●日本精神を復興し、東京オリンピックを成功させよう
折しも2020年、7年後の平成32年に東京オリンピックが開催されることになった。東京でのオリンピックは、56年ぶりとなる。
9月7日の国際オリンピック委員会(IOC)総会で開催地の最終選考がされた際、わが国は総力を挙げて働きかけをした。高円宮久子様、安倍首相、猪瀬都知事、スポーツ関係者等のチームワークで、日本の良さを訴えた。東京決定は国を挙げての熱意、治安の良さ、おもてなしの心等が世界から評価されたものと思う。
東日本大震災からの復興、デフレからの脱却を課題とする日本にとって、大きな目標ができた。日本でのオリンピックは、特に若い世代、子供たちに大きな夢と希望を与えるものとなっている。またオリンピック開催は、アベノミクスの「第4の矢」と位置付けられ、経済効果が3兆円とも4兆円以上とも試算される。復興、デフレ脱却を通じて、力強く経済成長をする絶好の機会である。ここで日本精神の復興を進め、日本人の団結で、オリンピック、パラリンピックを成功させよう。
昭和39年(1964)東京オリンピックのとき、ほそかわは10歳、小学4年生だった。学校の授業で、先生がテレビ放送を見せてくれた。それを見て日本人の活躍に感動した。最初に男子重量挙げの三宅義信選手が金メダルを取り、男子体操、柔道、女子バレーボール等が続いた。自分が日本はいい国、素晴らしい国だな、と思うようになったはじめだった。
当時の日本は敗戦からわずか19年しかたっていなかった。オリンピックは焼け野原から立ち上がって、奇跡の復興を成し遂げた日本が、世界のひのき舞台へ復帰する一大行事になった。当時の日本人はオリンピックを成功させようと懸命に努力した。
現在の国立競技場のバックスタンド最上段に、東京オリンピックで使用された聖火台がある。これは川口市の鋳物師・鈴木萬之助さんと文吾さん親子による作である。納期3カ月という非常に厳しい条件の下だったが、萬之助さんは「鋳物の街、川口に恥じない物を作る」という意気込みで取り組んだ。しかし、製作工程2ヶ月にはいったところで鋳型の爆発があり振り出しに戻ってしまった。そのショックにより萬之助さんは帰らぬ人になった。納期まで残り1ヶ月。だが、わずかな期間にもかかわらず息子の文吾さんは「作らなければ川口の恥、日本の恥」という思いで連日徹夜の作業の末、納期直前に聖火台を完成させた。
昭和39年10月10日、国立競技場で開会式が行われた。昭和天皇の御臨席のもと、各国代表が列席した。この時、航空自衛隊のアクロバット飛行チーム、「ブルーインパルス」が妙技を見せた。聖火台に聖火が点火され、選手宣誓がされ、約1万羽の鳩が青空に放たれて、ぐるっと回って空に向かい、観客が空に目を向けた時に、空に五輪の輪が描かれるようにするという計画だった。だが、練習では一度もうまくいかなかった。失敗したら、日本の権威は地に落ちる。そうした中で当日、「ブルーインパルス」のチームは意を決して、埼玉県入間基地を飛び立ち、江の島方向に向かった。予定より、式典が遅れた。とにかく行くしかない。東京上空に向かった「ブルーインパルス」は、奇跡的に計画を成功させた。観客が見上げた快晴の空に、五色の輪が見事に描かれたのだった。
他にもいろいろなエピソードがある。何としても成し遂げようとする日本人の精神がオリンピックを成功させた。
この時、東海道新幹線、首都高速道路等が建設された。日本はその後の半世紀で大きく変わった。高度経済成長を成し遂げ、世界有数の経済大国となった。だが、バブルの崩壊後、デフレに陥り、そこに東日本大震災が起こった。未曽有の災害に直面している日本人が互いの絆を確かめ、復興に努力し、またデフレ脱却、憲法改正等による日本の再建を図ろうとしているところで、東京での二度目のオリンピックが決まった。今度も頑張ろう。先人、先輩の努力を振り返り、自分たちも立派にオリンピックを成功させよう。それを跳躍台として、日本が大きく発展していけるように頑張ろう。(了)
関連掲示
・上記の講話は大塚寛一先生の教えに基づくものである。大塚先生の説く「真の日本精神」については、次のページをご参照ください。
http://homepage2.nifty.com/khosokawa/keynote.htm
折しも2020年、7年後の平成32年に東京オリンピックが開催されることになった。東京でのオリンピックは、56年ぶりとなる。
9月7日の国際オリンピック委員会(IOC)総会で開催地の最終選考がされた際、わが国は総力を挙げて働きかけをした。高円宮久子様、安倍首相、猪瀬都知事、スポーツ関係者等のチームワークで、日本の良さを訴えた。東京決定は国を挙げての熱意、治安の良さ、おもてなしの心等が世界から評価されたものと思う。
東日本大震災からの復興、デフレからの脱却を課題とする日本にとって、大きな目標ができた。日本でのオリンピックは、特に若い世代、子供たちに大きな夢と希望を与えるものとなっている。またオリンピック開催は、アベノミクスの「第4の矢」と位置付けられ、経済効果が3兆円とも4兆円以上とも試算される。復興、デフレ脱却を通じて、力強く経済成長をする絶好の機会である。ここで日本精神の復興を進め、日本人の団結で、オリンピック、パラリンピックを成功させよう。
昭和39年(1964)東京オリンピックのとき、ほそかわは10歳、小学4年生だった。学校の授業で、先生がテレビ放送を見せてくれた。それを見て日本人の活躍に感動した。最初に男子重量挙げの三宅義信選手が金メダルを取り、男子体操、柔道、女子バレーボール等が続いた。自分が日本はいい国、素晴らしい国だな、と思うようになったはじめだった。
当時の日本は敗戦からわずか19年しかたっていなかった。オリンピックは焼け野原から立ち上がって、奇跡の復興を成し遂げた日本が、世界のひのき舞台へ復帰する一大行事になった。当時の日本人はオリンピックを成功させようと懸命に努力した。
現在の国立競技場のバックスタンド最上段に、東京オリンピックで使用された聖火台がある。これは川口市の鋳物師・鈴木萬之助さんと文吾さん親子による作である。納期3カ月という非常に厳しい条件の下だったが、萬之助さんは「鋳物の街、川口に恥じない物を作る」という意気込みで取り組んだ。しかし、製作工程2ヶ月にはいったところで鋳型の爆発があり振り出しに戻ってしまった。そのショックにより萬之助さんは帰らぬ人になった。納期まで残り1ヶ月。だが、わずかな期間にもかかわらず息子の文吾さんは「作らなければ川口の恥、日本の恥」という思いで連日徹夜の作業の末、納期直前に聖火台を完成させた。
昭和39年10月10日、国立競技場で開会式が行われた。昭和天皇の御臨席のもと、各国代表が列席した。この時、航空自衛隊のアクロバット飛行チーム、「ブルーインパルス」が妙技を見せた。聖火台に聖火が点火され、選手宣誓がされ、約1万羽の鳩が青空に放たれて、ぐるっと回って空に向かい、観客が空に目を向けた時に、空に五輪の輪が描かれるようにするという計画だった。だが、練習では一度もうまくいかなかった。失敗したら、日本の権威は地に落ちる。そうした中で当日、「ブルーインパルス」のチームは意を決して、埼玉県入間基地を飛び立ち、江の島方向に向かった。予定より、式典が遅れた。とにかく行くしかない。東京上空に向かった「ブルーインパルス」は、奇跡的に計画を成功させた。観客が見上げた快晴の空に、五色の輪が見事に描かれたのだった。
他にもいろいろなエピソードがある。何としても成し遂げようとする日本人の精神がオリンピックを成功させた。
この時、東海道新幹線、首都高速道路等が建設された。日本はその後の半世紀で大きく変わった。高度経済成長を成し遂げ、世界有数の経済大国となった。だが、バブルの崩壊後、デフレに陥り、そこに東日本大震災が起こった。未曽有の災害に直面している日本人が互いの絆を確かめ、復興に努力し、またデフレ脱却、憲法改正等による日本の再建を図ろうとしているところで、東京での二度目のオリンピックが決まった。今度も頑張ろう。先人、先輩の努力を振り返り、自分たちも立派にオリンピックを成功させよう。それを跳躍台として、日本が大きく発展していけるように頑張ろう。(了)
関連掲示
・上記の講話は大塚寛一先生の教えに基づくものである。大塚先生の説く「真の日本精神」については、次のページをご参照ください。
http://homepage2.nifty.com/khosokawa/keynote.htm