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世界遺産と日本/世界の町並み w/IT

世界遺産と日本/世界の個性的な町並みをITを交えた筆致で紹介します。

浅草と覇を競った新開地はかつての繁華街の雰囲気はなくなりましたが、文化の発信基地としての性格は残されているようです

2024-11-03 08:00:00 | 日本の町並み
 前回は山陽電鉄の支線の網干駅の周辺を紹介しました。山陽電鉄は筆者が大学生の頃の昭和43年までの神戸側の起点は兵庫駅でした。神戸の私鉄ターミナルは、山容の兵庫駅のほか、阪急は三宮、阪神は元町そして神戸電鉄は湊川とバラバラでしたが、昭和43年にこれらのターミナルが結ばれました。神戸高速鉄道という駅と線路のみの鉄道会社で4つのターミナルを結び、相互の乗り換えが格段に便利になりました。高速鉄道の路線で阪急、阪神と山容とを結ぶ線路は東西線、神戸電鉄と結ぶ線を南北線と呼びその接続点が新開地駅でした。今回はその新開地駅周辺を紹介します。

 
 
 
 新開地は、もともと流れていた湊川の流れを西にまげて、それまでの川の跡を新しい町としたための呼び名で、新しい町は一大歓楽街となりました。最盛期には東の浅草、西の新開地とまで言われたそうですが、現在はどこにでもある商店街にポツポツと映画館などが割り込んだ風景になっています。北は神戸電鉄の湊川駅あたりから南はJRや旧西国街道との交点あたりまでを指すようですが、南北の中間あたりを通る多聞通を境に南と北とで顔が違いました。この交差点にはRoundOneのボーリング場になっていますが、かつては聚楽館という総合遊技場がありました。映画館だけでなくアイススケート場もあって、よく滑りに行ったものです。新開地の駅は多聞通と新開地通りの交差点をやや西に行った地下にあり、多聞通は大開通と名前を変えます。高速神戸駅との間は地下通路になっていて、卓球場や商店、それに街角ピアノまで置かれてありました。

 
 
 
 新開地商店街の北端には現在は楠公像と時計塔が建っていますが、昭和43年までは神戸タワーがありました。神戸のタワーというと現在はポートタワーですが、ポートタワーが建つ40年以上も前に規模こそ小さくても観光タワーが建っていたことを知る人は少なくなりました。一方、南側には新開地アート広場という施設があって、ホールやギャラリーなどの文化の発信場所になっています。形は変わっても新開地は文化の発信基地という性格は残っているようです。筆者が訪れた時は、地下街を模写したような模型があって、エレベータと思ってボタンを押そうとしたら壁だった、といった雰囲気でした。

 
 
 新開地駅の西側には、同じ名前の有名な神社の親戚の神社が2件あります。一つは大開駅にほど近いところにある生田神社兵庫宮で、生田神社は中央区の三宮にありますが、こちらは祭礼の時の御旅所で神様が休憩されるところです。こちらの神社が変わっているところは、鳥居から本殿への参道が途中で45度曲がっているところだそうです。もう一つは新開地駅の南にある厳島神社で、清盛が兵庫津に在住のに夢枕に広島にある厳島神社の厳島明神が現れ兵庫津の繁栄のためにここに厳島神社を建てよとのことでできた神社だそうです。

 高速神戸と新開地を結ぶ地下街はせいぜい800m程ですが、最も長い地下街と言われる東京の大手町から東銀座までは2.3km程もあります。地下街は雨が降った時にも傘が無くても歩けるので重宝ですが、外の景色が見られないといった欠点もあります。デパートやホテルでは従業員の部屋は外が見えないところが多く、雨が降っているかどうか判らないことが困るそうで、その解決策として通路に電光掲示板を置いたり、それとなく雨の曲を流したりしたそうです。ただ、現在ではほとんどの人がスマホを持っているでしょうから、Singing in the rainの浦が流れるといった粋なことは無くなったでしょうか。

山陽電鉄の網干駅の北側には、南側の古い町並みとは違う、どこか懐かしい民家が点在しています

2024-10-20 08:00:00 | 日本の町並み
 前回は伊豆箱根鉄道の大雄山線の名前の元になってい大雄山最乗寺を紹介しました。この大雄山線は大雄山道了寺の参詣のために1921年に小田原からの線路が惹かれましたが、1956年になって大雄山駅の手前500mの所に新しい絵k時としてフジフイルム前駅が開業しています。フジフイルムの足柄工場の開設は1935年ですから、だいぶ遅れて駅ができたわけです。足柄工場はフィルムの国産化を目指して設立された製造拠点で、フジフイルムホールディングスになる前のフジフイルムの登記上の本社となっていました。このフジフィイルムは、現在では押しも押されぬ世界的な企業ですが、創業時は大日本セルロイド(ダイセル)の小粥氏でした、フィルムベースとして当時はセルロイドだったからかもしれません。このダイセルの前身の日本セルロイドの創業工場があったのが網干です。今回は、以前に紹介した工場のあった、山陽電鉄の網干駅の南側ではなく、駅の北側を紹介します。

 
 
 網干という駅はJR山陽本線にもあり、車両基地があって大阪方面から網干行の電車も多く見かけます。しかし、網干町の中心街はJR駅の南3km程で私鉄の山容電鉄の網干駅近傍で紹介するエリアもこちらになります。山陽電鉄の本線は姫路から出ていてますが、神戸方面から姫路に向かって大きく北に曲がる飾磨からそのまま西に直進するのが網干線で飾磨との間の単線を3両編成の電車が往復しています。以前に紹介したダイセル異人館は、網干駅の南側にあって、明治末期に建てられた下見板張りの外国人技師住宅が2棟建っています。そのうちの1棟はセルロイド資料室として公開されていて、黒いキューピー人形が置かれています。周辺には陣屋跡など古い町並みがあって、すでに紹介済みです。

 
 
 
 今回紹介するのは、駅の南の町並みほど古い町並みではありませんが、駅の北側500m程のところに点在する土蔵造りの民家です。ほとんど話題にもならない野でしょうが、どっひりとした白漆喰塗りの家屋や、板壁の家屋など、なかなk趣があります。また、漆喰で塗られた白壁の塀も、ところどころが崩れていたりして愛嬌があります。このような風景は、かつては日本のどこでも見られたようにも思いますが、今では希少価値となり、懐かしさをおぼえる風景になりました。

 セルロイドというのはニトロセルロースと樟脳から作られる世界最初の合成樹脂と言われていますが原料に高分子のセルロースが使われていることから現在では半合成樹脂と呼ばれています。原料のニトロセルロースは綿花役として大砲に火薬としても使われたもので、セルロイドは燃えやすいという欠点が付きまといました。また、ニトロセルロースが元のセルロースと硝酸に戻ってしまう劣化もあって、便利だけれど欠点も多い材質でした。かつての映画フィルムはセルロイドが使われていたため、フィルムライブラリーに保存されている情報を後世にどのように伝えるかが問題になっているそうです。電子データ化するのがよさそうですが、大変な手間がかかりそうです。ただ、電子化しても記録された情報の保存性はよくなるでしょうが、未来において映像データの圧縮アルゴリズムなどが変わらないという保証はなく、記録はあっても再生できなくなる恐れは十分にありそうです。

箱根とは山を隔てた東側には、境内に天狗が履いたという巨大な下駄が置かれている大雄山最乗寺があり、晩秋のモミジも見どころです

2024-10-06 08:00:00 | 日本の町並み
 
 前回は首都圏に近いミシュラン3つ星の高尾山を紹介しました。現在はハイキング気分で気軽に登る山ですが、かつては天狗の住む修験道の修行の山だったようで、その名残の天狗の面や銅像が建っています。同じように天狗の像やお奠供が履いたという巨大な下駄が置かれているのが神奈川県の大雄山です。こちらはケーブルカーは無いので自分の足で歩く必要がありますが、モミジの頃は天狗の顔、顔負けに境内が真っ赤に染まります。今回は東京からも近い大雄山最乗寺付近を紹介します。

 
 
 
 
 大雄山は、小田原から伊豆箱根鉄道の大雄山線に乗って終点まで、そこからバスで3kmほど行った終点から標高差60mほど上った所が本堂になります。この道の両側は杉並木で近くの箱根旧道を思い起こします。ハイキング気分で上っていきますが、最後が急な石段で少々しんどい気分です。高尾山薬王院と同様にこちらの寺も国指定の文化財は残されていませんが、神奈川県唯一の多宝塔は一見の値打ちがありそうです。お寺は14世紀に創建され関東での通幻派と屋ばれる宗派の一大拠点で、通幻派は土木事業で民意をつかんだとされています。最乗寺は地元では道了尊と呼ばれ、バスの終点の名前も道了尊となっています。この道了禅師もこの地で土木事業を行ったそうです。

 
 
 
 さて天狗の像ですが、山内に3体の天狗像が置かれています、大天狗像は山ずしの姿、子天狗像はくちばしを持つ烏天狗の像、そして3体目は道了尊が天狗に化身をしたといった姿で作られています。高尾山とは異なるのが天狗の履いているという下駄で、2か所に置かれています。一か所は大小さまざまな下駄が所狭しと置かれていて、小さなものは通常の人間でも履けそうな大きさです。もう一か所は一対だけなのですが、世界最大の下駄と言われる巨大なもので、人間の背丈ぐらいもあったでしょうか、重さもずいぶんとありそうで、天狗でも履いて走り回れるか疑問ですね。

 現代人は下駄をはかなくなりました、カラコロといったノイズのために下駄での入館を禁止するところまであります。天狗は一本歯の下駄を履いて野山を駆け回ったともいわれていますが、一本歯ではありませんでしたが通常の下駄で大山を登山をしている人がいました。この下駄は、靴などと比べて健康に良い履物であると言われています。外反母趾や水虫とは縁遠い履物のようで、自然をねじ伏せるのではなく、自然と協調する東洋文化の象徴のようなもののひとつでしょうか。現代の日本でも、コンピュータやIT技術で自然をねじ伏せる文化が大勢を占めていますが、自然と協調する文化も残してほしいものです。ただ、静かな環境のところに大音響でカランコロンと雑音を振りまくのはごめんこうむりたいですが。

山腹に道路の穴を開けられて天狗も困惑したかもしれない高尾山ですが、都心近くの残された自然として貴重です

2024-09-22 08:00:00 | 日本の町並み
 日本で唯一、釈迦の生母である摩耶夫人を祭るお寺があるのが摩耶山でした。摩耶山はさほど標高は高くなく歩いて上る登山客が多いのですが、ケーブルカーを利用すると楽ができます。このケーブルカーは、日本で2例しかない、2度も休止になったケーブルです。多くのケーブルカーは戦時中に休止に追い込まれましたが、摩耶ケーブルでは阪神大震災で使節が被害にあって6年間の2度目の休止を経験しています。鉄道事業法に基づくケーブルカーは全国で21路線がありますが、市と県から最も近くミシュランの3つ星を獲得した山に登るのが高尾山ケーブルです。今回は、このケーブルの周辺を紹介します。

 
 摩耶山の標高が702mに対して高尾山は599mとやや低く、この標高を600mにすべく登山者に土を渡して頂上に積もうかといった、笑い話のような案も検討されたことがあったそうです。ケーブルの標高差も摩耶山は312m、高尾山が271mと小さいのですが、高尾山ケーブルは608‰という日本で最も急な勾配区間を持っています。

 
 
 
 高尾山ケーブルの麓の清滝駅には新宿から京王線が通じていて高尾山口で接続しています。この駅の近くには高尾山トリックアート美術館もあって、有名な絵などの一部の中に自身を溶け込ませることができ、高尾山の自然とは真逆の面白い体験ができます。京王の駅とケーブルの駅との間には古民家が残り、古いお町並み散歩の気分にもなれます。ケーブルで上っていくと、遠くに東京の町並みが見えて、摩耶山の海が見えてくる風景とは趣が違います。

 
 
 
 
 
 頂上には8世紀に創建された薬王院があって、創建時に本尊として薬師如来がお祭りされたことからその名前が付けられています。その後の14世紀には飯縄権現を守護神とする修験道の道場として反映してきました。修験道で修行者は山伏と呼ばれていますが、この山伏は天狗と同一視されることが多く、薬王院の境内には烏のような口をした天狗の一種である烏天狗も含めて面や像が置かれています。これだけ大都会に近いところに天狗が出没するのも驚きですが、江戸幕府ができる前は人里離れた新参だったのかもしれません。園新参のどって腹に穴を開けてしまったのが圏央道で反対運動も興りましたが、地元の車所有者からは便利になったとの評価です。俗歌の波が足元まで迫っているような高尾山ですが、山上や登山道には可憐な花が咲いて自然が残されています。このように便利さを備えた自然が評価されて3つ星となったのでしょうか。

 修験道の開祖は役行者とされていますが、伝説上の人物であることから創建年代はあいまいなところが多井のですが、仏教や道教に日本の民間信仰を寄せ集めた宗教です。言座の分類では仏教ということになっていますが、現代に流布している仏教も含めて釈迦の哲学である仏教徒は程遠いものがあります。修験道の修行者は山伏の格好をして野山を駆け回って修行しますが、道路や地図といった道具のない時代に迷わずに行動できたのが不思議です。おそらく、現代人からは失われた土地勘のような

蕪村の見た摩耶山の下界の菜の花は見当たりませんが、麓の桜や天上寺の沙羅双樹の花が楽しめます。

2024-09-08 08:00:00 | 日本の町並み
 柿本人麻呂がかぎろひの歌を詠んだところが大宇陀でした。この歌は東のかぎろひの空から西の月の空まで全天をカバーする雄大なものです。人麻呂の歌は東の太陽、西の月と夜明け前の時刻ですが、東に月、西に太陽と夕方に全天を詠んだ蕪村の「菜の花や月は東に日は西に」の俳句が思い起こされます。この俳句の詠まれた場所を調べてみたところ、諸説あるようですが、同じ蕪村が「菜の花や 摩耶を下れば 日の暮るる」という句を読んでいることから、神戸の摩耶山近郊の説が有力のようです。今回は、この摩耶山周辺を紹介します。


   
 菜の花の原産地は北欧、地中海沿岸それに中央アジアだそうですが、東アジアの雰囲気のする花ですが、からしの原料になるからし菜もアブラナ属で似たような花を付けます。葉を食べる野菜はアブラナ属が多く、ブロッコリーなどもほっておくと菜の花のような花が咲きます。インドを旅した時に、一面の菜の花畑だ!と思ったら、辛子の畑だったようです。菜の花畑の景色で世界的に有名なものは中国の羅平の段々畑で、足の便は悪そうですが一度行ってみたいものです。羅平程ではありませんが、見渡す限りの菜の花畑を韓国の慶州で見ましたが、かなり見事です。我が国の首都圏では、権現堂堤の菜の花が桜との共演で見事です。

 
 さて、句に詠まれた摩耶山ですが、摩耶山から見える下界は住宅街になってしまって畑など痕跡すらありません。代わりに、権現堂堤で共演した桜の並木が見事で、神戸でもお花見の場所の一つになっています。摩耶山に上るためのケーブルカーの麓駅まで行くバスに乗ると、麓駅から下るバスはこの桜並木をかき分けて下っていきます。

 
 

 蕪村が句を詠んだのが摩耶山のどのあたりか浴は分かりませんが、現在の摩耶山には力づくで徒歩で上る方は別として、一般的には麓駅からケーブルで虹の駅まで上り、ここからロープウェイに乗り継いで星の駅まで行きます。ここから先は六甲山まで続くドライブウェイがあって、途中に観光牧場などがあります。摩耶山から神戸を俯瞰すると、やや東に寄っていて東神戸から阪神間を眺める感じになります。神戸の中心街を俯瞰するのであれば、もっと西の諏訪山にある金星台が最適です。虹の駅からの方が市街地に近いのですが、下界に咲いている菜の花が判別できるかはちょっと疑問です、蕪村は麓に近いところから詠んだのではないかと思います。

 
 ケーブルの虹の駅近くには、戦前に建てられた摩耶観光ホテルの残骸があります。モダニズム建築として、廃墟であるにもかかわらず国の登録文化財になっているという珍しいたてものです。廃墟マニアがバリケードを乗り越えて不法侵入するようですが、一般人はロープウェイアや展望台から遠望するしかありません。

 
 
 
 ロープウェイの星の駅からは、歩いて15分くらいで忉利天上寺があります。元は虹の駅と星の駅との間の鞍部二ありましたが、1976年に再選泥棒の放火によって全焼し、現在位置に転居再建されました。釈迦を生んだ摩耶夫人の像を本尊とする日本で唯一のお寺で、摩耶山の名称もこの像の存在からだそうです。境内には仏教の三大聖樹野一つで、平家物語の冒頭にも出てくる沙羅双樹が花をつけていました。ただ、本当の沙羅双樹はインド原産の熱帯樹で日本では育たないため、似ている樹として夏椿が代用されています。天上寺の花もこの夏椿と思われます。

 天上寺にある摩耶夫人像は1976年の火災で焼失し、現在の像はその後に復刻されたものだそうです。最近は重要な絵画などはディジタル・スキャナで精巧なデータが取られ、プリンタですぐに複製が取れてしまいます。おそらく、仏像なども3次元のデータ採取で3次元プリンタで同じ形のものが簡単に作れてしまうのではないかと思います。東博では前者は応挙館の襖絵で、茶室にはレプリカの襖が置かれています。一方の仏像では、薬師寺の聖観音のレプリカが置かれていますが、これは明治時代に山田鬼齊にによってブロンズの本物に対して木彫で作ったもので、レプリカと言っても独立した芸術品です。

冬の寒い朝に見える可能性が高い大宇陀の「かぎろひ」ですが、朝が早いので暖かい吉野くずをすするのは無理かもしれません

2024-08-25 08:00:00 | 日本の町並み
 秘仏で巨大な蔵王権現像の存在感に圧倒されるのが吉野金峰山寺でした。お寺の周りには吉野くずの店が数多く建っていましたが、吉野くずの原料は吉野ではなく山を東に下った大宇陀なんですね。今回は、吉野くずの産地である大宇陀周辺を紹介します。

 
 大宇陀は、吉野から直線距離で北東方向に10kmほどですが、山が連なっていて鉄道で移動する場合は、この山塊を右回りに大きく迂回する古都になります。近鉄ばかりですが吉野から北に橿原神宮まで乗り換えてさらに北の大和八木に、さらに乗り換えて東に榛原まで行って、そこからバスで南に下ります。もうちょっとで長方形の四辺を廻るような感じです。行政的には人口が9万人足らず50㎢もある宇陀市に属していますが、2006年に合併によって生まれたもので、吉野葛のお店が並ぶ大宇陀の町はちょっと歩くと町はずれといった感じのこじんまりとした所です。今では静かな田舎町ですが、江戸時代には松山城が建つ城下町でした。唯一の名残が松山西口関門で、京都の色町の門のような感じがします。

 
 
 
 吉野くずを売っている店が並ぶ古い町並みはその松山西口関門の東200m程を南に1km程の曲がりくねった道で、土蔵造りや子牛のある家並が続きます。この家並には吉野葛の店はさほどではなく、数が多いのは和菓子屋で、造り酒屋もあります。薬草園を持つ薬屋の店舗もあります。

 大宇陀というと、万葉集に歌われ百人一首にも入っている、柿本人麻呂の「東の野に炎の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ」の和かが読まれた場所と言われています。東に日の出前の炎が、西の空には入り残る月と大きな空の全円周が歌われた広大な歌のように思います。古い町並みを西に河を越えた小高い丘にかぎろひの丘万葉公園があり、人麻呂の歌碑が立っています。この丘からは、大宇陀の町並みを足元に見渡せ、かぎろひが立てば見事だろうと思います。ただ、人麻呂がこの場所で歌を詠んだのかどうかは判りませんが。

 かげろひは語源的にはカゲロウと動ルインのようですが、かげろうが夏の暑いときに地表の温度が上がることでできる光の回折現象に対して、かげろひは冬の寒い朝に東の空が赤く燃える朝焼けの一種です。大宇陀では毎年2月11日の早朝にかげろひを見る会が開かれているようです。統計的に大宇陀ではかげろひが出る気象条件の特異日のようです。冬なので日の出は多少は遅いでしょうが、1時間前にかげろひの丘に行くのは、大宇陀に泊まるか車が無いと無理でしょうね。ただ、準備万端で当日に望んでも、かぎろひが現れないこともあるのでしょうか、これって気象予報で使われているスパコンで予測はつくのでしょうか。チャットGPTIといっても、誤った情報もあふれるネットから情報を集めるだけで、土地の長老の第六感には負けるのではないかとも思います。

桜は見事ですが混雑をする桜の時期を外して訪れても価値がある吉野です

2024-08-11 08:00:00 | 日本の町並み
 小豆島は伝統的な製造方法で作られる醤油の醸造所の多い所でしたが、その製造の要になるのが杉桶でした。伝統製法が衰退して木桶の製造も耐えてしまう寸前の危機を回避させたのが小豆島の醤油醸造書の跡取りで、島に自前の木桶の製造拠点まで作ってしまったそうです。木桶に使われるのは、屋久島の縄文杉ではなく、奈良県産の吉野杉です。今回は、難聴の花が開き、春は千本単位で咲く吉の桜の郷である吉野を紹介します。

 吉野は大阪起点では意外と遠くて、まずは天王寺の南にある近鉄の阿部野橋から南大阪線の特急に乗って1時間20分ほど、特急料金の要らない急行では1時間半ほどの終点の吉野からロープウェイで3ふんで上ったところです。通常は、ロープウェイで上った金峰山寺屋千本櫻のあるあたりが観光客が行く吉野なのですが、広義の吉野は高地、盆地それに山岳地帯からなり神奈川県に匹敵する面積だそうです。今回紹介のエリアはさすがに、その広さは無理でロープウェイで上ったあたりになります。

 
 
 
 駅から少し行ったところにあるのが、蔵王権現堂で木造建築としては東大寺大仏殿に次ぐ巨大さで、街並みの上ににょっきりと現れます。道内には秘仏とされている蔵王権現増3体が安置さrていて、彩色も鮮やかに残り巨大さもあって存在感には圧倒されます。秘仏といっても、かなりの期間は開帳されているようで、大仏を拝観するよりも感動するかもしれません。

 
 
 
 
 金峰禅師から吉野神社にかけては古い町並みが残り、名物の吉野葛のお店も並んでいます。ただ、この吉野葛は地名は吉野とついていますが、産地は少し東の大宇陀なのだそうです。また、夏の暑いときには冷やしたくずもちと思いますが、お店屋さんの話では冷やしすぎると液体状態に戻ってしまうとのこと。また、民間療法の胃腸薬として有名な陀羅尼助の店もありました。

 
 吉野といえば、秀吉も花見に行ったという桜で下、中、上それに奥の千本と名称からは4千本の桜が麓から順に咲き、開花期が長い古都でも知られています。ただ、吉野は行き止まりの地形なので桜の頃は大渋滞を覚悟する必要がありそうです。

 
 また、吉野といえば南北朝時代に難聴が置かれた場所で、その御所として使われたのが、吉水神社で多くの遺構があります。書院には後醍醐天皇の玉座や、義経が潜伏したとされる部屋が残されています。

 
 
 
 山上には蔵王堂、吉野神社のほかに竹林院、桜本坊、吉野水分神社など数多くの寺社が立ち並び、寺社の隙間に民家が経っているという漢字もします。建物や庭園など、見ごたえのある場所も多く、桜の季節以外にも訪れたい場所の一つです。

 蔵王権現道の秘仏である蔵王像は比較的会長の機会が多いように思いますが、世の中には絶対秘仏という仏像があって、厨子が開かれたことがない仏像があります。こお仏像って、本当に存在するんだろうか??って疑いたくもなります。見せないことで権威付けをしているようで、好ましくありません。スキャナーで捜査して、内部を暴きたくなります。博物館には巨大なCTスキャンで、厨子の中ならずとも仏像の中身も見られる装置があって、内部構造や、像内納入品などがわかるそうです。罰が当たると言われるかもしれませんが、そもそも釈迦は偶像の存在は否定しているんです。

小豆島の特産品の塩を原料として醤油産業が興り、その醤油を原料として佃煮が名産品となるという食物連鎖ならぬ産業連鎖で島が栄えてきたのですね

2024-07-28 08:00:00 | 日本の町並み
 小豆島の特産の一つである花崗岩でできた石垣を利用したものが中山の千枚田であり、池田の桟敷でした。小豆島の特産は、石材だけではなく島を有名にしたオリーブや素麺そしてその素麺を作るためのごま油などがあります。さらに、江戸時代に全国で2位の生産量を誇った製塩業が栄えましたが、競争の激化で、その塩を利用した醤油産業が起こり、その醤油を原料として戦後には佃煮が名産となりました。今回は神戸と高松を結ぶフェリーが寄港する坂手港の北に広がる醤の郷を中心に数多くの醤油蔵が並ぶ町並みを紹介します。

 
 20年ほど前には神戸港から坂手港に高速船が運行されていて便利だったのですが、車載フェリーのルートが増えたせいか、旅客専用の船はいつの間には無くなってしまいました。坂手港は土庄港と並ぶ2大旅客ターミナルでしたが、20年ぶりに訪れた坂手港はずいぶんとさびれてしまった漢字を受けました。小豆島というと「二十四の瞳」の舞台で有名ですが、作者の坪井栄の生家跡が坂手港の近くにありました。建物はなくなってしまい、庭だけが残されていますが、高台で眺めの良い場所でした。二十四の瞳は2度映画化され、それぞれのヒロインの像が作られていますが、筆者は土庄港にある像が好きです。

 
 
 
 坂手港から北に向かって最初に出会うのが島で最大と思われるマルキン醤油の工場です。広大な工場内には古い醤油蔵から近代的な生産工場まであり、醤油を絞る現役工場も覗けますが、金属のタンクが並ぶだけで味気がありません。味と言えば、構内のお土産屋で売られている醤油ソフトは安曇野のワサビ田で食べたワサビソフトと同様に意外といけることでしょうか。

 
 
 
 
 
 マルキン醤油の工場から海岸線に沿って幾つもの醤油蔵が立ち並び、醤(ひしお)の郷と呼ばれています。醤油蔵に交じって、小豆島唯一の造り酒屋の蔵もありました。金両醤油の前にある広場には、醤油絞りに使われた石がオブジェのように並べられていました。この辺りは大きな古民家も残っていて、醤油関連で財をなしたのでしょうか。

 
 
 
 
 安田大川の手前を川の上流に向かって1km程も入っていくとヤマロク醤油で、こちらは伝統的な木桶を使った仕込みが行われています。醤油蔵の中も見学ができて、マルキン醤油でのガッカリを打ち消してくれます。ただ、安定した品質で大量生産をするには、金属タンクが優れているそうで、木桶による生産は製品にばらつきが出るそうです。ただ、それだけに味わい深い醤油が」生まれる要素を持っているように思います。全国にある木桶は2,000あまりでその半分がヤマロク醤油和はじめとする小豆島の醤油屋さんで使われているのだそおです。このヤマロク醤油の手前に栄光寺というお寺があり、境内には仏足石も置かれていましたが、このお寺の石塀がりっぱでした、小豆島の特産でしょうか。

 
 
 
 
 ヤマロク醤油から安田大川の左岸を海に向けて折り返し、バス停の安田に向かいます。こちらにも醤油蔵が多く、土蔵造りと黒カビで真っ黒になった板壁の町並みが続きます。町並みの好感度からすると、こちらの町並みの方が絵になるような気がします。バス停近くまで戻ってくると、バス通りの手前に玉姫神社があります、祭神は玉依比売(たまよりひめ)でミコをお祭りしたものだそうです。南北朝時代に足利尊氏の味方し、後に軟調に寝返ったとされる塩飽初冬を本拠とする地方豪族の佐々木信綱の廟が境内になりました。説明文に佐々木信綱とあって、あの歌人の?と思いましたが、明治から昭和にかけて活躍した佐佐木信綱とは同姓同名の別人でした。.

 醤油づくりで金属のタンクを使った安定的な品質の醤油がいいか、杉樽を使った伝統的で品質にばらつきはあるけれど、より味のある醤油がいいか悩ましいところです。企業として安定生産を行うには前者でしょうが、木樽生産の醤油にも需要があることは、多くの工場が現役であることから推定できます。木樽の寿命は100年程度ということで、今から10年ほど前には今ある木樽が朽ちてしまうと後が無いという危機的な状況だったそうです。そこで紹介したヤマロク醤油の山本さんが立ち上がり、全国で唯一の製桶所に出向いて修行をし、小豆島に製桶所を立ち上げたのだそうです。伝統製法は工業製品ではない杉の桶や季候などに品質が左右されるでしょうが、これらのファクタってすべてが数値化できるんでしょうか、AIとて入力情報が無ければ、最適解は出せそうにありません。

大阪城の石垣にも使われた小豆島の特産の花崗岩や安山岩は中山千枚田の護岸になり、池田では神社の祭礼の観客席の桟敷に使われていました

2024-07-14 08:00:00 | 日本の町並み
 比叡山の里坊が数多くある坂本には京都の町並みでも珍しくなった犬矢来やばったり床机が残っていましたが、古民家にも穴太衆の仕事と思われる石垣のある民家の風景も目立っていました。石垣は、傾斜のある土地の土留めには必要欠くべからずの土木技術ですが、狭い日本で「耕して天に至る」と言われる棚田も土留めとして石垣が組まれます。この棚田は各地に残りますが、今回は小豆島の中山千枚田と、同じ石垣技術の野外劇場の階段状の観客席として石垣が積まれた池田の桟敷の周りを紹介します。

 農村歌舞伎の舞台や千枚田があるのは中山地区と言って、小豆島の高松や岡山からの入口になっている土庄港から中山経由池田行という一日に5本しかないバスで20分と少しという不便なところ、一方の池田の桟敷はそのバスの終点近くで、池田も高松からの船が着く港で、バス便の数は20本程と格段に便利です。

 
 
 土庄港からのバスはどんどん山の中に入っていき20ほどで春日神社前で下車しますと、目の板壁がの尊歌舞伎の背面でした。舞台を回り込んで鳥居を越えるとその先が神社で神社にむかった上り坂が観客席になった居ます。農村歌舞伎は毎年10月に講演されるそうでs、訪問した時は人の気配すなく、舞台の正面は板戸で閉められています、しかし隙間から中を覗くと、回り舞台らしい切り欠きが見えました。実はこのバスのルートには肥土山農村歌舞伎という舞台も存在するのですが、一度バスを降りてしまうと次は数時間待ちといった所では一か所に絞らざるを得ませんでした。

 

 農村歌舞伎の舞台のある神社から山の上手に向かって折り重なるように連なっているのが千枚田で、実はバス停の下の方にも続いていました。こんな傾斜地で農作業をするのはさぞや苦労妥当と思いますが、少し上ったあたりに天皇皇后両陛下下中山ご視察地という石柱がありました、平成16年においでになったのだそうです。

 
 
 
 
 中山を経由するバスの終点の池田の少し手前のバス停で下車し、池田港の東に張り出した岬に向けて南下すると、江戸時代に重税に苦しめられていた農民の窮状を江戸幕府に直訴をして処刑されてしまった平井兵左衛門を弔う五輪塔があったり、古い町並みが残っていたりします。そこを通り抜けたところに、池田の桟敷があります。亀山八幡宮の観覧席として、島特産の花崗岩を積み上げたもので、海に向かってローマの円形劇場の観覧席のような形で伸びあがって居ます。上ってみると、上がるにつれて景色が広がっていいのですが、一段の高さは意外と高くて、かなり往生します。この観覧席は、現在でも秋祭りの見物席として利用されているそうです。

 花崗岩は別名を御影石と言いますが、六甲山の南にある地名の御影が名前の由来だそうですが、御影石の中には花崗岩でないものも含まれているのだそうです。地球上ではごくありふれた岩石で、どこにでもありますが、地球以外の太陽系では、ほとんど見出せないのだそうで、これは花崗岩の生成に水が関与するためだそうです。荒い斑点のある花崗岩には、多くの鉱物が含まれ、中には水晶やトパーズ、トルマリンなどを含む場合があるそうです。トルマリンと言えば別名を電気石と呼ばれ、結晶を加熱すると電気を帯びるための命名のようです。このために、トルマリンを用いた健康製品が多数作られましたが、どれも根拠に乏しいものでした。加熱して発電に使う、というほどのものでもなさそうです。

比叡山の麓の坂本と言えば比叡山の里坊や日吉神社など有名な神社仏閣が並びますが穴太衆の積んだ石垣の連なる古民家の町並みも魅力的です

2024-06-30 08:00:00 | 日本の町並み
 猫の島というキャッチフレーズで観光客を誘致しましたが、猫にはあまりお目にかかれず、斜面に張り付いた古民家を支える石垣が見事だったのが高松の沖合に浮かぶ男木島でした。男木島の石垣は斜面を支えるものでしたが、天守閣などの盛土をを支えるには石垣が必須で、この石垣を積む技術に長けた集団が穴太衆でしした。今回は、この穴太衆が積んだ石垣が町中に残る比叡山の麓の坂本の町並みを紹介します。

 坂本の里坊は、京阪電車の坂本駅の西に広がっており、西の端に日吉神社があります。ただ、今回紹介するのは、これらの場所よりずっと駅の近くで京阪線をまたぐ東西両側と、駅から北に延びる横小路と呼ばれるあたりの古民家や神社、それに小さな祠などが点在するエリアです。

 
 
 京阪電車を降りて出口を出ると目に飛び込んでくるのは左手の石垣で、坂本は石垣の町なのかなと思ってしまいます。右手には茶畑があって、これは最澄が中国から持ち帰った茶の種を植えた場所で、日本最古の茶畑なのだそうです。通りに出ると、左手方向にダラダラ坂があって、はるか先には日吉神社があると思われます。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 日吉神社には向かわずに、すぐに左手に曲がって線路に平行に南に行くことにします。右手にすぐ現れるのが手打ちの蕎麦屋さんで、さらに進むと古民家が連なります。古民家の間に福成神社や榊神社の鳥居が現れます。榊原神社を行き過ぎて左手に京阪の踏切を越えても右手にも神社があって、北陸にある石動に縁があるという石動神社があります。榊原神社の手前の福成神社の角を左に降りてやはり京阪の踏切を越えると、明良地蔵尊と明良弁天が並んでいます。東に向けて緩やかな下りになっていて、通りに面して石垣が積まれた家が目立ちます。駅の南側を左回りにぐるりと回ってきて、駅に戻る手前、東側の大通りに面した建物が公人屋敷で、江戸時代に僧侶の身分でありながら苗字台頭を許され地域のまとめ役を務めた公人の屋敷の遺構です。

 
 
 
 
 
 次は、駅を少し西に行って北に入った横小路です。通りの左手の西側は里坊の寺院が連なっていますが、右手には古民家が残っています。この道路が里坊の境界のような形です。石垣のある家や、茅葺の家まで残っています。驚いたのは、京都の町家のシンボルのような「犬矢来(いぬやらい」と「ばったり床机(しょうぎ)」を隣り合う民家で見つけました。この二つは京都でもあまり見かけなくなってしまった町家を象徴するもので、すごく貴重な風景でした。


 ばったり床机は、格子戸などの前に作られて、使わない時には跳ね上げて邪魔にならないようにし、天板の裏に組み込まれた足を出して下ろした時には床机となるものです。商店では、床机の後ろの格子戸を開けて店頭の接客エリアとして使ったそうです。一方、犬矢来は、道路に直接に接する家屋の格子戸を道路からの泥や犬の小便から守るためのガードとして作られたものだそうです。どちらも狭い町中で空間をうまく使ったりガードしたりの工夫の結果生まれたもので、狭い空間を多用途に使いまわす日本文化の産物の一つです。使いまわすといえば、小さなスマホ一つに、あらゆる機能を集約して使いまわすのは、日本文化をまねたのかもしれませんね。たしかに便利にはなりますが、スマホの場合はリスク分散の意味からはあまりいただけないように思います。