*吉水恭子脚本、14,15日婦警役で出演 中村暢明演出、出演 公式サイトはこちら スペース雑遊 17日まで (1,2,3,4,5,6,7,8,9,10)
現実に起こった事件を扱った舞台が多いJACROWが挑んだのは、親による子どものネグレクトである。当日リーフレットに明記はされていないが、物語は2010年の「大阪二児餓死事件」を想起させる設定である。客席を二面にとり、中央に警察の取り調べ室、上手が被疑者(母親)宅のドアと室内、下手が担当刑事の自宅になる。夫と別れ、学校や児童相談所の呼びかけを頑なに拒む母親(松葉祥子)は、遂に玄関ドアや窓をガムテープで目張りし、6歳の娘を餓死に至らしめた。いっぽう事件を担当する刑事(谷仲恵輔)も、すれちがいのあげく妻は息子を置いて出て行き、仕事と子育てに疲れきっている。
報道番組などのノンフィクションであれば、起こった事件を問題として扱う。綿密に取材し、事件の構図、関わった人々の相関関係などを明らかにしながら、有識者の意見も聞いて、問題解決への糸口や方向性を示す。しかしこれが今回の舞台の場合、目指す地点はべつにある。現実がどうであったかという事実よりも、その事件が当事者を反映した劇中の人物が何であったかを探るものである。
たとえば本作には悪人、ヒールは登場しない。夫も妻もそれぞれの立場で苦悩し、家族への愛情ゆえに衝突し、決裂してしまう。小学校の教師も市の児童福祉課の職員も、仕事の義務や責任感だけではなく、「何とかしたい」「助けたい」の思いから、何度も家を訪問し、母親に声をかける。しかしそのひとつひとつが母親にとっては「母親なんだからちゃんとしろ」「子どもをきちんと育てろ」という強迫であり、恫喝に聞えたのである。
その人にとって、どう聞えたか、どう感じられたかを、『消失点』はさまざまな方法で丁寧にみせていく。顔のない人形を子どもに見立て、取調室を中心に、照明を切り替えることによって、母親の家や公園、刑事の自宅など複数の場と過去の場面をあざやかにみせる。また児童福祉課の女性職員が声掛けする場面を、対母親、対刑事にフラッシュバックのように描いたり、前の場では心優しく繊細な小学校教師が、同じ台詞をまるで怪物のような大声で威圧的に発したりなど、容赦なく追いつめられていく母親の心象をあぶり出していく。
答が求められているのではないこの舞台において、どう幕を閉じるか、どこに落としどころをつくるかは非常にむずかしいことである。本作にも結論は提示されていない。むろんすべての子どもは大切に愛されて育つことが望ましいのであり、虐待やネグレクトは社会ぜんたいで心を注いで防ぎ、不幸にして起こった場合も何とかしてよい方向にもっていかなければならない。
『消失点』の求める場所は、そことはちがうように思えるのである。明確でないことをもの足りないとする見方もあるだろう。しかし明確でないところが作者の誠意の表れであり、これから生みだされる新しい作品への助走、可能性として受けとめた。たとえば本作で10年ぶりに舞台出演を果たした中村暢明は、被疑者をケアした精神分析医だと名のっているが、医師というよりは怪しげな占い師的なふるまいをしており、被疑者を呼び捨てにしたり男女の関係にあったことを匂わせるものの、期待するほど物語には絡んでこない。彼をこのようなポジションに置いたことも、作者に何らかの意図があったものと想像する。
俳優陣は総じて健闘しており、吉水の作品に対して献身的に取り組んでいることが感じられる。とくに母親役の松葉祥子が表情、声ともにひりひりするほど研ぎ澄まされ、「子どもを死なせる母親」と聞いてイメージするものとはちがう、まさにこの作品でしか存在しない、懸命に母になろうとしてそうなれなかった女性を演じていた。刑事とその後輩刑事のやりとり(何かと激高する先輩を後輩がなだめる)がややパターンに感じられたり、警察署長の描き方、また小学校教師がかつて母親の虐待を見かねた近所からの通報で施設に保護されたことを告白するのだが、虐待を行政に通報するというアクションが一般化したことと、彼の年齢を考えたときに少々無理があるように感じられたり、いくつかの面であともう少し、もう一歩ずつ整え、練り上げていくことができるのではないか。
孤独な母親はさまよいつづける。その行き着く先は誰にも、作者にもわからない。しかし『消失点』の舞台には、彼女たちを見つめるまなざしが確かにある。それゆえ重苦しく解答のない終幕であってもわずかな希望を感じさせるのである。
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