重根を英雄視するようになり、勲章が追叙された。1970年(昭和45年)には首都ソウルの南山公園に安重根義士記念館が作られて、顕彰されている。2009年(平成21年)には、同年10月26日を「安重根が国権剥奪の元凶・伊藤博文をハルビンで狙撃した義挙から100周年に当たる」と位置付け、これに合わせて翌年記念館が拡張された。
 朴槿恵氏は本年2月大統領職に就くと、反日的な姿勢を露骨に示す一方、中国への傾斜を強めている。朴氏は本年6月に訪中し、習近平国家主席と首脳会談を行った際、習氏に安重根の石碑を建てたいとして協力を要請した。朴氏は、伊藤殺害現場のハルビン駅に石碑を建立する計画である。11月18日、韓国を訪問した中国の楊潔チ国務委員(外交担当)と青瓦台(チョンワデ、大統領府)で会談し、計画は中韓間で「うまく進んでいる」として謝意を示した。
 これに対し、菅義偉官房長官は19日、「わが国は、安重根は犯罪者であると韓国政府にこれまでも伝えてきた。このような動きは日韓関係のためにはならないのではないか」と述べ、韓国政府を批判した。韓国外務省は「犯罪者」との指摘に反発したが、菅氏は「随分と過剰反応だなと思う。私は従来のわが国の立場を淡々と述べただけだ」と述べた。韓国の尹炳世(ユン・ビョンセ)外相は20日の国会答弁で、菅氏の発言に対し、「日本政府の立場を代弁する高官の、歴史を無視した発言」との認識を示し、「韓国政府としても、国民としても容認できない」と反発した。尹氏は「日本の責任ある政治家は、日本帝国主義の侵略の歴史を徹底的に反省し、被害を受けた国家に心から謝罪する姿勢を持たなければならない」と強調した。中国の洪磊外交部報道官は定例会見で、安重根について「歴史上の有名な抗日烈士であり、中国でも尊敬されている」と述べて、韓国を援護した。
 これまでは、中国政府は、安重根の評価は反日勢力を刺激し、国内の社会不安を増大させるとして、積極的な評価は行っていなかった。2006年に、韓国人によってハルビンに安重根の銅像が建設されたが、「外国人の銅像建設は認めない」として中国当局により撤去された。伊藤暗殺100年にあたる2009年10月26日に同市で記念式典が開かれた時は、ハルビン駅近くの中央大街公園広場での開催を許可せず、朝鮮民族民芸博物館での開催となった。また旅順の戦争陳列博物館で安重根の特別展が開かれたが、安重根の名前を出させず、慰霊や記念式典は認めなかった。
 だが、過去の政権以上に反日的な姿勢を強めている習近平政権は、態度を変えたようである。中韓の連携によって安重根の石碑を建てるという計画は、日韓関係・日中関係を損ない、韓国・中国にとっても重大な不利益を生じるだろう。

●伊藤博文と安重根

 李朝末期の朝鮮は、政治と社会が腐敗しきっており、国全体が疲弊していた。支配階級は外からの脅威をよそに、党派抗争に明け暮れ、貪官汚吏がはびこり、民衆は悲惨な生活を強いられていた。19世紀末の東アジアで、朝鮮はシナ(清国)、ロシア、日本のはざまにあって、国家を維持する力が消失していた。
 朝鮮は日清戦争後、シナ(清)への従属を脱し、1897年(明治30年)に大韓帝国と号して、高宗が皇帝を称した。日本と韓国は1904年(明治37年)に第1次日韓協約を結び、日本は韓国政府に顧問を置いた。1905年には第2次協約で、日本は韓国を保護国とした。日本としては、日露戦争後も朝鮮半島にはロシアの脅威が残っていたため、韓国を保護国とせざるをえなかった。
 韓国統監府が設置されると、伊藤博文が初代統監に就任した。維新の元勲であり、初代総理大臣、アジア初の憲法の実現者、天皇を支える枢密院議長等、当時日本最高の指導者が、朝鮮の開発に当たり、その発展に尽くした。
 伊藤の考えは、欧米諸国が行うように朝鮮を植民地とすることではなかった。1905年(明治38年)11月の伊藤のメモには、「韓国の富強の実を認むるに至る迄」という記述がある。伊藤博文研究の第一人者とされる伊藤之雄京都大学教授は、「伊藤博文は、韓国を保護国とするのは韓国の国力がつくまでであり、日韓併合には否定的な考えを持っていた事を裏付けるものだ」としている。
 高宗は、第2次協約に反して、1907年(明治40年)6月、オランダのハーグで開催された万国平和会議へ密使を送り、「独立回復」を訴えた。全権委員の会議参加は、韓国には外交権がないとの理由で拒否された。この事件をきっかけに、伊藤は高宗皇帝を退位させ、皇太子を即位(純宗)させた。また韓国の軍隊を解散させた。これによって韓国人による義兵運動が起こった。
 こうした時、抗日運動に身を投じたのが、安重根だった。安は、1879年に朝鮮黄海道の海州で両班の子として誕生した。両班は李朝の特権身分である官僚階級である。成長してからキリスト教カトリックに改宗し、生涯その信仰を持ち続けた。洗礼名をトマスという。韓国の状態に危機感を持った安はウラジオストクに亡命し、大韓義軍を組織して、抗日闘争を行った。

 次回に続く。