通いなれた釜石線沿線の景色、ここ20日余りでもう3回目、すっかり春の景色、日差しが明るくなっている。
釜石からのリアス線、日曜なのに・・列車が混んでいたが鵜住居でほとんどが降りた、復興スタジアムの方では赤や黄の旗がいっぱい、そうか今日は釜石シーウェブスの試合の日だ、応援の人たちだった。
釜石からリアス線30分「波板海岸駅」で下車、片寄波をイメージした可愛い駅舎が迎えてくれる。
今日はここから歩き始める。「・・トレイルガイド」はここから高さ600㍍余りの鯨山を目指すとあるが、あえて45線沿いを北上する。
目的は四十八坂海岸を満喫するためである、三陸自動車道を車で通ると、あっという間の景色である。
今日はゆっくり四十八坂海岸を楽しむ
明るい空、青い空、海 満喫 々!
快調に北上、歩くこと2時間、やがて「道の駅やまだ」三陸沿岸のお土産は「かりんとう」と、帰りの車中のビールをリュックにしまい込んで、おにぎり昼食、コロナも一段落のせいか「道の駅」は大賑わい。
午後の部スタート、右手に「海と鯨の博物館」、山田名物「カキ小屋」の案内も・・・どうしてなんだろう、好き嫌いは一切ないが「カキ」だけは絶対にダメである。若いころは大好物で何ともなかったのに、生カキは勿論、フライでもダメ、必ず腹が痛くなる。
ガイドに従って織笠駅に向かう、遠回りのような?・・・・出会った人に聞いたら「行けないことはないが・・・」と近道を教えてくれた。「織笠駅」を経てテクテク、やがて「陸中山田」市街地。
山田町・・ここは私たち一族の伝説の地でもある。
昔々のもっともっと昔、九州の有力一族、菊池武敏に南朝二代、後村上天皇から武敏を指名で「至急、吉野に上るべし」との勅宣、同じく出仕を命ぜられた南部家五代、南部政長とともに吉野に到着。
吉野朝廷は陸奥への進出は南朝の御威光による陸奥の武士団の参集、協力を目指すべく、大塔の宮の遺児、八幡丸良尹王を派遣すると決め、その補佐役として菊池武敏と南部政長を任命した。
勅命を拝して興国3年石巻を経由して翌年、山田町の山田湾の高台に船越御所を用意して迎えた。
その後も南北朝騒乱は56年にわたったが明徳3年、ようやく終止符が打たれ、南朝方の衰退により、九州から派遣されていた菊池衆は岩手県内に土着したと伝わっている。わが一族の先祖ではないだろうか?・・・・ということで山田町には思い入れが深い。
山田駅には予定より30分ほど早めに到着、親切な若い女性の駅員さんが「まだ時間がありますから、かけてお待ちください」ソファを勧めてくれた」待合室でこんな立派なソファは初めて。
やがて帰りのリアス線経由釜石線、3月に入っての日曜、大きな荷物の乗客が多い、ガラ空きだったら車内でビールは無理だった・・・18時新花巻に着いたらほとんどの乗客は降りた、新幹線の乗り換えなんだろう、3月の陽気に誘われた観光客が多いようだ。
今日一日歩いても20㌔に届かない、「みちのく潮風トレイル」全長1千キロ・・・・・ゴールは気が遠くなるほど遠い。
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