*山田裕幸作・演出 下北沢OFFOFFシアター 公式サイトはこちら 公演は11日まで
今回が初見の劇団。記事にはネタばれがありますのでご注意ください。ある私立高校の教員休憩室に、非常勤講師として赴任が決まった奥田と彼と同棲している由佳里がいる。奥田は車椅子を使っており、この学校では将来社会福祉学科の設置が予定されていることもあって、採用が決まったらしい。休憩室にやっている教員や職員にも、非常勤、派遣など雇用形態がさまざまあることや、障害者についての捉え方にもいろいろあることが会話に示されている。
もう何年前になるだろうか、山田太一作のテレビドラマ『男たちの旅路』で「車輪の一歩」を見たのは?障害者と健常者(納得して使う表現ではないのだが、本稿ではとりあえず)の共生について、登場人物たちがぶつかりあい、迷いながら掴み取っていく様子は今でも生き生きと記憶に残っている。そのあと障害者が登場するドラマを何本かみたけれど、やはり自分は「車輪の一歩」に戻っていくのである。
登場人物のやりとりは極めて日常的で、ものを食べたり飲んだりの行為もそのまま描かれる。そういうベタな部分と、耳の聞こえない謎めいた清掃員が身にまとっている異質な雰囲気や、照明、音楽などによって作られる象徴的な部分がちぐはぐな印象を受けた。
前半でひとりの教員が、障害者が職場に来ることをどう思っているかがあからさまにわかる場面があり、それがたったひとことの台詞で観客に示されている。何だか惜しいと思うのである。物語は後半、奥田がなぜ障害者になったかということで、被害者と加害者というもうひとつの問題が絡み始め、複雑になってくる。学校に押しかけてきた市民運動家たちの実にイヤーな感じや、彼らに対してはじめは怯えていた派遣の職員が、次第に自分の考えをきちんと述べ始めるところには引き込まれたが、話ぜんたいが放り出されて終わったようで残念である。
結論が必要なのではない。劇世界から何かを触発され、観客に考えてみようという気持ちを起こさせる芝居もある。お芝居は終わっても人間の日常生活はずっと続いていくのだから、安易なハッピーエンドや感動の大団円が欲しいわけでもない。どうしてこの話を舞台で表現しようとしたのか。それを感じ取りたかったのである。
今回が初見の劇団。記事にはネタばれがありますのでご注意ください。ある私立高校の教員休憩室に、非常勤講師として赴任が決まった奥田と彼と同棲している由佳里がいる。奥田は車椅子を使っており、この学校では将来社会福祉学科の設置が予定されていることもあって、採用が決まったらしい。休憩室にやっている教員や職員にも、非常勤、派遣など雇用形態がさまざまあることや、障害者についての捉え方にもいろいろあることが会話に示されている。
もう何年前になるだろうか、山田太一作のテレビドラマ『男たちの旅路』で「車輪の一歩」を見たのは?障害者と健常者(納得して使う表現ではないのだが、本稿ではとりあえず)の共生について、登場人物たちがぶつかりあい、迷いながら掴み取っていく様子は今でも生き生きと記憶に残っている。そのあと障害者が登場するドラマを何本かみたけれど、やはり自分は「車輪の一歩」に戻っていくのである。
登場人物のやりとりは極めて日常的で、ものを食べたり飲んだりの行為もそのまま描かれる。そういうベタな部分と、耳の聞こえない謎めいた清掃員が身にまとっている異質な雰囲気や、照明、音楽などによって作られる象徴的な部分がちぐはぐな印象を受けた。
前半でひとりの教員が、障害者が職場に来ることをどう思っているかがあからさまにわかる場面があり、それがたったひとことの台詞で観客に示されている。何だか惜しいと思うのである。物語は後半、奥田がなぜ障害者になったかということで、被害者と加害者というもうひとつの問題が絡み始め、複雑になってくる。学校に押しかけてきた市民運動家たちの実にイヤーな感じや、彼らに対してはじめは怯えていた派遣の職員が、次第に自分の考えをきちんと述べ始めるところには引き込まれたが、話ぜんたいが放り出されて終わったようで残念である。
結論が必要なのではない。劇世界から何かを触発され、観客に考えてみようという気持ちを起こさせる芝居もある。お芝居は終わっても人間の日常生活はずっと続いていくのだから、安易なハッピーエンドや感動の大団円が欲しいわけでもない。どうしてこの話を舞台で表現しようとしたのか。それを感じ取りたかったのである。
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