ほそかわ・かずひこの BLOG

<オピニオン・サイト>を主催している、細川一彦です。
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人権28~西洋思想の限界

2013-01-12 08:56:58 | 人権
●自由を中心とする西洋思想の限界

 バーリンの自由論に欠けているものーーそれは人格の概念である。第1章の人権の基礎づけの項目に書いたように、人間には人格がある。個人に人格を認め、人格の形成・成長・発展をめざすことは、個人における精神的価値の増大を促すことである。精神的価値とは生命的・物質的価値に加えて、理性的・感性的かつ霊性的・徳性的な精神の働きが生み出す価値である。また、人間には自己実現の欲求がある。自己実現の欲求とは、人間に内在する人格的な欲求であり、その欲求が働くとき、人は自己実現を目指して、自らの人格を成長・発展させようとする。その過程は、精神的な価値の実現の過程である。
 自由は、こうした人格の成長・向上の条件であり、それ自体が目的ではない、と私は考える。個人を人格的存在ととらえ、人格の形成・成長・発展のために、国民に自由と権利を保障しなければならないものが、政府である。政府は、国民の子供の人格形成のため、教育を施す義務を負う。また、国民の人格の発展を促す環境を整備する責務を負うべきものである。この点、グリーンの人格的自由主義は、今日再評価されるべきものと思う。
 グリーンとは異なり、バーリンは、「積極的自由」は理想や正義の実現を目指すことによって全体主義に転化しかねず、その結果、私的領域の不可侵性という「消極的自由」を脅かすようになる、という。しかし、人格の形成・成長・発展のための公教育の実施や国家的な環境整備は、必ずしも全体主義に転化するものではない。権力の追求そのものの自己目的化や全体主義への転化は、自由の追求とは別の観点からとらえなければならない問題である。すなわち、官僚制、権力欲、大衆心理等の観点を加える必要がある。グリーンとバーリンの思想の違いには、もう一つ私が推測するにグリーンがイギリスのネイション(国民共同体)の人格的発展を目指すのに対し、バーリンは西欧社会におけるユダヤ人の自立の確保を目指すという違いがあるだろう。
 近代西洋で自由を主要な価値とする代表的な思想が、リベラリズム(自由主義)である。17世紀から21世紀に至り、現代のリベラリストの多くは、自由の基本原理は、他者への寛容にこそあるという。多様性の尊重は「消極的自由」の延長上に出てくるものである。その行きつく先は、個人の選好の尊重となる。個人の自由の優先は、伝統的な社会道徳や公共の利益と対立する。また、個人の欲望を制限なく解放するものとなりかねない。
 人権の核心には、自由がある。ロックもルソーもカントもヘーゲルもマルクスもその後の多くの欧米の思想家も、求めるものは自由だった。彼らはそれぞれの人間観、社会観、世界観に基づいて自由を追求した。だが、現代の先進国においては、自由は欧米市民革命期のように絶対王政の抑圧からの政治的自由や、人格的道徳的な向上の目標としての精神的自由ではなく、欲望の解放と個人の選好の尊重を意味するものへと矮小化されてしまっている。
 バーリンの「積極的自由」は全体主義への転化可能性を持つ一方、「消極的自由」は個人主義の極端化を招く恐れがある。問題は両者とも、自由を中心的な価値とし、それに傾いた議論になっている点にある。私は、人間には人格があることを認め、自由に関する議論には、個人の人格の成長・向上を促進する社会を目指すという目標を立てる必要があると考える。

●自由は人格発展の必要条件

 先に人権の基礎づけを試みた際、人間の尊厳と個人の人格を踏まえる必要があると述べたと書いた。自由は、人格の形成・成長・発展のための必要条件であって、それ自体が目的ではない。内心の自由であれ行為の自由であれ、積極的自由であれ消極的自由であれ、自由はその自由を以て何か目指すための条件である。個人の自由は、個人的存在であるとともに社会的存在である人間が、家族を基礎とした集団生活を送りながら、相互的・共助的に自己実現を目指すために必要な条件である。個人の自由は、目指すべき目的そのものではない。
自由は絶対的な価値ではない。相対的な価値である。個人の自由を絶対的な価値と考えると、社会的な不平等を生む。また個人と集団との対立を生む。自由と平等、個人と集団のバランスの中でしか、自由という相対的な価値は承認されない。西欧にも、個人の自由より集団の共同性を重んじる思想があり、アジア・アフリカでは、個人の自由より集団が発展する権利を求める運動が行われてきた。自由という理念は、自由と平等、個人と集団という対立軸が交差する空間の中に位置づけられねばならないものである。
 人間は個人的存在であるとともに、社会的存在である。人間は、家族という集団を構成する。個人は家族の一員として生まれ、家族において成長する。個人は親子・兄弟・姉妹・祖孫等の家族的な人間関係において、人格を形成する。そして親族や地域等の集団の一員として、そこにおける社会的な関係の中で、人格を成長・発展させていく。
 権利については、後で具体的に述べるが、近代西欧では、個人の自由と権利の保障・拡大が追及された。だが、権利もまたそれ自体が目的ではない。人格の形成・成長・発展こそが、目的である。自由と権利は、人格の形成・成長・発展のために必要な条件であり、また条件に過ぎない。条件と目的を混同してはならない。国家が国民に自由と権利を保障するのは、個人を人格的存在ととらえ、人格の形成・成長・発展のために、自由と権利を保障するというものでなければならない。
 自由と権利の保障は、個人の欲求を無制限に認めるものではない。人間は人格的存在であるという認識を欠いたならば、自由は放縦となり、権利は欲望の正当化になる。人権という言葉は、今日しばしば放縦や欲望の隠れ蓑になっている。人格は、自己にだけでなく、他者にも存在する。人は他者にも人格があることを認め、互いにそれを尊重し合わねばならない。個人の人格の発展は、自己のためのみでなく、他者のためともなり、また社会の公益の実現につながるものでなくてはならない。自他は互いに人格の成長・発展を促す共同的な存在であり、自由と権利は相互的な人格的成長・発展のために、必要な条件として、保障されるべきものである。私は、人格という概念を掘り下げることなく、自由と権利を人権条約や各国憲法で保障することは、個人の自由と権利が目的化されてしまい、利己的個人主義を助長するおそれがあると考える。
 さて、ここで無視されてはならないのは、経済に関する問題である。人格の成長・発展という目的は、単に精神的な生活において追求できるものではなく、物質的な生活が維持されてこそ、可能である。それには、自由と道徳に関する議論を加えねばならない。バーリンは「消極的自由」が重要と主張するが、「消極的自由」だけでは、経済的領域における自由主義の弊害に対処できない。とりわけ1980年代から新自由主義が世界を席巻し、市場原理主義が富の偏在や格差の拡大をもたらし、2008年のリーマン・ショック後、世界経済が出口の見えない混迷に陥っている今日、経済的自由による個人的な利益の追求と公共的な利益の実現の調和が強く求められている。そこで取り組むべき課題が、経済的自由への規制である。この課題は、単に経済活動に関するものではなく、自由と道徳という対に関わる課題である。次に、その点について述べたい。

 次回に続く。