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まだ2度めなのに、もう通い慣れたかのような感覚が得られるのも歌舞伎座の魅力のひとつではなかろうか。
第二部は坂田藤十郎主演の『伽羅先代萩』と、片岡仁左衛門、坂東玉三郎共演の『廓文章』。
客席のスペースにゆとりがあって楽だというのが新しい歌舞伎座の特徴のひとつなのだが、3階席にはあまり反映されておらず、座席の出入りに苦労した。花道七三の位置までちゃんと見えるようになったのは嬉しいことだ。これで『勧進帳』の弁慶の飛び六法も、『助六』の登場も、以前よりはずっと楽しめるだろう。
今日の収穫は『廓文章』の魅力に気づかされたことである。1998年十五代目片岡仁左衛門襲名披露公演ではじめてみた演目で、その後数回はみているはず。しかし今回まことに新鮮で、胸が躍るようであった。まったくの不覚であり、不勉強と不明を恥じながら、何年にも渡って歌舞伎をみつづけることのできる幸福をたっぷりと味わった。
『廓文章 吉田屋』
放蕩のあまり親から勘当され、すっかり落ちぶれた藤屋の総領息子伊佐衛門(片岡仁左衛門)が、いいなずけである花魁の夕霧(坂東玉三郎)がいる吉田屋を訪れる。物乞いのような身なりでお大尽ふうにふるまう伊佐衛門に、店の若い衆は横柄だと手を挙げる。店のあるじ喜左衛門(坂東彌十郎)は長いなじみの藤屋の若旦那と認めて驚きつつ店に招き入れ、女房おきさ(片岡秀太郎)とともに、来訪を喜ぶ。恋しい夕霧が登場するが、伊左衛門がすねたり、夕霧が泣き伏したり、そこに太鼓持ち(片岡千之助)が出てきて達者にとりもったり、いろいろあって、最後には勘当がとかれ、夕霧を見受けする大金が届いてめでたしめでたし・・・。
「主演の役者ふたりの美しさを楽しむ芝居で、内容ははっきりいってどうでもよい」というのがこれまでの印象であった。べつな言い方をすれば、『熊谷陣屋』や『寺子屋』など、シリアスな内容のほうが「芝居として上等なのだ」という思いこみがあったのだ。
この夜、少なくとも2度め以上になる仁左衛門と玉三郎の『廓文章』をみながら、自分は不意に涙ぐみそうになった。観客の涙を絞るような悲しい場面もなく、痛切な内容ではまったくないにもかかわらず、である。
理由のひとつは、仁左衛門演じる伊左衛門があまりにすばらしかったからである。仁左衛門のすがたがということではなくて、いやすがたが美しいのはもちろんだが、それを上まわるまさに至芸の極みを目の当たりにしたためだ。どこがどのようにということを詳細に記す力が自分にないのは残念である。
「深刻な芝居ばかりみていては肩がこる。たまにはこういうものをみるのもいいじゃないか」と割り切るのは、ちがうように思うのである。予定調和のご都合主義のお手本のような本作が、なぜ長年にわたって上演されつづけてきたのか。美しい役者の魅力を最大限に示せるものであること、上方和事の芸を堪能できること。いや、それだけではない。
演じる役者にしても、ただすがたが美しければできるというものではぜったいにない。とくに物語の後半は踊りによって進行する長い場面があり、役柄の性根を押さえた上での踊りの技量が必要とされる。主演の役者だけではなく、喜左衛門には店のあるじらしいどっしりとした貫禄のみならず、若旦那に振り回されるおかしみが必要であり、女房おきさが「このあいだ浅草で十五代目の片岡仁左衛門さんに出会った。まんざら知らない仲でもなし」と話すときに両手をぱちゃぱちゃと鳴らすしぐさには、大店のおかみの客あしらいの巧さが伝わる。また太鼓持ち豊作を仁左衛門の孫の千之助が演じた。踊りがいっそううまくなり、しぐさや台詞にも愛嬌があって、祖父との共演を心から喜び、けんめいにつとめているようすである。
つまり舞台にいる役者ひとりひとりが、自分の持ち場を的確に把握して精魂こめて演じなければ、いい芝居にならないのである。それは本作に限らず何でもそうなのだが、とりわけこういった喜劇調の作品ほど、いっそうの心がけが必要なのではないだろうか。
しかもその努力をあからさまにみせては野暮になる。一生懸命演じつつも、みためは軽やかに楽しく。そうでなければみるほうが楽しくならない。
この物語は観客に幸福感を与える。それもささやかな控えめなものではない。たっぷりと賑々しく、輝くような幸福である。自分はこれまで『廓文章』に目だけ奪われていたのだろう。それが十数年経ってようやく、心まで奪われたということなのだ。
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