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因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

名取事務所『運転免許 私の場合』

2014-01-22 | 舞台

*ポーラ・ヴォーゲル作 小川絵梨子(1,2,3,4)翻訳・演出 公式サイトはこちら 下北沢「劇」小劇場 26日で終了
 昨年春の『ピローマン』につづいて、タブーをテーマにした現代英米演劇連続上演シリーズの第二弾である。いまやぶっ飛ばす勢いの小川絵梨子、今回も快調である。
 ある女性が11歳のころから18歳までのあいだに自分に起こったこと、そのとき自分がどう感じたか、何を考えたか。そして35歳のいま、どう生きていくかを観客に語る。
 時代は1960年代、アメリカはメリーランド州の郊外の町が舞台である。
 ステージのつくりは『ピローマン』に似ていて、決して広いとは言えない演技スペースを三方から、というか二方向半のような割合で囲む。舞台には透明のテーブルと数脚の椅子があるだけだ。装置や小道具類は最小限に抑えられ、観客が目に入るものからイメージをつくることを拒んでいるかのよう。
 演技空間は主人公が運転する(運転を習う)車の座席にもなり、家族と食事をするリビングやキッチン、どこかのレストランなど、劇の進行につれて自在に変容する。回想形式をとっているが、必ずしも時系列に沿って進行するわけではなく行きつ戻りつして、ハロルド・ピンターの『背信』を想起させる。

 さてタブーをテーマにしたシリーズの第二弾である本作のタブーとは・・・。
 冒頭から車の座席に並んで座っているまだ10代の主人公リトルビット(荒木真有美)に、義理の叔父ペック(文学座の中村彰男)がただならぬふるまいをする場面が、息づまるような緊張感で示される。母親や叔母、祖父はじめ、叔父と姪の周辺の人々を男性コロス(西山聖了)、女性コロス(斉藤深雪)、若いコロス(小林亜希子)が演じ分ける。

 冒頭で早くも本作のタブーが示される。ペックはリトルビットの母の妹のつれあいであるから、ふたりは血縁のない義理の叔父と姪の関係で完全な近親相姦ではないにしても、劇の終盤近くになって、関係が彼女の11歳のときからはじまっていたことがわかり、小児性愛のタブーも加わる。

 叔父ペックを演じる中村彰男がすごい。文学座の座歴も長く、中堅以上といっていいくらいのキャリアの持ち主だ。その経験値やもともとの資質すべてを注入し、ある意味ではすべてを投げ捨てるかのような造形である。色白の優男風だが、何やら危なげな風情が漂う。ずっと以前文学座公演『野分立つ』で、主人公(倉野章子)の大学生の息子役を演じたとき、寝たきりの祖母が自分のつれあいと嫁とのあいだを疑って、孫の自分に「確かめろ」と訴えると語る場面があった。こういうアブないことを言わせると、この俳優さんは絶品の魅力を発揮する・・・。

 ではこの叔父さんが単なるロリコンの中年変態男かというと、どうもそうではないらしいのだ。それは彼自身の様子だけでなく、叔父に対するリトルビットのふるまいからも感じられる。しかしふたりは愛しあっているという確信ももてない。愛とも呼べない愛、いわく言いがたい心とからだの交わりなのだ。自分は最後まで叔父と彼女がどういう人なのか、互いのほんとうの気持ちがどうなのかを判断できなかった。 

 わからないことや理解しにくいことは、単純に考えるとマイナスである。しかし本作の魅力は観客に最後まで答をみせないところにあるのではないか。もしかすると演出によっては、「そうなのか!」と合点がゆく見せ方をするかもしれない。だが小川絵梨子は緻密に戯曲を読み解き、台詞のひと言ひと言、俳優の微妙な表情の変化や小さな所作のひとつひとつに対して慎重に方向づけをする。想像だが。
 ちがう日に観劇した知り合いが、「小川さんは緻密だ。演出の時点で人物のジャッジをしないから、観客は自分を高みに置いて見物できない」と話していた。その通りだと思う。

「演出の時点で」。このことばをずっと考えている。これは演出とは何か、演出家の役割とは何かという問いかけである。戯曲を読めば、どこまでが劇作家の指定で演出家の手がどこから加わっているのか、すべてとは言わないまでもある程度はわかるだろう。しかし小川絵梨子は、劇作家の主張を観客に解説したり、理解の道筋の提示を目的にはしていないのではないだろうか。

 ラストシーンで主人公は目の覚めるように鮮やかなブルーのコートを颯爽と身にまとい、同じ色のパンプスに履き替えて軽やかに大地に立つ。彼女はすべてを乗り越え、清々しい気持ちでこれからの人生を歩もうとしているのか。そう願いたいけれども、明るいブルーのコートで運転席につく彼女のうしろに叔父ペックがたたずんでおり、その表情が読めないのだ。

 本作はひとりの女の子が成長して一人前の女性になるまでを、運転技術の習得になぞらえている。自分は車の運転をまったくしないため、このあたりの妙を感じとることはできなかったのは残念だが、一年の最初の月に刺激的な意欲作に出会えたのは嬉しい。ぜひこの調子で。

 

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