岩手の頑固親父

恵まれた自然、環境に暮す 老農のつぶやき、ぼやき

「おしん」・・・・感動!

2019-12-14 11:22:27 | いなか暮し

 あまり見ないテレビだが、日曜の「笑点」とBS朝「おしん」は必ず見る。
 「おしん」が始まる時刻に、朝食をあわせ、一回目の放送も感動して観たと思うが、再放送の今も再び感動している。
 12月に入って舞台は、終戦前後の辛い時期となっている。

 私の住む地区では平成6年、 終戦50年を機に「平和記念碑」が建てられた。
 鎮守の境内の一角に大きな石碑が建てられ、碑文と共に、200余戸の狭い地区から、昭和6年から20年の終戦までの15年戦争に約200名の従軍者を出し、そのうち、約60名の方が戦死、従軍した方と戦死された方々の名前が刻まれた。
 「平和記念碑」建立と同時に発行された、「太平洋戦争体験記」は、従軍者家族、従軍者の経験した、それぞれの苦難の事実の記録を分厚い本にまとめて発行された。
 今、「おしん」の放送と併せて読み返している。

 戦争を良く知らない我々年代は、終戦と同時に翌日から平和が訪れたと勘違いしやすいが、戦時中からの物資の不足、終戦後の混乱、抑留生活を長く送った人たちも多く、辛い空腹、寒さ、重労働の体験を綴った方も多い。

 戦死者の中には17才と言う少年も含まれ、その多くは20から30代の若い人たちが多い。
 息子を戦地に送り出した後、武運の神様と言われる、近在の八幡さま7ヶ所を無事を祈ったお詣りを続けた人。
 出征を前に急きょ結婚式を挙げて、僅か20日あまりの新婚生活から夫を戦地に送り出した人。
 昭和19年に召集され、終戦から大陸に抑留され昭和28年3月に復員した方は、地区で最も遅い復員、帰郷だったように思う、戦中生まれの私は小学3,4年だったろうか、駅まで迎えに出た記憶がある。
 長い抑留生活を寒さ、空腹に耐え、再び故郷で妻や子と会える日を夢見て、昭和28年春、舞鶴港に上陸、故郷に戻った。
 駅頭に迎えに出た地区の大勢の人たち・・・・大勢の人たちの中に、妻や娘が見当たらない。
 再開を夢見た、妻、娘は帰郷を待たずに、二人とも、すでに病死していた。
  手記を書いた方々は、殆どお年寄りの方々であり、地区内の顔を知る人たちだけに読むのも辛い。

 戦中戦後の辛い時代を過ごした大先輩の方々は地域をつくり、日本の再建を果たした。
 そんな人たちも数少なくなった。
 「平和記念碑」建立から何年かして、設立の代表者だった方が、お盆に、息子さんの運転する車で、戦死者遺族の家々訪ね、線香をあげて回った。
 戦中戦後、苦労した人たちの大きな区切りの日だったのかもしれない。

 今朝も「おしん」は戦後の苦労を重ねている、胸が締め付けられる思いでテレビに見いる。

 
 

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