シャツのほころび涙のかけら

昔よく聞いたNSPのタイトルを拝借。…趣味や日常を綴っています。基本はガンバレ自分!時々覗いてみてください。

三浦半島・城ヶ島(2)

2013-02-13 | お出かけ

(つづき)二日目の朝、昨夜の件があったのでI山さんから胃と腸の薬をいただいた。朝食も普通に食べてみた。しばらく経って何ともないので“復活!”ということにした。

港の方に黒い群れがたくさん浮かんでいた。何だろう?順に飛び立っていった。

しばらくすると、(多分この大群だと思うのだが)我々の頭の上を覆うようにバサバサと飛んでいった。けっこう近くだったので驚いた。I山さん曰くウミウだろうとのこと。

朝日が射してくると暖かくなる。空気もキレイだし気持ちが良い。
昨日のプチ散歩ではすぐに薄暗くなったので、再度プチ散歩に行くことにした。
(I山さんは早朝から釣っているのに、お気軽で申し訳ない。)

変わった形の岩礁が続く。後で調べてみると、これは三崎層(約1,200~4,000万年前に堆積した凝灰質シルトとスコリア質凝灰岩の互層)という岩質のようだ。


白っぽい岩は、雪国での春、道路脇に残る雪の固まりを思い出す。

 

ホテルをまわってしばらく進むと灯台入口の看板。昨夜照らされた灯りも見たしこれは上らないとね!たいした高さではなかったもののハアハアと。キレイな灯台だった。

●城ヶ島灯台
明治3年(1870年)9月に西洋式灯台として設置された。レンガ造円形の灯台は大正12年の関東大震災により倒壊し、大正15年に改装されたのが現在の灯台。永く相模灘を照らし続けている。
地面から灯台頂部まで約11.5m。水面から灯火まで約30mとのこと。

調べてみると、西洋式灯台の設置は幕末の頃、浦賀水道航行のため諸外国の灯台建設の求めに応じたもので、日本で最初の西洋式灯台である観音埼灯台(1869年2月)、野島埼灯台(1869年12月)、品川灯台(1870年3月)、そして城ヶ島灯台と順に設置された。

灯台の一段下がった所は様式の公園になっており、「海への祈り」という像があった。子供とお父さん?何を祈っているのだろう。

 

灯台付近は眺めが良い。外洋に向かうたくさんの船舶。何だろ?釣り?

トビも人も海を見る?下の電柱にとまるトビの背中を少し斜め上から見るなんて!これも初めてのことだな。そういえば、ここのトビは低い所を飛んでいた。

 

釣り場に戻ると、目の前に小さなイワシの群れが泳いでいた。キラキラと光っていた。
昼過ぎに出発の予定でいたのだが、11時をまわってから「最後に磯から投げよう!」と釣り道具を持って移動。
海はキレイだった。1時間ほど近場も丹念に探る・・・。

帰りは城ヶ島大橋を戻って三浦縦貫道路に向かう。連休なので車が多い。一部土産物屋渋滞もあった。驚いたのは反対車線の混み方。橋の料金所から延々と続く、途切れたのは三浦縦貫道路の長いトンネルの手前あたり。およそ10キロは渋滞していたと思う。

一本道でどこにも逃げられない。我々が出発する1時前で城ヶ島の駐車場はどこもほぼ満車状態だったし、三崎港のお店や各所も同じようなものだろう。
この時間に反対車線で渋滞中の方たちが三崎港なり城ヶ島にたどり着くのは夕方近くになるのでは?そして帰りも間違いなく渋滞で・・・と他人毎ながら可哀そうになったサ。

我々は順調に進み、午後3時半過ぎには家に着いた。後片付けをしてコタツに入ると・・・何て温かいのだろう!録画していた番組を1時間見ることもできずにスヤスヤ。
お風呂に入って、晩酌に熱燗を飲んで夕飯食べたらまたスヤスヤ。
布団ってあったかいな~と思いながらスヤスヤ。
自然の厳しさを肌で感じ、何でもない日常の有り難さを知る。感謝!

ところで、釣果の方は数匹釣れたが持ち帰りサイズには至らなかった。我々の周りが入れ替わり立ち替わりだったのも、皆さん玉砕されたからだろう。
I山さんもアレコレ仕掛けを変えながら試みてはいたが、こんなに釣れないのは初めてだと言っていた。この2日間は魚がこなかったのだ(と思うことにした)。
昨夜のパトロールのお巡りさんが言っていた。「情報仕入れて、毎週通わないと分からないんですよね~」だって。無理だ。

以上、真冬の車中一泊釣行日記でした。

コメント (6)
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