*公式サイトはこちら 新橋演舞場 25日まで (ブログの新派観劇記録はこちら→1,2,3,4,5 番外編的にこちらに少々)
「鶴八鶴次郎」につづいて、2本めの「京舞」(北條秀司作 大場正昭、成瀬芳一演出)のことも書いてみます。
今年のはじめ、同じ新派公演で『明治一代女』をみた。お正月公演ということもあって、二代目水谷八重子と波乃久里子の新派に対する溢れるような愛情と熱意に頭が下がる思いであった。しかしながらこのおふたりがいなくなったあと、新派という劇団、生み出してきた舞台はどう継承されるのかを考えざるを得なかった。今回の『鶴八~』では、中村勘九郎と中村七之助きょうだいが初参加し、新鮮な風を呼び込んだことで舞台が新しく生まれ変わった。またお叱りを承知で言えば、この作品には八重子と久里子が出演しなかったことにも新鮮味の理由があるのではないかと思われた。何と失礼なことを。
さて『京舞』には新派大看板のおふたりが堂々の共演をする。
どうなるか。
結論から言うと観劇前の懸念はすべて杞憂であり、大変失礼なことであった。
大正8年、三代目井上八千代こと片山春子(八重子)は82歳の高齢ながら舞の名手としての心意気は一向に衰えず、門弟たちからは鬼と恐れられている。春子の内弟子である愛子(久里子)も「使いものにならないから返す」と叱責された。泣きじゃくりながら芸の不出来を詫び、女中どうように家のなかで働きながら、懸命に精進を続ける。春子怖さに押し入れに隠れ、真夜中にこっそり這い出して、一心不乱に稽古をする愛子をいじらしく思い、春子の孫で能楽師の博通(勘九郎)は、買ってきたパンを差し出す。
愛子はおそらく十代の娘である。久里子が演じるにはどうみても無理がある。久里子は声は決して若い娘のように高い声ではなく、むしろかすれ声であるし、小柄で華奢な体型でもない。しかし何とも言えない愛嬌と謙虚な感じ(役柄、ご本人両方から醸し出されるものか)があって、必死で「子守り」のうしろ返りを繰りかえす様子や、博通からもらったパンを半泣きでほおばるところなど、可愛らしくいじらしい。いやもういいではないかと納得してしまうのである。
つづく第二幕では一気に20年近い年月が過ぎている。愛子は博通の妻になり、井上宗家の奥さまである。春子がふたりを夫婦にしたいと話す前幕をみて、森本薫の『女の一生』に似ていると思ったが、結婚にいたるまでのあれこれや夫婦の機微は描かれていない。この幕の眼目は、水谷八重子が演じる100歳の片山春子である。一幕よりもさらに年を取って足腰の衰えは著しく、わがまま勝手ぶりも強くなっている。とぼけた老女の味わいが、いったん踊ると決めるや一変、舞の名手に変貌する。100歳の春子を演じるにはたくさんの技術や工夫が必要であろうが、八重子は技巧を出さない。まったく見事と言うほかはなく、独壇場とはこのことであろう。
久里子が娘を演じること、八重子が100歳の老人を演じること。どちらにも無理があり、いわゆるリアリズムという面からみれば不自然なことである。しかしおふたりは単純な若づくりや老いのつくりではなく、自然不自然を超越した造形をみせるのだ。これが歌舞伎、新劇と交わってきた新派の芸の力であり、魅力なのであろうか。
近藤正臣は、片山家と親しい万亭のあるじを演じる。短い出番なのだが、物語の空気になじみ、粋と色気をほんの少しみせるところなど心憎く、みていてとても気持ちがよいものであった。ちょうど一年前、近藤は劇団桟敷童子公演『紅小僧』に客演した。スズナリのあの小さな舞台にも、小劇場の町下北沢にも違和感なく溶け込み、楽しんでいる様子が気持ちがよかった。この気持ちよさは新橋演舞場の新派の舞台でも感じられ、作品とそれを作る人々に心身を素直にあずけることのできる俳優さんなのだろう。
歌舞伎、新劇、新派はこれからも大いに交わり、伝統を重んじながら新しいものをみせてほしい。伝統と革新は相いれないものではないと思う。ぶつかりあい迷いながら、たがいの芸道を尊重し、ちがう面を取り入れながらひとつの舞台を作り上げることは可能であることを、今回の追善興行で実感した。
十七代目、十八代目中村勘三郎が取り結んだ芸の縁である。
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