●消極的自由と積極的自由
自由については、「消極的自由」と「積極的自由」に分ける考え方がある。ここでそのことに触れたい。消極的・積極的と分ける考え方は、19世紀後半イギリスの哲学者トマス・ヒル・グリーンが提示したものである。グリーンは、イギリスの伝統的なリベラリズム(自由主義)が要求する国家の不干渉を求める自由を「消極的自由」とし、人格の発展のために国家に積極的な役割を求める自由を「積極的自由」とした。グリーンは「積極的自由」の実現を説き、国家の倫理的目的は個人の自由の保障にあり、各個人の自発的なる人格的成長の扶助にあることを主張した。
グリーンは、ドイツのカントの人格倫理やヘーゲルの国法哲学を摂取して、原子論的個人主義、ベンサム的功利主義に替わって、国家を積極的に認める有機的国家の思想を説いた。グリーンによれば、絶対我(絶対意識)がまずあり、自我はそれに向かって人格を形成する。絶対我は自我の自由の実現であり、国家はその実現のための道徳的共同意志の表われである。国家は人間を自由にし、生活を向上するために積極的に関与すべきものである。こうして、グリーンは、個人対国家の対立ではなく、個人に対する国家の価値を主張して、自由放任主義を改め、公共性を重んじる社会改革の道を開いた。その哲学は人格的自由主義と呼ばれる。グリーンの思想は古典的な自由主義を修正する修正的自由主義の一形態となった。わが国では戦前、1930~40年代にマルクス主義とファシズムを批判し、戦闘的自由主義者を自称した河合栄治郎に影響を与えた。
グリーンに対し、20世紀イギリスのユダヤ系政治哲学者アイザイア・バーリンは、「消極的自由」の重要性を主張した。バーリンは、1969年に公刊した著書『自由論』で、見解を述べた。バーリンによると、「消極的自由」とは「~からの自由(freedom from ~)」であり、干渉・束縛からの自由を確保しようとするものである。一方、「積極的自由」とは「~への自由(freedom to ~)」であり、理想・目標に向かって権利を拡大していこうとするものである。
古代ギリシャでは、自由はポリスの市民にとっての公的活動の自由だった。これに比し、近代的自由は、近代国家の国民にとっての私的な自由である。近代的自由は、バーリンの「消極的自由」すなわち「~からの自由」を中心としている。基本となるものは、国家(政府)の干渉・制約からの自由である。ヨーロッパでは、宗教戦争や市民革命を通じて、信教に対する「寛容の原理」としての自由が説かれるようになった。バーリンが「消極的自由」の重要性を説いたのは、こうした背景を備えたものである。近代西洋人は、「私」の領域は、政治権力の介入から解放された領域として、私的領域の不可侵性を求めてきた。これが、17世紀以来のリベラリズムである。
消極的な性格を持つ「~からの自由」に対し、ある理念の実現を目指して、集団を形成し、運動を通じて、その意思や理想を実現してゆくことにこそ自由があるというのが、「積極的自由」すなわち「~への自由(freedom to)」である。「積極的自由」は政治への参加を求める。リベラリズムは本来「~からの自由」を求めるものだったが、「~への自由」を求める運動は、民衆の政治参加制度としてのデモクラシーの思想と結びつい。ここにリベラリズムとデモクラシーが融合し、リベラル・デモクラシーが誕生した。リベラル・デモクラシーは「積極的自由」を実現しようとする思想・運動である。
「積極的自由」を実現しようとする運動は、理想や正義の積極的実現を図るとき、リベラル・デモクラシーの枠を超えることがある。集団の理想や正義を実現するためには、政治権力に参加し、さらに権力そのものを握らねばならない。その結果、権力の追求そのものが自己目的化してしまう。そのため積極的自由は全体主義に転化する可能性がある。社会主義・共産主義だけでなくファシズムも、積極的自由を徹底して追求した結果である、とバーリンは考える。
バーリンは「消極的自由」と「積極的自由」を明確に区別すべきだとしたうえで、より重要なのは「消極的自由」だと主張する。なぜなら「積極的自由」は、理想や正義の実現を目指すが、それによって全体主義に転化しかねない。その結果、私的領域の不可侵性という「消極的自由」を脅かすようになるからだ、という。
ここで私見を述べると、バーリンの自由論は、自由と平等、個人と集団という二つの対立軸が明確でなく、個人の自由の確保に帰結する。平等への配慮または自由と平等の両立の志向をよくとらえていないので、社会権の発達を自由との関係でとらえることができていない。また、社会主義・共産主義・ファシズムが出現した理由を、積極的自由を徹底して追求した結果としか見ることができていない。そのため、社会主義・共産主義・ファシズムの論理に内在した批判になっていない。単に私的領域の不可侵性を唱え、個人の自由を保持することだけに終わってしまう。これは、基本的な人間観が浅いためである、と私は思う。人格及び家族的・共同的な集団生活における人格の形成・成長・発展という概念を加えることによってのみ、この見方の限界を超えることができる。
次回に続く。
■追記
本項を含む拙稿「人権ーーその起源と目標」第1部は、下記に掲示しています。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion03i.htm
自由については、「消極的自由」と「積極的自由」に分ける考え方がある。ここでそのことに触れたい。消極的・積極的と分ける考え方は、19世紀後半イギリスの哲学者トマス・ヒル・グリーンが提示したものである。グリーンは、イギリスの伝統的なリベラリズム(自由主義)が要求する国家の不干渉を求める自由を「消極的自由」とし、人格の発展のために国家に積極的な役割を求める自由を「積極的自由」とした。グリーンは「積極的自由」の実現を説き、国家の倫理的目的は個人の自由の保障にあり、各個人の自発的なる人格的成長の扶助にあることを主張した。
グリーンは、ドイツのカントの人格倫理やヘーゲルの国法哲学を摂取して、原子論的個人主義、ベンサム的功利主義に替わって、国家を積極的に認める有機的国家の思想を説いた。グリーンによれば、絶対我(絶対意識)がまずあり、自我はそれに向かって人格を形成する。絶対我は自我の自由の実現であり、国家はその実現のための道徳的共同意志の表われである。国家は人間を自由にし、生活を向上するために積極的に関与すべきものである。こうして、グリーンは、個人対国家の対立ではなく、個人に対する国家の価値を主張して、自由放任主義を改め、公共性を重んじる社会改革の道を開いた。その哲学は人格的自由主義と呼ばれる。グリーンの思想は古典的な自由主義を修正する修正的自由主義の一形態となった。わが国では戦前、1930~40年代にマルクス主義とファシズムを批判し、戦闘的自由主義者を自称した河合栄治郎に影響を与えた。
グリーンに対し、20世紀イギリスのユダヤ系政治哲学者アイザイア・バーリンは、「消極的自由」の重要性を主張した。バーリンは、1969年に公刊した著書『自由論』で、見解を述べた。バーリンによると、「消極的自由」とは「~からの自由(freedom from ~)」であり、干渉・束縛からの自由を確保しようとするものである。一方、「積極的自由」とは「~への自由(freedom to ~)」であり、理想・目標に向かって権利を拡大していこうとするものである。
古代ギリシャでは、自由はポリスの市民にとっての公的活動の自由だった。これに比し、近代的自由は、近代国家の国民にとっての私的な自由である。近代的自由は、バーリンの「消極的自由」すなわち「~からの自由」を中心としている。基本となるものは、国家(政府)の干渉・制約からの自由である。ヨーロッパでは、宗教戦争や市民革命を通じて、信教に対する「寛容の原理」としての自由が説かれるようになった。バーリンが「消極的自由」の重要性を説いたのは、こうした背景を備えたものである。近代西洋人は、「私」の領域は、政治権力の介入から解放された領域として、私的領域の不可侵性を求めてきた。これが、17世紀以来のリベラリズムである。
消極的な性格を持つ「~からの自由」に対し、ある理念の実現を目指して、集団を形成し、運動を通じて、その意思や理想を実現してゆくことにこそ自由があるというのが、「積極的自由」すなわち「~への自由(freedom to)」である。「積極的自由」は政治への参加を求める。リベラリズムは本来「~からの自由」を求めるものだったが、「~への自由」を求める運動は、民衆の政治参加制度としてのデモクラシーの思想と結びつい。ここにリベラリズムとデモクラシーが融合し、リベラル・デモクラシーが誕生した。リベラル・デモクラシーは「積極的自由」を実現しようとする思想・運動である。
「積極的自由」を実現しようとする運動は、理想や正義の積極的実現を図るとき、リベラル・デモクラシーの枠を超えることがある。集団の理想や正義を実現するためには、政治権力に参加し、さらに権力そのものを握らねばならない。その結果、権力の追求そのものが自己目的化してしまう。そのため積極的自由は全体主義に転化する可能性がある。社会主義・共産主義だけでなくファシズムも、積極的自由を徹底して追求した結果である、とバーリンは考える。
バーリンは「消極的自由」と「積極的自由」を明確に区別すべきだとしたうえで、より重要なのは「消極的自由」だと主張する。なぜなら「積極的自由」は、理想や正義の実現を目指すが、それによって全体主義に転化しかねない。その結果、私的領域の不可侵性という「消極的自由」を脅かすようになるからだ、という。
ここで私見を述べると、バーリンの自由論は、自由と平等、個人と集団という二つの対立軸が明確でなく、個人の自由の確保に帰結する。平等への配慮または自由と平等の両立の志向をよくとらえていないので、社会権の発達を自由との関係でとらえることができていない。また、社会主義・共産主義・ファシズムが出現した理由を、積極的自由を徹底して追求した結果としか見ることができていない。そのため、社会主義・共産主義・ファシズムの論理に内在した批判になっていない。単に私的領域の不可侵性を唱え、個人の自由を保持することだけに終わってしまう。これは、基本的な人間観が浅いためである、と私は思う。人格及び家族的・共同的な集団生活における人格の形成・成長・発展という概念を加えることによってのみ、この見方の限界を超えることができる。
次回に続く。
■追記
本項を含む拙稿「人権ーーその起源と目標」第1部は、下記に掲示しています。
http://khosokawa.sakura.ne.jp/opinion03i.htm