*椎名泉水作・演出 公式サイトはこちら KAAT神奈川芸術劇場大ホール 9日で終了(1,2,3,4,5,6,6`,7,8,9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19,20)
2004年春、STスポットで旗揚げしたstudio saltが20回めの本公演を、これまででもっとも大きな劇場で行うことになった。地元横浜を拠点にこつこつと積み上げてきた実績が認められての躍進だ。実はKAATには前回いつ足を運んだのか思い出せないくらいなじみが薄く、慣れない劇場ゆえの不安と緊張はあるものの、客席やロビーにもどこかしら晴れがましい雰囲気が漂い、嬉しい観劇となった。
数脚のベンチ、左右の階段を上がるとオブジェらしきものがあり、足元には小さな花々など、一目で公園とわかる舞台である。高い天井、左右の広さを活かした舞台美術だ(小林奈月舞台美術)。開演前からすでにベンチで眠っているホームレスらしき男がおり、幕開けが近づくにつれて一人二人と俳優が板につき、観客を少しずつ舞台にいざなう。
前半は、この公園にやってきてはまた去る人々の様子が点描される。前回のマグカル劇場とのコラボである『2016ver.7-僕らの七日目は、毎日やってくる-』は別として、今回の出演者は劇団員、客演含め16名の大人数だ。それらの人物すべてについてキャラを書き分け、背景や友だちや夫婦関係などもかなりわかりやすく描かれている。関係のない者どうしが、何等かのきっかけで知り合い、孤立しがちな現代にゆるやかなコミュニティが形成される様相を描く物語かと想像した。
後半、舞台の様相は一変している。原発事故が起こり、あたり一帯が立入禁止区域になったというのである。しかし前半で登場した人々のうちのほとんどが避難せず、この公園を「村」として共同生活をはじめた。放射能被害が深刻に懸念されるにも関わらず、避難しないどころか、わざわざそこに集まってくるというのだ。この発想が本作の肝である。
タイトルの「ノド」とは、旧約聖書の創世記に登場する弟殺しのカインが追放されて行き着いたエデンの東の地を指す。人々を日常から追放した最大の要因は原発事故による放射能被害であるが、危険な場所に敢えて住み続ける人々は、暴力を振るう夫、ホームレスになった境遇、家族同様の飼い猫を見失った生活など、思うに任せぬ人生から逃れてきた。原発事故が引き金になって、それまでの日常から新しい場所を探しているとも考えられる。
折しも復興省大臣が、原発事故による自主避難を余儀なくされた方々に対して、「本人の責任」と暴言を吐いたことが議論を呼んでいるが、そうした世相を反映したものではなく、震災と原発事故を重要なモチーフにはしているが、人の営みのもっと根底にある「楽園を希求する気持ち」と、「楽園はどこかにきっとある」と言い切れない現実のあわいを描いていると思われた。
出演者のなかでは、前半はホームレスで、高校生たちからおもしろ半分に暴力を振るわれていたが、後半では公園村の村長となる男性を演じる浅生礼史が出色である。深刻な事態において自己の役割に気づき、適性と能力を発揮しているものの、人々を支配し、権力者として振る舞う面も垣間見せ、天気のいい日はボラを釣る』での牧師など、善人になりきれず、弱さや狡さを併せ持つ人物を演じると、浅生は得も言われぬ胡散臭い雰囲気を醸し出す。彼がなぜホームレスになったのかなど、過去はほとんど語られないにも関わらず、後半の彼の振る舞いをみていると、そうとうに複雑な背景を感じさせる。
その一方で、たとえば暴力夫とその妻、妻の友人については、妻を暴力で支配しながら妻に依存している幼稚な夫という構図がややもすると類型的である。同様に、いつも一緒にいる少年ふたりは、精神的な障害を持つと思われる少年を、もう一人が執拗にいじめている。後半では、ずっと好きだった少女が学校の教師とのあいだに子どもをみごもってしまい、彼は子どもの父親になりたいと真剣な決意を打ち明けるほどの優しさを示しながら、あいかわらず友だちへの暴力的な行為をやめない。
こうした人間の心や行為の矛盾や、一筋縄ではゆかない相手との関係などを示すとき、決してたくさんの場面や台詞が必要なわけではない。たとえば永井愛作の『萩家の三姉妹』における次女とその夫の関係である。夫婦の内実が示されるのは、過去にこんなことがあった、あんなことを言われたという説明ではなく、話題は夫の靴だの桜草の世話だの、そのときに互いの「パパ」「ママ」と呼び合う言い方や、表情の動きなのである。
今回の『ノドの楽園』は、スタジオソルトにとって大きな節目の作品であると同時に、もっと深められる可能性を秘めている。安直に続編や改訂版を期待するわけではなく、今後の作品をいよいよ楽しみに待ちたい。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます