*アントン・チェーホフ作 神西清翻訳 黒澤世莉演出 公式サイトはこちら 王子小劇場 23日まで
『三人姉妹』を初めて読んだのは高校生のときだ。「演劇ならチェーホフ」と意気込んで手に取ったのが新潮文庫、神西清訳の『三人姉妹』であった。登場人物の名前が覚えにくく、しかも一人に呼び方がいくつもある。戯曲を読みながら何度も最初の人物紹介ページに戻らなければならず、早々に投げ出してしまった。
あれから今日まで、いろいろな『三人姉妹』の舞台をみた。物語の流れがわかり、人物関係も把握できると戯曲を読み返すのもおもしろく、自分なりの手応えを得られるようになる。場所や時代の設定を変えたものや作り手がテーマから触発されて大胆に脚色したものよりも、きっちり作った舞台のほうが好きである。しかし古色蒼然とした演出であると、話を知っているだけに客席にいるのが辛くなる。「どんな話なのか」よりも、この人物はどんな心を抱いているかを知りたい。俳優のちょっとした表情の動き、からだの向き、台詞の言い方ひとつで舞台の空気が変わる。同じ台詞がこの前の『三人姉妹』とは違う響きで聞こえてくる。うちに帰って戯曲を読み直す。その繰り返しが楽しくてならない。
☆舞台の詳細を書けるほど筆が温まっておりませんが、念のため。これからご覧になる方はこのあたりからご注意くださいませ☆
いつのまにか「オーリャは生真面目な長女タイプだし、女優の実年齢が多少高くても許せる。マーシャはたいていその座組でいちばんキレイな女優さんがやるもの。」などなどといった固定イメージができてしまっている。また自分の好きな「きっちり作った舞台」は、いわゆる新劇系に近いとも言える。時間堂の『三人姉妹』は神西清翻訳の戯曲に対して、ほんとうにまじめに取り組んでおり、その上に自分たちの色を丁寧に塗り重ねている印象。新劇でも翻案でも外国人演出家の舞台でもない、時間堂だけの『三人姉妹』であった。
春分の日だというのに、冷たい雨であった。しかし心は満たされて帰路に着く。また『三人姉妹』を読み直す。いくつかの舞台をみたのちに時間堂に出会えたことは幸運であった。だがもし高校生のときにみていたら、果たして自分はどう感じただろうか?
『三人姉妹』を初めて読んだのは高校生のときだ。「演劇ならチェーホフ」と意気込んで手に取ったのが新潮文庫、神西清訳の『三人姉妹』であった。登場人物の名前が覚えにくく、しかも一人に呼び方がいくつもある。戯曲を読みながら何度も最初の人物紹介ページに戻らなければならず、早々に投げ出してしまった。
あれから今日まで、いろいろな『三人姉妹』の舞台をみた。物語の流れがわかり、人物関係も把握できると戯曲を読み返すのもおもしろく、自分なりの手応えを得られるようになる。場所や時代の設定を変えたものや作り手がテーマから触発されて大胆に脚色したものよりも、きっちり作った舞台のほうが好きである。しかし古色蒼然とした演出であると、話を知っているだけに客席にいるのが辛くなる。「どんな話なのか」よりも、この人物はどんな心を抱いているかを知りたい。俳優のちょっとした表情の動き、からだの向き、台詞の言い方ひとつで舞台の空気が変わる。同じ台詞がこの前の『三人姉妹』とは違う響きで聞こえてくる。うちに帰って戯曲を読み直す。その繰り返しが楽しくてならない。
☆舞台の詳細を書けるほど筆が温まっておりませんが、念のため。これからご覧になる方はこのあたりからご注意くださいませ☆
いつのまにか「オーリャは生真面目な長女タイプだし、女優の実年齢が多少高くても許せる。マーシャはたいていその座組でいちばんキレイな女優さんがやるもの。」などなどといった固定イメージができてしまっている。また自分の好きな「きっちり作った舞台」は、いわゆる新劇系に近いとも言える。時間堂の『三人姉妹』は神西清翻訳の戯曲に対して、ほんとうにまじめに取り組んでおり、その上に自分たちの色を丁寧に塗り重ねている印象。新劇でも翻案でも外国人演出家の舞台でもない、時間堂だけの『三人姉妹』であった。
春分の日だというのに、冷たい雨であった。しかし心は満たされて帰路に着く。また『三人姉妹』を読み直す。いくつかの舞台をみたのちに時間堂に出会えたことは幸運であった。だがもし高校生のときにみていたら、果たして自分はどう感じただろうか?
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