因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

第15回みつわ会公演 久保田万太郎作品其の二十二

2012-03-14 | 舞台

*大場正昭演出 六行会ホール 15日まで(1)
 文学座の龍岡晋の指導のもとに1978年に演劇集団円の有志によって生まれた「久保田万太郎勉強会」が、ステージ円公演、円小劇場を経て、1997年に「みつわ会」として公演を重ねているもの。自分は銀座みゆき館劇場で『招待状』と『釣堀にて』の2本立てをみたのが最初であろうか。そのあと六行会ホールの公演にほんの2度ばかり足を運んで以来途絶えていたところ、昨年の春からまた通うようになった。

 『十三夜』 樋口一葉の原作を久保田万太郎が脚色したもの。夫の仕打ちに苦しみ疲れて実家を訪れ、離縁状をとってほしいと懇願する娘おせきを、わが身が切り裂かれるほどの悲しみをもって受けとめ、諌める両親。
 『不幸』 関東大震災後に書かれた作品。家は火事で焼かれ、あととり息子も妻も亡くした店のあるじ。出火元をめぐる近所との諍いは収まらず、仮住まいに娘とのふたり暮しではあるが多少の落ち着きは取り戻した。妻の兄や昔からのなじみが訪れ、酒をくみかわす。

 『十三夜』 つらく悲しく、やりきれない話である。望まれて嫁いだはずなのに、夫に疎まれ日々冷たくあしらわれる。殴る蹴るの暴力こそないが、これはことばによる虐待であり、モラルハラスメントである。母親は泣いて怒るが、父親はもう一歩さきの思慮を示し、娘は泣き暮れながらも「合点が行きました」と受け入れるのである。
 原作のこの箇所は舞台にはなかったかと記憶するが、「お前が口に出さんとても親も察しる弟も察しる、涙は各自に(てんでに)分て泣かうぞ」という父親のことばは胸に痛い。
 帰り道の人力車の車夫が昔なじみの録之助であった。ほのかに想いを寄せあっていたものどうし、いまは互いにすっかり違う身の上になったことがいっそう悲しいが、おせきは彼との再会にかすかな希望を感じとる。
 おせきの大原真理子、両親の鈴木智と菅原チネ子、録之助の世古陽丸のやりとりは、台詞術を超えて温かで優しい。序盤と終盤にちらりと登場するおせきの弟(澤田和宏)は、どういう効果が求められているのだろう。

 『不幸』
 そのものずばり「不幸」とは。身も蓋もないというか、すごい題名である。
 一家に降り注いだ不運なめぐりあわせをともに嘆きながらも、あまり暗くならずに杯を重ねて娘の成長を喜ぶ。上手に置かれた雛人形が柔らかに光を放つような控えめな終幕に胸が熱くなった。ほとんど座ったきりで酒を酌み交わす芝居なのだが、あるじの義兄役の菅野菜保之を筆頭に、田島ひさし、柴崎まりこ、鷹西雅裕のベテラン勢に加え、娘役の今泉舞が頑張った。 
 しかも頑張りが強く押し出されずに、芯の強さを感じさせる風情がご本人と役柄にだぶってみえたのである。義兄が「見違えるほど大人になった」と感嘆するのがわかるほど、つまりついこのあいだまではまるで子どもだった様子までがありありと目に浮かび、父親が帰宅するまでのあいだ、伯父さんに酒や肴を出し、話をする立ち振る舞いが出過ぎず引き過ぎず、「ああ、いい娘になったな」という伯父や父親の思いが自然に伝わってくるのである。

 さまざまなことが進化したことによって、確実によくなったことはある。しかしその一方で失われたもの、気づかなくなったこともある。昔のくらしには人情味があってよかったというノスタルジーや、どちらのほうが幸福だ不幸だという比較でもない。時の流れは絶えることなく、自分の生まれるはるか以前から現在、そして自分がこの世の人生を終わってもなお続いていくことが、劇世界から伝わってくるのである。

 願わくはもっとたくさんの方々が訪れ、ぎっしり満席のにぎわいで、この世界をともに味わうことができますように。若い世代の方々にみて、演じてほしい。
 この劇世界を適切に、情緒に溺れず体現すること、着物を着て下駄や草履を履き、障子や襖の開け閉て、皿小鉢や銚子の取り扱いなどの所作事を、いまの生活様式で身につけることはむずかしいだろう。台詞のやりとりをしながら自然にみせるのはなおさらだ。龍岡晋直伝の演技を、心身両面において体現できるベテランの方々から必死で学んでおく必要があるのではないか。

 

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